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九つ井の謎 (九つ井・横浜店ダイジェスト追加) [隠れ郷土史]

と話は「九つ井」のある田谷の隣町に飛びます。長尾台町という地です。
越後長男家の発祥の地でもある。そこの御霊神社内に「長尾氏居館跡」の案内板があり、そのちょっと南に大船の玉縄城の出城だった「長尾砦跡」の案内板がある。
長尾氏居館跡の五霊神社.jpg長尾氏居館跡.jpg長尾砦跡.jpg
鎌倉市考古編、長尾台塁の図を見ると、南に平戸山とあるのが見えますか。
この平戸山はその名の通り、「九つ井」の主人、平戸御前のいた山ではないだろうか。
長尾台塁1.jpg長尾台塁2.jpg
九つ井と長尾台の位置関係はこんな感じです。ほとんど地続きの山、高台のようです。
(九つ井は私有地なので、だいたいこの辺りという表示にとどめます)
田谷と長尾台周辺地図.jpg
前の記事で、田谷の裏山を案内してくれた、もと俣野小学校教師のお婆さんが何気に教えてくれた平戸御前の正体・・・「平戸御前って女性がいた・・・」
このオドロキ!!オドロキ!.jpgオドロキ!.jpgオドロキ!.jpg南斗聖拳最後の将が女性(ユリア)だったと同様の衝撃を受けた。
その先の呟きも聞き逃さなかった。
「・・・玉縄の三代目の奥さんなんだけどさ・・・」
玉縄城三代目城主夫人?

玉縄城方面(清泉女学院正門).jpg玉縄城は現在、清泉女学院(左写真)の敷地なので入ることはできません。
三代目城主は、北条綱成という人。
駿河の福島氏の出身で北条氏に婿入り。「河越夜戦」では八万の大軍に囲まれたが籠城戦を戦い抜いた。
2006年の大河ドラマでは石橋保さんという若手俳優が演じていた。



川越城攻防戦.jpg玉縄三代・北条綱成.jpg
平戸御前とは誰だ?.jpg平戸御前が北条綱成夫人だったとして、何故、玉縄城を出てこの地に移ったのか。
綱成は天正15年に亡くなっている。未亡人になって隠棲したのかも知れない。
そしてこの辺りの地理関係。九つ井~平戸山~長尾台砦~玉縄城・・・
これは何を意味しているのか。





私は学者じゃないので、史実やその方面の諸研究と違っていたらご容赦願いたいのだが。。。
平戸の館は玉縄城と相対してとあるが、長尾砦と同様、地続きで玉縄城の外郭、防衛ラインだった。同じ城塞といっていいのではないか。
平戸御前は女性で北条一門だった。平戸氏という豪族がここにいたのではないと思う。
(平戸氏という豪族がいたとしたら、そこから嫁いできたという考察の余地はある)
私を案内してくれた〇井さんは「九つ井」の番人で、〇井氏は北条家の被官だった。
株式会社九つ井が、ただ一つ残る井戸や番人の子孫たる〇井氏のことを、会社概要で全く触れてないのは、個人宅、私有地への配慮かと思う。

真偽の程はさておき、私の推理は以上です。
〇井さんのお宅へ再度「平戸御前って女性?玉縄城主夫人?」って訊いてきてもいいんだけど、あまりお騒がせしてもどうかと。そっとしておきましょう。

「九つ井」は子供の頃、夏休みの自由研究だった。
2011年晩夏、自分のBlogにUpしてみたが、30数年振りに再訪したその風景は当時とそれほど変わらず。
稲穂が青々と実り、湧き水多い田谷というところです。
かつて九つあった?谷戸の奥の最後の井戸は、今も人知れず湧き出ているようです。
九つ井2.jpg九つ井3.jpg
訪れる酔狂な方は、私有地でもあるので節度や配慮ある訪問をお願いしますね。

そして。。。
「九つ井 横浜店」です。
横浜店は地下にある.jpg処理済~店内1.jpg処理済~店内2.jpg
ノンアルコールビール.jpgこの日はノロノロ台風12号の影響で蒸し暑かった。
「おしぼりは冷たい方がよろしいですか?」[わーい(嬉しい顔)]
「冷たい氷入りのお冷や、すぐお持ちしますね」[わーい(嬉しい顔)]
ノンアルコールビールあるかい?
「はぁいございます」[わーい(嬉しい顔)]
こう言っちゃぁ何だが、満面の造り笑いに近い接客だった。まぁそれでヨシ。


もりそばです。あっ、私、蕎麦通でも何でもありません。普通に美味しいですよ。
もりそば1.jpgもりそば2.jpg
お品書き見ると、牛刺身とかステーキとか、だし巻卵やサラダ各種、野菜スープとかもある。
地下ということもあって隠れ居酒屋的なムードだった。
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コメント 10

横G

今回も良い意味でのジャンキー振りですね(^.^)b

何せ30数年来の内容ですもんね(;^_^A
by 横G (2011-09-02 07:54) 

船山史家

30数年来ですよ。この日、ジャン妻は休日出勤で、私は一人することなくてブラっと探索に出たらこういう結果になりました。
でも史実の裏づけはないですよ。調べてもいいけど。そこまでしなくてもいいかなって。

この日は暑かったのですが、地元の商店や人様の家々の門を叩き、ブシツケに訊ねながら探索したのですが、5家ほど訊いたんですよ。いきなり訊かれて最初は「!!」ってなった方がいました。変な訪問販売かと思われたかもね。
by 船山史家 (2011-09-03 07:58) 

みく

こんにちは。はじめてお邪魔します。

いつも何も考えずに「九つ井」で食事していましたが、
田屋の九つ井にはこんないわれがあるんですね。
暑い中の探索、どんなに大変だったでしょう。
ジャンキーさんのブログ、書籍化されてもいいと思いますよ、マジで(*゚▽゚)ノ

先日、○助に行ってきました。
やっぱり九つ井の方がうんと美味しいですね。
あまり混んでいなかったし、2軒があまりに近くなのでちょっと損してるかな?って感想です。

そうそ、離れのインクラインはまったく知りませんでした。
途中にある厨房から運んでいるとばかり思っていましたけど、大勢の時とか使用するのでしょうか?

by みく (2011-09-03 15:51) 

船山史家

ほっこり温泉のみくさま。ようこそお出で下さいました。
いつもそちらでは地元ネタでお世話になっております。
地元の「九つ井」ですが、今回はお蕎麦屋さんではなく、埋もれた史実、郷土史に重点置いてUpしました。
震災さえなければ法事で離れを借りていたので、グルメネタになったと思います。

この日は暑かった。田谷のバス停で大船行のバス待ちしながら、自販機で購入した水をアタマっからドボドボ被ったら通行人にヘンな目で見られました。
八百屋の奥さん、民家のオバさん、〇井家のご子孫、田谷洞窟受付の女性、長尾台バス停前の雑貨屋のオバさん、そして鎌を持ったお婆さん、都合、6人の方々に案内を乞いました。商店ではちゃんと何かしら買いましたよ。一期一会のなかなか濃い1日だったです。

「〇助」より「九つ井」に軍配が挙がりましたか。
インクラインの道は「〇助」の裏にも繋がってますよね。「九つ井」の向こうを張るなんて大した店だとは思いますが。
私は離れのインクラインが稼動しているのは見てないのですが、確かに山の途中に厨房がありましたよね。
まぁ離れはコース料理限定なので、そんな凝った調理する料理は下からインクラインで運んでるんだと思いますけど。
でも昨日今日みたいな大雨、大風の日はどうするんでしょうね。
またよろしくお願いしますね。
by 船山史家 (2011-09-04 22:06) 

みみん

ジャンキーさん、こんばんは☆
夏休みでのんびりしてて出遅れました〜@^^@

濃い〜九つ井のお話、興味深く拝見いたしました!
暑い中、おつかれさまでした!!!
私も九つの井戸があったとしか知らなかったので、まだその井戸が残っているとは驚きました。
自然豊かな所ですね。写真見ながら癒されました〜♪

平戸御前さんも実在した方なのですね。
私は最初から女性と思って読んでいたので、ジャンキーさんが『女性だったとは!』と驚かれているのを逆に驚きました(笑)
静御前とか「御前」とつくと女性かな?と思っていましたので。違うのかな?

こういう郷土史は調べると面白そうですね。
でも根気と忍耐が必要そうですが^^;
私は根気も忍耐も無いので、そこはジャンキーさんにお任せします!
私は拝見するだけにしておきます(^0^)

九つ井は私も法事でしか利用したことがありません。
30人以上いたので、すごく大きな古民家で囲炉裏がいくつも切ってあった離れでした。トイレも中にありました。

我が家族は親戚の間でも飲ん兵衛で有名なので、その時も相当飲みましたっけ@^^@
もちろん、お腹満腹になるまで食べました♪

横浜店は行ったことないのですが、ここもまた良さそうですね。
今度行ってみたいと思います♪
情報ありがとうございました♪♪♪

そういえば田谷の洞窟、大人になってから行ったら、また違った印象で良かったです。
子供の頃は怖いだけでしたが、消えいりそうな蝋燭を片手に眺めた壁の仏像様のお姿は感慨深いものでした。
やはりこちらも鎌倉時代に掘られたものなのですね。




by みみん (2011-09-05 19:05) 

船山史家

みみんさんどーも。遅めの昼休み中です。
今回の九つ井探訪は、何とか1日の取材で結論まで行けてよかったです。

でも未だ疑問、未完の謎があります。

「井戸が九つあった」もしくは「湧き出る泉が多かった」と伝わっていますが、今残るこの井戸は、いつから「九つ井」最後の一つになっちゃったのだろうか。

他の井戸たちは何処にあったのだろうか。

〇井さんが井戸の管理人の子孫なら、今の井戸の場所は「水の手郭」だったのだろうか。
そうだとすると、この井戸は高台の麓にあるので、この水の手を絶たれたら落城は必至なんですね。

でもまぁこれくらいにしておきましょうか。

私は平戸御前さんは男性だと思ってました。実力者で引退したけど、まだ藩内に隠然たる影響を持つご隠居(先代藩主の末弟とか)がいたのかなぁとかね。

こういう郷土史は調べると面白いんだけど、ある程度のヒマと(^^;、根気と忍耐、時間が要かなと。それと訪ねる勇気かな。

御前の正体を教えてくれたお婆さんと、田谷洞窟裏山にある”パワースポット?”を散策したんですが、そのネタは稿を改めます。その婆さんは一過言あって「あの洞窟は鎌倉時代に掘られたって言われてるけどさぁ。。。」なんて言ってましたよ。

いつか、落ち着いたら「九つ井」の離れで食事をしてみたいもの。横浜店は地下にあるのですが、無理して凝りに凝った内装でしたよ。
by 船山史家 (2011-09-06 13:24) 

お名前(必須)

船山様

はじめまして。このように長らく探索してくださってた方がいたことに、まず驚きと感動、深い感謝に厚く御礼を申し上げるべきで、ありがとうございます。おそらくわたくしどもが関係しているであろうことをご紹介していただき、参考にもなりました。

>(平戸氏という豪族がいたとしたら、そこから嫁いできたという考察の余地はある)
その説が同じ見解です。

います。時下、北条勢力と共に後に東部へ移動したため、おそらく玉縄方面より、現在の東戸塚の地名、平戸(平戸村)に在る経路を以下に記しときます。

おそらく、その経緯をもっと遡れば現在の長崎、平戸(松浦)に一部改名、古代朝廷、また桓武系の系譜(家紋も無関係ではなく)海上貿易、水軍に特化してた点からもあるかと思われますが、鎌倉幕府と海上を通し流入が先に早くに多くあったとおもわれます。

その証拠に松浦氏直系方々が鎌倉におられます。(肥前の焼き物ももっと多く残っていたかとおもわれますが)一部、鎌倉からの出土品にもあり確認してました。

幕府の戦乱に現在も遺産が多くが残っているのが難しい様を「寿福寺」のご住職が深いご理解にお話を伺え改めて思いました。

船山様の長けた参考資料は元より、自己も仮説ともいえぬ、近年、玉縄城からの導線ラインより、北条勢力が東へと磯子寄りの東京湾を主とした防衛ラインの要としてまず、東戸塚、平戸、(現)平戸国道(旧東海道)を要とし現在の久良岐(久良岐郡)へ管轄もあり拡がり移動して行った。それを話していたところ、たまたまか?聞いたのか?上記について実証してくれてた歴史研究家の方がちょうどいらして確信できましたが、なにより船山様の先に長けたご厚意からもいい機会となりました。

山号:平戸山(玉縄・植木〜長尾台)もあるように、後に江戸時代に東戸塚(平戸村:平戸)ー久良木方面へ(北条陣屋跡あり)

後の徳川勢力にも全く無関係でもなかったかと、平戸村に鷹狩りと称して来てた際に残る地名も近隣にあります。日光の杉は、玉縄(植木)地名にも残る時の城下町に抱えていた植木職人らが多い地区で、徳川政権下時分に玉縄から植栽されていたという説も残りあるようです。

北鎌倉の玄関口として(当時は時の権力者達がこれだけ集中した湾に迫り出す古城)は立地から海上水運に強かった点からも含めて脅威に得たかったのでしょう。

「九つ井戸」にも店名にあり感謝のしようがありません。船山様よりご紹介いただいた現在も護ってくださる北条家臣であられる方、平戸御前の地へは、御礼に再度伺う予定です。区役所からも時々、身内に問い合わせがあり、江戸時代の頃の資料しかなさそうだったので?色々自分も解り、本当に心より御礼申し上げます。
by お名前(必須) (2017-08-27 12:45) 

船山史家

お名前必須さん(笑)こんにちは。
更新を停止した過去Blogなもので、コメントのチェックが遅れがちですみません。
今見直しても恥ずかしい文体、文調なのに、見て下さりありがとうございます。
自分50代ですが、九つ井は小学校の自由研究に端を発しています。その頃は「水の手」のような城郭専門用語も知らず、井戸に番人が要るのかなと思っていました。水泥棒対策だったのかも。
井戸は谷戸にあるので、館の水の手郭としては防御が弱いと思うのです。

本文中では伏字になっておりますが、案内して下さった方はその子孫ということになっております。その家と蕎麦屋の九つ井の関係が判明したところまでで散策をSTOPしました。以後は足を向けておりませんが、唯一つ残る井戸に向かう道の途中に、左手の丘へ登る獣道があって、そこから長尾砦に直結しているようなのが今でも気になっています。私有地に見えたのでそこには踏み込んでいませんが。
でもあの辺りもいつかは宅地化しちゃうでしょうね。

平戸御前のルーツありがとうございます。九州の豪族ですね。寿福寺ですか。源氏山ですね。
久良木郡の陣屋とはもしかして北条幻庵の関係でしょうか。
>北鎌倉の玄関口として、当時は時の権力者達が集中した湾に迫り出す古城・・・
そうですそうです。九つ井のある田谷、館のあった?長尾台、そして玉縄城(学校内部は気軽に立ち入れませんが、周囲の散策路も少し整備されたようですね。)、そして大船の辺りは中世の頃に入り江だったそうで、平戸氏はそこから入港したか、他を経由して来たのでしょうか。
でも下山治久氏著の「横浜の戦国武士たち」の人命索引に平戸姓は無いのです。
謎です。未完のままです。

この九つ井散策には姉妹譚があります。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-09-23-2
平戸御前は女性だよと教えてくれた婆さんとの散策記事です。
九つ井、十三塚、最近、遠州掛川に十九首という地があり、将門一行が討たれた場所であり、今年の大河、井伊直虎の許嫁だった井伊直親一行十九名が討たれた場所とも。
数字が付いた場所、地名には、何がしかの言い伝えがあるようです。

これ、九つ井本館、離れのグルメ記事です。
Ⅱからは写真のサイズを大きくしたので、この記事の井戸写真も若干見やすくなっています。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-04-23
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2014-04-24

ご訪問ありがとうございました。
by 船山史家 (2017-08-30 06:11) 

お名前(必須)

ご返信いただきありがとうございます。
小学生の頃からとはありがたく!!

あの城跡一帯が小田原城同様、武将達の要として伐たれ激戦地でもあったことから、どこもかと思いますが。歴代の歴史に上書きされ、より混在して余計解りづくらなっている所なのだなとは。

長尾のご指摘も気になったのですが、そちらまではまだよく解らず。

おそらくもっと早くに海上交易でいたところ、戦国武将の混乱に巻き込まれたか?または、鎌倉幕府の頃の交易でか。おっしゃる通り、当時の大船を含めて、最古の湊、和田湾等も。

いづれも源氏、徳川政権下では北条政権すら関東一大築城の進んでいた驚異には触れられいないところ、珍しく先日やっとTVでも特集され冷静な歴史家の方がその点で特集してくれたようで同様に述べてくれてましたが・・・。

単に九州が地理的にどうしたって先に海運貿易上、水軍統括にも長けていた点もまったく歴史上では触れられてませんから、源氏中心の鎌倉史にはないと資料も戦乱でかなり少ないと思います。

その傍らで、しっかり平戸松浦の痕跡が鎌倉寄りに集中してあったので、後にやっと西の加勢は、北条政権までも含め徳川下の東では触れられないのだなと。先住民でおそらくいたから地名にはしっかりあるかと単純に思われますが・・・。そこも謎なんですが?!

玉縄城の防衛ラインに当時、水軍要塞地としての流入も、九州や紀州からの鉄器技術集団が相州相模国へもたらした鍛冶伝来からの側面も思います。それもなぜかあまり触れられませんが・・・。

いづれにせよ、後の今の東京湾の防衛に里美勢力の防衛として東南に北条勢力が邁進してった事は確かで、そこともなぜだか動線がつながり謎なのですが・・・。おっしゃる通りの幻庵の関係で陣屋が置かれたところは確かなようです。

長尾の方は今度また見てみます。
水番人様方には前に、歴史家より長けたご資料の船山様のおかげでお会いできました。
感動の本当にありがとうございます!!!!!
あの一帯も都心からの移住者が宅地開発で周囲は増えたようで、流石に中世資料までは解らない方が多いようです。

歴史家より長けたご資料に敬服

by お名前(必須) (2018-01-31 01:42) 

船山史家

お名前必須さん(笑)半年ぶりにこんにちは。
歴史家なんてトンデモない。単なるヒマ人ですよ。
現在でも平戸御前の正体がわかりません。7年前の散策時のお婆さんは「玉縄城の北条綱成の奥さん」と言っていましたが「横浜の戦国武士たち」には、北条綱成が玉縄三代目の城主、綱成の嫡男である氏繁が四代目城主、氏繁の母は北条氏綱の娘大頂院殿とだけ。平戸御前が九州平戸氏に繋がる方かどうかわからないのです。
あれから引っかかった情報としては、
大船=粟船、やはり船が出入りしていたらしいということ。
>九州や紀州からの鉄器技術集団が相州相模国へもたらした鍛冶伝来・・・
大船の西、藤沢方面に大鋸という地名があります。鋸とつくからには船大工がいたのではないかと。

大船が中世に湊だった裏付けがいまいち取れない代わりに、東の東京湾に目を向けて、神奈川湊、金沢湊、追浜の近くにある榎戸湊(現在は埋め立てられているようです。)、そして浦賀湊、そこに船を寄せたのではないかと。(大型船が出入りできたかどうか。)
海上権を巡って房総の里見氏と衝突は避けられないですね。

>玉縄城の防衛ライン・・・水軍要塞地としての流入・・・
これについてですが、玉縄本城が女学校の敷地なので軽々しく入れないものですから、周辺の丘陵に目を付けたことがあります。
大船から湘南モノレールでひと駅めの富士見町駅の近くに天神山という山があって、
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/2017-11-05-1
ここを烽火台、物見を置いたとしたら、仮想敵軍は南から来る里見氏以外に考えらられない。玉縄城周囲の物見が小田原本城のある西を睨む必要はないですからね。
では里見軍はどんな手段で来るのか。陸路かも知れませんが船団の可能性もあります。やはりこの辺りは入り江だったのでしょう。すぐ近くに洲崎という地名もありますから。ただ、洲、ですから、大型船は出入りできたかどうかわかりません。
鎌倉市の史料にも玉縄城のものはちゃんとありましたが、防衛ラインは後世の学者さん?がMAPにマジックで殴り書きしてありました。そのMAPを見ると柏尾川流域は湾に見えてくるから不思議なものです。史料が無いかわりに幾らでも想像できるからそれはそれで楽しいです。

九つ井がある田谷町、長尾台町も新興住宅が増えてきました。ひとりウチの女性社員が長尾台在住で昨年春にさいたま市に嫁いだのですが、その子の退職の手続きを私がするハメになり「そういえばこの子は長尾台にいたんだな」と思いだし「でも九つ井なんて知らないだろうな、知ってても名前を冠した蕎麦懐石ぐらいは知ってるかな」と感慨にふけりましたが。

九つ井の水番人さんのご子孫にお会いできましたか。
井戸には行かれましたか。
by 船山史家 (2018-02-03 08:51) 

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