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田部原館 [盛秀と盛継(会津)]

説明版.jpg会津田島から「湯神」へ向かうルートで大川に架かる橋が工事中で、会津鉄道に沿った旧道を走っていた時に偶然見つけた。
水無川を会津鉄道と並行して渡った先、坂を上った辺りに方形単郭の館があった。
田部原館というこの館は、阿賀川に水無川が合流する角っこに面していて高さ10mほどの段の端にある。会津鉄道の田島高校前駅の北にあります。



唯一の虎口.jpg土橋.jpg
この写真は昨年の晩秋時のものだが、館内は雑草が少なく見通しが良い林で、緩いながらも起伏がよく見えている。
小さな虎口と土橋があって、土橋の両脇はちょこっとだけ石垣で固めている。丸い石。近くの川原から運んで来たんだろ。
土塁上や面にもいくつも石が転がっており、礫用の石でなければ土塁の補強用でしょう。きちんと石積みが成されていたのかも。
土塁が延びている2.jpg土塁が延びている3.jpg
石がゴロゴロ.jpg郭内をウロつくジャン妻.jpg
田部原館は四角い形の単郭だが、100m×100mはなくそれ以下。
北側と西側は河岸の段地形で人工的な防御壁は薄い感がする。
東側と南側は台地続きで堀で区切ってある。掘は土砂で埋まっているけど、昔はもっと深かったのではないか。
ジャン妻は何かを探しているかみたいに地面を見ながらウロついている。何を探しているのだろう。
金目のモノでも物色してるのだろうか。。。
土橋を渡ったジャン妻.jpg南側の堀1.jpg
南側の堀2.jpg南側の堀3.jpg
結構深かったかも.jpg東側を見る.jpg
虎口は南側の一箇所だけだったようです。全体的に殆ど直線的なので、防御面は脆弱な感じがします。

田部原館を望む.jpgでは誰がいたのか。
わからないのですよこれが。
鴫山城の築城以前の鎌倉時代のものとか、結城白川氏や蘆名氏が、鴫山城攻撃の際の陣城だったという説も。
鴫山城にいた長沼氏の隠居所だろうか。
長沼盛秀さんの配下の誰かだろうか。「盛秀と盛継」シリーズはアクセス数が悪くてねぇ。昨日、ようやくにして終章になりましたが、主人公、長沼盛秀さんの重臣で架空の人物、田部原治郎右衛門雅盛というキャラが登場しましたが、彼の館だったのかも知れない。


田部原地図.jpg
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盛秀と盛継 第十一話 ~EPILOGUEと後日譚~ [盛秀と盛継(会津)]

摺上原で蘆名軍が伊達軍に惨敗し、黒川を占拠されたのが、天正十七年(1589年)の6月と伝わる。
これは大戦なので間違い無い。
私の手元に三冊の史料①②③があって、①には7月7日、伊北梁取城攻防、7月9日、伊北和泉田城攻防、7月9日駒戸合戦となっていて(駒戸とは駒止峠のことらしい)、6月の摺上原直後に奥会津に攻め入ったとして辻褄が合う。合うのだがこの資料①には久川城攻めが簡潔に記されてはいるものの、和泉田城の直後に駒戸合戦が起きていてそれは同日の7月9日。久川城攻防戦の日付が抜けているのです。
もう一つの史料②には、久川城攻撃は天正十七年(1589年)八月二十八日~とはっきり書いてある。ところが、伊南川の河原を埋め尽くした長沼盛秀&伊達軍の数は数千人、鉄砲千丁とあるから凄い。
数千人は多過ぎないか。千五百人と仮定して①に②を加えて書き進めたのが第九話と第十話です。
資料③は物語形式で面白い。盛継が金井沢佐衛門佐の女房をかどわかした場面と和泉田城の脱出劇はこの資料③による。
だが、③では摺上原の後、雪解けを待って和泉田城攻撃が開始されたように記述されている。
雪解け?それだとこの一連の戦闘は、摺上原の翌年、天正十八年の春以降になってしまう。天正十八年の伊達政宗は北条氏の小田原城を包囲する太閤秀吉から召喚命令を受けるので、奥会津の小戦闘どころではなかった筈である。しかもよく知られているように岩下志麻さんが演じた実母、保春院に毒殺されかけ、弟小次郎を粛清し、ギリギリのタイミングで小田原に参陣。そのタイミングで伊達軍の奥会津侵攻は停止した。

だが、天正十八年の項で、資料①に次のような記載がある。。。
『天正十八年三月十六日会津大豆渡村に於いて長沼河原田の合戦。長沼盛秀、河原田盛継討ち死にす。両家とも文治五年に会津、大沼、下野塩谷、宗原、阿沼、越後魚沼の内を領す。今四百二年にして亡ぶ』
これはどういうことなのだろうか。
文中にある”大豆渡村”とは現在の国道289号線、細井家資料館近くと思われます。この記載は会津坂下町の塔寺八幡宮に伝わる古記録「異本長帳」という古文書なのだが、二人は伊達に関係なく戦争をおっ始めたらしく、しかも盛秀、盛継とも“討ち死に”とある。
両大将討ち死にとは異様である。
犬猿の仲とはいえ両討死とは尋常ではない。大体、総大将がその場で討死した合戦なんてそうそうない。東海の今川義元の桶狭間、肥前の竜造寺隆信の沖田畷ぐらいなもの。

この二人は伊達の思惑から離れて私戦、喧嘩相手に戻っちゃったのだが、①②③とはまた別の資料に、天正十八年三月に田島に攻め入ったのは河原田大膳盛勝という人で、長沼盛秀は迎え撃ち大豆渡村で合戦。河原田大膳討ち死に。長沼盛秀は負傷し、その傷がもとで間もなく死去したというもの。
ちょっと不明な点だらけなので、この大豆渡合戦はどのような戦闘場面だったのか書きようがない。南会津戦記録、「盛秀と盛継」シリーズ最終話は、主人公長沼盛秀と河原田盛継の台詞、言葉を聞くことなく、ここで唐突に終わる。
二人には何か黒い宿命、運命のようなものを感じる。

では小説から史実に立ち返る。長沼氏の系図ではどうなっているのだろうか。
長沼盛秀の死に関しては「天正中卒す」とだけあり“戦死”なんて書かれていないそうです。ただ、“急死”であったと。突然だったらしい。
太閤秀吉の「奥州仕置」で会津に蒲生氏郷が入国して来る。盛秀の遺児、長男福国、次男盛重、三男九郎左衛門の兄弟は伊達家に従って米沢に移住していく。
長沼家は伊達家中で存続した。三兄弟で長男福国は伊達家中での上席たる“召出家”に昇進して七百石。
本文中にも登場した二男盛重は、孫致貞の代の“永代着座”に列し千五百石の家老級に昇進。この家が鎌倉期末から所持された家祖、安芸権守宗実以来の古文書を伝えた。
三男九郎左衛門も“召出家”に列し仙台藩の中堅家臣として続く。
(伊達家、仙台藩では、上級家臣を一門、一家、一族、準一家、着座、太刀上、大番の七つに分けられているのだが、“召出家”とは外様から準譜代並になった上級家臣のことだろうか)
長沼家は伊達家中で譜代の家臣並になったとみていいのではないか。それは盛秀がせっせと働いた賜物でしょう。

次に河原田盛継が“討死”しなかったと仮定した諸説、異説について。
盛継は秀吉が会津に下向すると聞き、下野国宇都宮まで出向いたが謁見ができず、秀吉の「奥州仕置」の結果、盛次は伊南を没収された。夫人の実家、伊北の山ノ内家もそう。
奥会津の戦闘は、秀吉の目から見たら、仲の悪い旧蘆名家臣同士の私戦闘にしか見えなかったのだ。
盛継は日を経ずして病没したとも、盛秀同様に大豆渡での戦傷がもとで死去したとも、伊南を去って越後の上杉氏を頼った後、天正十九年正月に病死したともいう。

では「奥州仕置」の後、河原田一党はどうなったか。
摺上原で惨敗して実家の佐竹氏へ逃げ帰った蘆名義広を頼った河原田一族(縫殿之助?)がいて、彼らは佐竹氏の秋田移封に伴って出羽国角館(現:秋田県仙北市)に移った。
伊南へ残った一党もいる。五十嵐和泉道正と宮床一族はおそらくは伊南に残って帰農したと思われるが、彼ら河原田旧臣は、久川城を改修した蒲生氏郷と諍いを起こしたようです。
(五十嵐和泉道正には戦死説もあり、一子、道忠が生き残ったという説もある。)
通称、源助といった伊南光盛も実在の人物で、河原田盛継が所領を失った後は出羽の最上義光を頼った。だが後に義光と不和になって武士を捨て、何かの工芸で生計を立てたという。

残る会津四家の一家、山ノ内氏勝(盛継夫人の兄)も伊達軍の猛攻に耐えてはね返すのだが、結局は秀吉に所領を没収される。この山ノ内氏勝は今回の「盛秀と盛継」では名前のみしか登場しないが、興味深い箇所が多々あるのでそれはいつか別項に改めたいと思います。

その後、田島、伊南の支配は、蒲生氏→上杉氏→加藤氏→保科(松平)と続く過程で、江戸時代に幕府天領「天領御蔵入」となる。田島VS伊南、長沼VS河原田の構図も薄れていったのではないだろうか。

幕末の会津藩に河原田治部という人物が突然現れる。おそらくは盛継の末裔でしょう。
諱を信盛といったこの人は藩命で蝦夷北方の警備にあたっていたのだが、鳥羽伏見の敗戦を知り独断で会津へ戻って藩主、松平容保公に直談判し、南会津で兵を纏めた。
河原田治部の16歳の嫡男が包彦、諱は信俊というのだが、伊南の農民たちはこの包彦のもとにも結集、慶応四年(1868年)五月、会津藩が桧枝岐に集結して、上州沼田街道からの新政府軍に対抗した戸倉戦争に参戦した。この部隊には旧山ノ内家、河原田家の旧臣たちの末裔が多い。五十嵐姓もある。
親が親なら子も子というか河原田家の血統なのだろうか。新たに力で支配しようとするものには徹底して抗戦する気概が培われて来たのだろうか。
鴫山城模型.jpg久川城4.jpg
私は長沼盛秀の鴫山城と、河原田盛継の久川城、それぞれ2回訪れています。
鴫山城の詳細は、麓にある旧南会津郡役所に詳しい。
久川城の前にも資料館があるが普段は閉館状態。中には河原田盛継の肖像画があるという。伊達政宗に喧嘩を売った盛継さんはどんなツラしてるのだろうか。一度、見てみたいものです。
田島は鴫山城、古町では久川城、この二城を誇りにしています。
長沼盛秀一族の墓群は会津田島の徳昌寺にあるという。私は未だ未訪です。
河原田盛継の墓所はわからない。新潟県の何処かにあるのではないだろうか。
会津の稲穂.jpg最後に一遍の情景を記す。
久川城の激戦から翌年、多々石峠に木沢玄蕃老が佇んでいる。
この峠で只一度だけ邂逅した盛秀も、己が二代仕えた河原田家もこの地から去った。玄蕃老は盛秀、盛継と、鬼籍に入った武士、農民どもの為に祈る毎日でもある。
東の田島、西の伊南も戦の傷は癒えて瑞々しい郷に戻った。
今は雪と水の恵、山と川の郷である。
多々石郷を知行した実在の人物らしいが、玄蕃老のその後はわからない。
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盛秀と盛継 第十話 ~伊南、駒戸崩れ~ [盛秀と盛継(会津)]

側面から檜枝岐衆の銃隊に射撃され、左翼の田島勢と伊達家中、草野備中の手勢は死傷者が続出した。
桧枝岐軍の銃隊は三十人~四十人で二段構えになっていた。平野部ならもう一段、三段目が必要かもだが、攻める側は川を半ば渡河している。足場の悪い川への狙い撃ちは二段でも次の装填が間に合った。檜枝岐軍の狙いは驚くほど正確であった。
「盛継めにあんな数の銃隊があったのか。。。」
(感心している場合ではない)
治郎右衛門は渡河を止め、軍勢を左へ、南へ向けるべく使番を走らせた。
新手は側面、手の届く場所にいる。四度目の銃声の後、大喚声を上げて河原田本軍は伊南源助を先頭に、河原にいる左翼の田島勢、伊達軍の草野備中勢へ襲いかかった。
「南に備えよ。軍を左へ反転させよ」盛秀は叫んだ。
左翼の草野隊と田島勢は河原から川の半ばで迎え撃ったが、渡河して戻ろうとする者と、これから渡河しようとする者が河原や堤でぶつかって芋を洗うようになり、後退できずウロウロしている者は狙い撃ちされた。
左翼は白兵戦で乱戦になっている。やはり地の理を知った河原田勢に利がある。“斬る”のではなく、槍や刀で打つ、叩く、ブン殴るといった乱打戦になった。

盛秀は戦況を見ている。
(盛継、戻って来おったか。。。)
あと少しであったものを。だが不思議と動揺がないのだ。
この戦闘は、盛継が舘岩から戻るまでに何処まで攻め入れるかが争点だったが、軍監の屋代勘解由が自ら出張ったと知った瞬間、またあの野郎が好き放題に撫で斬りをされたら・・・と思い、思考がそっちへ向いたちょうどそこへ駆けつけてきた盛継のおかげで、何やら妙な安堵感がちょっとだけあるような気がした。
(では俺はいったい、何をしているのだ)
だが、考えている時間はそうない。

久川城内では駆けつけてきた盛継とその本隊が見える。兵どもは大歓声を上げた。
盛継の乳母は狂喜して盛継夫人に駆け寄った。
「お方様。あれ、あのように盛継様が・・・」
「遅い・・・あの馬鹿亭主・・・」
「お方様、今、なんと?」
「なんでも・・・」
夫人は未明から張りつめていた気が緩み、その場に崩れ落ちて気を失ってしまった。

左翼の崩れを屋代勘解由は渡河半ばで目撃した。川の上流から硝煙が吹いてくる。
「盛秀め。ヤツの策とやらもそれほど効果がなかったではないか」と罵った。左翼の混乱を見ながら「なんたるマズい戦になったか」と唸った。
兵を左翼に増援させんとしたが、川の流れと逆行するのと、自らが越えてきた背後の堤が混乱して後退できないのである。
そこへ「背後に敵あり。勘解由殿、伏兵に退路を断たれました。その数二百」
「たかの知れた小勢ではないか。反転して突破せよ」
土手の背後から河原田佐馬允吉次の手勢が土手に這い上がろうとする勘解由の兵を河原に押している。
「敵を伊南川に追い落とせ」
佐馬允は叫ぶ。既に小桧山某という者の首級を挙げている。
伊達軍は河原を北へ崩れつつある。だがその先には右翼で渡河せんとする柴田但馬の軍勢がジャマになった。
右翼の柴田但馬は左翼、中央の崩れを見て渡河を途中で断念し、後方から迂回しようとしたが、四段目を放って装填した檜枝岐の銃隊と弓隊が柴田軍の迂回先正面と東側に回り、包み込むように矢玉で迎え撃った。
この方面の数は柴田勢三百、檜枝岐勢百五十&河原田軍だったが、飛び道具の正確さで柴田勢を圧倒し、将の但馬は肩を負傷して後方へ引いた。
「今だぁっ!!」五十嵐和泉の号令一下、久川城中から一旦は城内に引いた宮床兵庫介、杢右衛門を先頭に、宮床四郎右衛門、只見大炊介、馬場弥次右衛門、大桃右京ら百人が討って出た。戦局は完全に逆転し、地の理を知った河原田衆に有利に展開していく。
中央の伊達軍は川半ばで総崩れになり、伊波川の流れに沿って北へ敗走している。屋代勘解由は遅れた。後退できないのでいっそこのまま正面の久川城へ攻め入るかと思った矢先に城中から討手が現れ、河原に取り残された。
「退くな、敵は小勢だぞっ」
雪崩を打って敗走しつつある兵どもを叱咤するが、そこへ正面から声がかかった。
「伊達の軍監殿、逃げ遅れたか」
三人の騎馬武者が浅瀬に立っている。
「名乗れ」
「和泉田の残党、宮床一族よ」
宮床兵庫介、杢右衛門、四郎右衛門である。さすがの屋代勘解由も全身が凍った。
(和泉田城の残党どもか)
三人とも眦が吊り上り、火の如き目で睨みつけている。
「忘れたとは言わさぬ。よくも和泉田で我らが身内を・・・」宮床衆がそこまで言ったのは記憶があるが次の瞬間、兜に流れ弾が弾けて衝撃で目が眩み、勘解由は川中に転落した。

乱戦の中、盛継は盛秀を探している。治郎右衛門と次男、盛重は本陣の危険を察知して立ちはだかった。
「御屋形、ここは危のうござる」
「親父殿、お引きあれ」
盛秀に形成逆転された実感は薄い。だが北へ退却しようにも河原田佐馬允の軍勢が中央を塞いでしまった。一旦、東へ抜けて北方へ逃れるしか手はない。
そこへ懐かしくも聞き覚えがある大喝が響いた。
「盛秀っ!!」
馬上で振り向いた盛秀の視線の先には、
「盛継っ!!」
最後に会ったのはいつだったか。二人して席次を下げられた蘆名義広の婚礼以来であろうか。犬猿の両者久々の再会は、ここ伊南の戦場で会いまみえた。
「久しいの。盛秀」
盛秀は盛継に話しかけて無視された記憶はあるが、向こうから話しかけられた記憶はない。初めてではないか。
「盛継、蘆名に義理立てするのも大概にせんかっ。貴様など、どうあがいても伊達には勝てぬぞっ」
「笑止よの。伊達の走狗に成り下がって今日まで生を貪っただけで何を言うか。お前は俺が先年くれてやった二張の弓でも引いとれっ!!」
「なっ!!」
本当は一番言われたくない台詞を、一番言って欲しくないヤツに言われた盛秀はアタマに血が昇った。
「ヤツを討ち取れっ」
湯野上から大内を治める小野丹波が手勢を引き連れて立ち向かったがそれが殿(シンガリ)となった。暴れる盛秀を治郎右衛門と源太佐衛門、次男の盛重が引きずっていく。

川に転落した屋代勘解由は水中で意識が戻った。顔を水面から出したが両耳に水が入って殆ど聞こえない。
(まだ生きている・・・)
意識を失う前、自分の前に立ちはだかった宮床の武士をかろうじて味方の兵が食い止めている。
水の中を這って逃げた。鎧が重い。何度も立ち上がっては滑っての繰り返しで川の水を相当飲んだ。顔面を洗う川の渦が、和泉田城で撫で斬った城兵の顔に重なって慄然とした。
「勘解由殿っ、草野備中にござる。我が手勢の馬をお使いあれ」
勘解由は全身濡らしながら総崩れとなった味方に紛れ、北へ逃げた。

伊達軍と長沼軍は北へ、古町方面へ引いた。追撃戦は酉の刻まで続いたが、陽が落ちる頃、盛継は追撃を停止させた。
久川城中、大歓声で迎えられた。真っ先に留守中の城将格だった五十嵐和泉を見舞った。
「和泉、大事ないか」
「遅うござりまする。某は大事ござらぬ」
「顔が赤いではないか」
「傷と熱で気が高ぶりましてな。御屋形の顔を見たらまた熱がぶり返してきたようで。あれだけの大軍を寡兵で防ぐのは慣れてござる」
これは和泉田城が玉砕したことへの皮肉なのだが、単純な盛継には伝わらなかった。
「もう休んでもよろしいですかな」
「もう大丈夫だ。養生せよ。兵庫たち、その方らその傷で討って出たのか」
「お方様に叱咤されまして・・・」兵庫の応えに笑いが起こった。「いや、冗談にござる。我ら和泉田の仇を討たんものと・・・」
「和泉田の仇は討てたのか」
「幾らかは。それよりも御屋形の留守中、未明から差配されたのはお方様にござる。お声を・・・」
「差し出がましいこと。奥が城内を差配したのか」
その盛継夫人は盛継を出迎え、キッと睨みつけて盛継の顔を軽く張った。そしてすがって泣き崩れた。
「お前さま・・・阿波が・・・阿波が・・・」
(阿波の爺は死んだか・・・)
芳賀阿波に救出された宮床衆がうなだれた。
しばしの沈黙の後、「爺は幾つだったかな」
答えるものはいない。盛継は苦笑した。
「俺も知らないが誰も知らないのか。だが阿波も本懐であろう。阿波や討死した者の為に黙祷せよ」
その後で盛継は、援軍の檜枝岐衆を改めて引見した。恩賞など与えるものはそうないので、関守の星備中に税を緩める旨を約束した。
傷兵の手当てや哨戒、次の戦闘配備の慌ただしい最中、盛継は源助を呼んだ。
「家中でもっとも夜目の効く者は誰だ?その方か?」
「某よりは只見大炊介でしょうか」
只見大炊介はその名の通り、盛継の義兄、山ノ内氏勝の治める只見の出身で、盛継夫人が嫁ぐ時に付けられて来た家臣である。
盛継は大炊介を呼んで、何事か命じた。

古町の先まで引いた田島勢と伊達軍は、そこで敗残の兵を収容したが、散々の呈であった。
「源太佐衛門、我が田島勢の損害はどれくらいだ?」
「討死か行方不明が五十余人、手負いが百余人でござる。だが御屋形、伊達殿の損害はもっと大きいようで」
伊達軍は討死が百余人、手負いが二百余人であるという。
「御屋形」
「なんだ治郎右衛。その方だけ怪我しとらんな」
その皮肉には応えず、「伊達の本陣から軍監殿がお呼びにござる」
(来たか・・・)
この度の作戦の祖語で盛秀は嫌味の一つ二つ言われるのは覚悟していたが、盛秀にしてみれば、伊達軍が後詰を繰り出すのが遅かったからではないかと思うのだ。
次男、盛重は心配顔である。
「親父殿、行かない方がよくはないでしょうか」
「行かずばなるまいよ。案ずるな。我らも血を流している。俺を殺しても彼らには益はない」

濡れた衣を着替えた屋代勘解由と梅津藤兵衛は黒川(会津若松)から届いた伊達政宗の書状に見入っていた。
「伊南から撤退せよ」という。
「勘解由殿、公は上方の情勢を気にしておられる。この戦も私戦とみなされ、太閤とやらの惣無事令(大名間の私闘を禁ずる法令)に触れるというのだ」
「上方が何ぞ。太閤とは何者ぞ。我ら今ここで領土を南へ拡張せずして何とする」
「勘解由殿、ここが潮時かも知れぬて。もはや河原田どころではなかろう」
「伊北はどうされる?大波殿はまだ山ノ内氏勝の横田中丸を囲んでいるのではないのか」
「伊北や只見の戦線まで公は書いてござらぬな。追っつけ使番が来るものと思われるが・・・」
勘解由はなおもブツブツ言っていたが、勘解由にとって政宗の命は絶対である。不承不承同意した。
そこへ盛秀が来た。
案に相違して勘解由は盛秀と視線を合わせない。
(川に転落してバツが悪いのか・・・)
「盛秀殿、大儀。公から命令書が来ての。我らは梁取方面か黒川へ引き上げる。その方には殿(シンガリ)を頼む由、その後はこの戦線に残るなり、田島へ引き上げるなりせよ」
「黒川へお引上げにござるか」
「先日の和泉田と本日の戦、ともに犠牲が大きい。盛秀殿は知らぬだろうが上方の情勢もある。ここは他日を期すのだ」
「我らは今後、どうなります」
「今後?」
ここで初めて屋代勘解由が盛秀を向いて言った。
「それぐらい己の才覚でなんとかせよ」
「しかし・・・」
言いかけたが勘解由はそっぽを向いてしまった。
「明朝、ここを引き払う。そのつもりでいてくれ。山口辺りまで殿(シンガリ)を頼むぞ。命あらばまた」
(今度は殿かよ)
梅津、屋代は立ち去りかけたが、梅津は盛秀にこう言った。
「この度の貴殿の働きぶりには公もいたく満足されておる。貴殿はもう既に伊達家中である由、所領安堵については懸念なさらぬよう」
盛秀はかしこまったが内心では「当然だろう」と思った。俺ほど働いた者がいるかと言いたい気分である。

田島勢の陣に戻った盛秀を盛重、中妻源太、治郎右衛門が迎えた。
「親父殿、何の話でござった?」
「伊達軍は引上げるとよ」
「引上げでござるか?」
「ヤツらは梁取か黒川に引き上げるそうだ。我らは勝手次第というわけさ」
「我らは見捨てられたのでござるか」
だが盛秀は、屋代勘解由から離れられてホッとした気がしないでもない。
「田島へ戻って捲土重来を期すしかなかろうな。まったく、とんだ無駄戦であったわ」
盛秀はよくも悪くも頭の回転が速いので切り替えも早い。明朝、陣を払う旨を触れた。

だがその夜。。。

河原田衆の只見大炊介が五十人の兵で夜襲してきた。夜目の効く大炊介は田島勢の陣中を荒らしまわり陣幕や小屋掛けに火を放った。こういう戦は河原田衆のお家芸といっていい。しかも渡辺九郎兵衛(盛継を舘岩から呼び戻しに走った家臣)は騒ぎに紛れ、鞍のついた上等な馬を数頭盗み出したという。
(俺の馬だぞ)
盛秀は苦々しい。やっていることが夜盗の類と同じではないか。「小賢しい嫌がらせをしよって」と歯軋りした。

そして夜が明けた。
久川城は再度の襲来に備えていた。
だが望楼から物見の声が響いた。「敵が引いていきまぁす」
伊達軍、田島勢が、伊南川や山々の朝霧が引くのと同時に山口方面へ引いて行く。久川城はデビュー戦に勝ったのである。どよめきと歓呼の中、盛継は小隊長格を呼んだ。
「源助、佐馬、兵庫、敵を追うぞ」
「追い打ちを?」
「盛秀のヤツ、どうせ殿(シンガリ)を押し付けられたに決まっておる。一当てせん」
佐馬允は思った。(まだ暴れ足りないのかな)
盛継の意識はここまできても、とうとう最初から最後まで、対長沼盛秀への地方戦から抜け出なかったのである。

河原田の追撃軍は二手に分かれた。
盛継と伊南源助、只見大炊介率いる二百人が伊南川を渡って右岸から北上したが、それより先に、和泉田城での復讐に燃える宮床三人衆(兵庫、四郎右衛門、杢右衛門)率いる二百は左岸から北上して引き上げる敵の側面に出た。
ここで田島勢は鉄砲隊百が筒先を揃えて威嚇、その間に伊達軍は梁取方面へ引いていった。ここからは田島勢のみ、駒止峠を越えて田島へ帰還することになる。
ここで初めて盛秀は、我らは伊達にホントに捨てられたかと悟ったのだが、動揺を面に出さず下知した。
「盛継は必ず追ってくる。火縄に点火して筒先を来た道の彼方へ向けて後退せよ」
田島勢は筒先を向けたまま、駒止峠を越え、射程距離を保ったまま引いて行く。だが、殿(シンガリ)の兵どもは戦々恐々である。一発撃ったら逃げるしかない。
峠を越えた途端に敵の筒先が上を向くのを待って盛継は斬り込みの号令をかけようとしたのだが、それより前に恐怖にかられた田島兵が追々に逃げるところを伊南勢、河原田軍は散々に追撃した。資料によると、何処だかわからないのだが光明院塚、中小屋という場所まで追ったり返したりで都合六回か七回戦い、田島勢は百人、伊南勢は二十八人が死傷したという。
盛秀は、ほうほうの体で鴫山城に逃げ帰った。

南会津の戦闘は伊達軍の思惑から離れて、盛秀と盛継だけの私闘に戻ったのである。
ではこの二人は伊達軍が撤退したその後、どうなったのか。
諸説あるのだが、一つの史料には信じられない顛末が書かれているのだ。
縄張り.jpg
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盛秀と盛継 第九話 ~新城お披露目、戻れ我が夫~ [盛秀と盛継(会津)]

盛秀は軍勢を止め、伊南川に沿って展開させた。自ら川の土手に立って望見した。
伊南川に沿って上流、檜枝岐村の方角からの風が、正面に構える新城、久川城の赤、白、夥しい吹き流しを風に流していた。伊南川の水量は多い。
伊南川4.jpg伊南川5.jpg
盛秀は唇を噛み、眉をしかめ、内心の動揺を抑えていた。
(我が城、鴫山城ほどの大きさはない。だが・・・)
盛秀の知る盛継の旧城、駒寄城は、麓から後方の山に向かって細長かった。平野部に面した狭い正面から寄せ、同時に背後の尾根から奇襲すればよいとタカを括っていた。
だがこの新城は前に伊南川が滔々と流れ、高い山ではないが、洋食屋のカレーのライスのような形をしている。
(守り易い城だ。よく築いたものだ)
対岸の久川城.jpg対岸の久川城2.jpg
物見が言う。裏手は殆ど垂直の断崖になっていると。
盛秀は舌打ちした。(正面から渡河して仕寄せるしかないということか)
「盛継め。いつの間にこれほどの要害を。治郎右衛っ、その方はこの城のこと今日まで知らなんだのかっ」
「それがしが先年、河原田の殿へ使いした折にはこの要害はありませなんだが・・・」
実際はその時、普請中だったのである。治郎右衛門は内心、(また御屋形の八つ当たりか。諜報などは俺の任務ではないわ。ここまでの策は完璧だったという自負が仇となって想定外の事態が起こるとこれだからな。御屋形の器量はやはり田島の小領主どまりだわな)と思うのである。

盛秀は正面の旗指物、吹流しの数が気になる。
「盛継めはまだ舘岩方面から戻ってはおるまい。まさか城内に越後からの合力(援軍)があるのではなかろうな」
「擬兵ではないでしょうか。城内は女子供、農民が多いのでは。ひと当てしてみれば矢の数でわかりましょう」
「ひと当てするには川の半ばまで渡河せにゃぁいかん。」
何となくグズグズしている。

伊達の軍監、屋代勘解由が盛秀の背後に音もなく立った。迂闊にも盛秀は気づかなかった。治郎衛は勘解由に一礼したが盛秀はそれすらも気づかなかった。
「なかなかの要害ではないか。盛秀殿」
盛秀はギョッとした。勘解由の皮肉にすぐには答えられなかった。
「駒寄でもこの新城でもここまで来れば同じことではないか。まさか貴殿、政宗公の前で吐いた大言よもやお忘れではなかろうな。それとも公の仰せのように、先年与えた所領安堵状をお返しになられるか」
「忘れてなどござらぬ」
「ではまず、田島勢で渡河されよ」
「我が勢は鉄砲が少のうござる。仕寄る由、伊南勢が押し出て来たら援護をお願い申す」
「田島勢にも弓矢はあろう。この川幅では鉄砲は届かぬ。」
と言った勘解由は、田島勢を利用するある目論みがあるのだ。
「あいわかった。これより仕寄りまする」
(嫌なヤツだ)
勘解由がその場を去った後、久川城の吹き流しに見覚えのある布があった。それだけ色が違うのが三本、大手木戸脇の塀に掲げてある。
「あれは・・・」
先年、伊達へ帰順を促す書状とともに、使者の治郎右衛門に持たせた反物の布だったのである。
「盛継めっ」
「御屋形、静まられよ」
「我らがくれてやった反物まで幟にしおったか。あれは俺へのあてつけかっ」
治郎右衛門は内心、くれてやったからには他人のものではないかと思う。もう盛秀には多々石峠を越えて来た今日の朝までの智将の面影は微塵も見られない。予期せぬ城を前にして逆上した小さい器量の田舎大名でしかない。
「親父殿、あまり時間はござらぬ。おっつけ、盛継勢が高杖から馳せ返って来ましょう。それまでに一の木戸までは落とさないと」
次男の声で盛秀は我に返った。下知を出した。
「源太佐衛門、渡河せよ。仕寄れ」
兵が配置に移る。
(盛継め。アタマの固い依怙地(ハンカ)者め)
アイツが変な意地を張るからだと、ここへ来てまで盛秀は罵っている。城を落とした暁にはあの反物は奪い返すと思った。

久川城内は緊張の極みに達していた。盛継はまだ舘岩方面から帰還していない。
城内、農民併せて男は百五十。その寡兵を盛継夫人と五十嵐和泉が指揮を執る流れになった。だが和泉は傷癒えず、傷みと熱に耐えながら腰掛けたままである。目ばかりギョロギョロしていた。
「来るぞ・・・」
宮床一族は目が血走っている。アタマの中には和泉田の復讐しかない。
盛継夫人は時折南の方角へ目を遣る。「遅い。何をしておるのか我が夫(ツマ)は」と思う。

天正十七年(1589年)八月二十八日午後・・・
田島勢は渡河を開始した。
兒山丹波が騎馬五十、弓隊五十あまりを従えて川に乗り入れた。矢の射程距離を警戒しながら、川の深さを測り測り慎重に駒を進めて行く。
川は浅くない。現在の伊南川は上流で堰堤等あって水量を調整しているが、この時代の水量は現在の三倍強あった筈という。
やみくもに渡ろうとした数騎が足を滑らせ武者が水に転落した。すると城内からドッと嘲笑う声が聞こえた。丹波は適当な浅瀬に留まって城へ矢を放つが届かない。この時も城中から嘲笑の声が響いて丹波は地団太を踏んだ。
城の木戸口から二騎の騎馬武者と、七十人ほどの徒歩兵が駆け出して来た。
和泉田城を脱出した宮床兵庫と杢右衛門である。二人ともまだ傷が癒えず、血が滲んだ晒や包帯が見え隠れしているが重症でもないらしい。
「我らは宮床兵庫、同杢右衛門と申す者。寄せ手の御名前をお聞かせ候え」
「見知ったるであろう。某は兒山丹波。和泉田で死に損ねた宮床の残党と見受けたり。せっかく拾った命をここで捨てんとするか」
兵庫はニヤリと笑い、吐き捨てるように言った。
「これはこれは伊達方の方々に見参申すかと楽しみにしておったのに。相も変わらずいっつもの田島勢ではないか。今や伊達の犬に成り下がったか。ご苦労なことよの」と嘲笑い、矢をつがえて射放った。
矢は兒山丹波の傍らにいた騎馬武者の兜に当たり衝撃で武者は川中に転落。杢右衛門の射た矢はこれも兒山丹波の傍に控えていた雑兵を射倒した。
激昂した丹波とその兵は二人を取り囲んで討たんと前へ寄せたが、アタマに血が昇り足元をよく見なかった為に急流や深みに足を取られた者が続出した。
数を頼んで押し寄せる田島勢だが、葦の影から隠れていた河原田軍の徒歩兵が矢を放ったり、左右に逃げたと思いきや、そこには水中に縄が張ってあり、田島勢の騎馬はもんどりうって倒れた。流れが速く、身軽な徒歩兵より重い甲冑を纏った上級武士で溺する者が相次いだ。
次男盛重が言う。
「親父殿、兵の小出しではだめだ。」
今は盛秀も意を決した。
「総掛りで寄せよ」
田島勢に総掛りの命が下った。

焼き働きに遭った舘岩郷で夜を徹してウロウロしている河原田盛継のもとへ、久川城の急を知らせんと渡辺九郎兵衛が到着したのは陽が高くなってからのこと。
「惣領っ!!本城に敵襲来!!」
「なにっ!!」
(謀られたか)
「佐馬っ!!城へ引き返す。皆に触れよ。遅れる者は厳罰ぞ!!」
佐馬は何が厳罰かと思う。自分が我々を連れて来たのではないか。忙しいことである。引き連れて来た三百人もの手勢と、中山峠方面を哨戒していた兵数十、恥風の伏せておいた伏兵数十を総ざらい連れて走った。
途中、湯田采女の伏兵と小競り合いになる。盛継の帰還をできるだけ遅らせようとしたが、たいした装備もない百人もいない雑兵ばかりなので蹴散らされた。
(急がないと・・・)
盛継は焦った。
(何故、敵の作戦と気づかなんだか・・・)
ところが駆ける盛継と河原田勢の行く手、右折すれば伊南方面へ曲がる恥風の街道筋の前方に、行く手を阻むかようような百五十人ほどの軍勢がいた。
「敵か!!」河原田勢は色めきたった。
「佐馬、突破するぞ」
「惣領お待ちを。あれに源助がござる」
「源助が?」
前方の兵たちの塊の中から伊南源助が駆けて来た。
「惣領、源助でござる。あの者どもはお味方にござる」
「源助、かの者どもは」
「味方にござる。檜枝岐の衆です」
盛継は、ああ、そうだったと思い出した。源助に檜枝岐へ援軍を要請したのを忘れていたかのようである。
檜枝岐は沼田街道を押さえて上州や越後からの流通の要所である。河原田家の支配下で代官や関守は河原田家が任命する。
寒冷の高地、米の取れない地なので河原田家への税は銭で納めさせるか、上質の檜、漆、蝋、獣の皮といった物々。西は越後と境を接するが長尾家と河原田家、山ノ内家との関係は良好だったのと、盛継自身が日頃から東の田島領や黒川の情勢にばかり目を向けているので普段は放ったらかしに等しい。
檜枝岐村には星、橘、平井の三姓だけで、この時の総代、関守は星備中という。街道の関守を兼ねているのでその方面の実入りや特権は当然ある。星や檜枝岐衆は河原田家へ格別の忠誠心があったわけではないのだが、これまでは自分たちの通商上の特権を黙認されてきたので、新興の伊達とかいう何を考え何をしでかすかわからん姦雄が河原田家にとって代わったらそれこそ様々な既得権を剥奪されかねないと伊南原助が吹き込んで応援を依頼したのである。
盛継は急場でもあり、檜枝岐衆の主だった頭分と素早く目通りを済ませたが、その代表者も下々の者も、星、橘、平野ばかりで、どれが星の誰々、橘の何々か殆ど覚えられなかった。
連れて来た兵は百五十程度だが、総動員数が五百か六百の河原田軍にとってこの百五十は大きい。しかも百人は鉄砲を所持していた。これは流通の要所を押さえていた特権で密かに蓄えていたのであろう。佐馬允は「先年、申告させた数量より多いな」と訝しんだが今はそんなことを言っている時ではない。
群れをなして久川城へ駆け出した。

田島勢は総勢で渡河にかかっている。喚声と陣鼓、陣鐘が百雷のように響いている。
次男、盛重、中妻源太佐衛門、小野丹波らも、川の半ばで膠着している兒山丹波の軍を後押しした。本陣の盛秀は城から討って出た兵数を見て、「盛継は戻っていない、越後からの援兵も今はいない」と踏んでの総がかりだが、駒寄城や和泉田城と違って正面の守りが横に長いので、「これは攻める側も数が必要だ、盛継が戻って来るまでが勝負」と読んだ。
だが、田島勢は総勢でも川にはまって攻めあぐんだ。宮床兵庫と杢右衛門以下、河原田衆のわずかな騎馬兵と徒歩兵は浅瀬を回って走り回り、田島の兵どもを深みに誘導した。
兵庫と杢右衛門は、「我ら一度、和泉田城で死んだ身ぞ。死線を経た我らを討てるか田島衆」と挑発し斬りまくった。殴りつけるように川へ叩き落した。
だがそれも時間の問題で、徐々に田島勢は渡河する数が増えてくる。
それを見て「兵庫と杢右衛門を討たすなぁっ」絶叫したのは薙刀を持った盛継夫人である。彼らと同じく和泉田城の死線を越えた五十嵐和泉と宮床四郎右衛門も討って出たいのだが傷が癒えず体が動かないので、正面塀に構えた兵どもを差配して銃を構えさせ矢を放たせた。城内、農民でも獲物の心得ある者にも弓矢を持たせ、女房どもは幟を振り、矢弾を運び、敵勢に浴びせる湯を沸かした。
田島勢にも少ないながらも鉄砲はある。だが河原からだと届かないので川の浅瀬に構えたら、逆に位置を読まれて狙い討ちされ、川に取り落とした鉄砲は使用不能になってしまった。
「バカめ。高価な鉄砲を川なんぞに取り落とすな」
盛秀はついこんな時に言わなきゃいいものを。みみっちい言をば吐いた。
「御屋形、何か仰せで?」
喚声で声が聞き取れなかった治郎右衛門は本陣で盛秀の傍に立っている。
「何でもないワ」

渡河する田島勢が増えてきた。
「危ない!!二人が囲まれるぞ」
城内に残る小頭クラス、只見大炊介、馬場弥次右衛門、大桃右京らが救出に討って出ようとしたが、「待て待てっ。そなたらが討って出たら城中に人がいなくなるっ」と盛継夫人が静止した。
そこへ、「それがしが参りまする」とヨタヨタ馬上の人になった老武者がいる。
老臣、芳賀阿波。いったい幾つなのか誰も本当の年を知らない。
盛継夫人や郎党たちが止めるが、阿波はニヤリと笑い、
「わしゃこの地を戦火に巻き込んだ責任がありますでの。大炊、弥次、右京、御屋形が戻るまで持ちこたえよ」
阿波は二十人の兵を率いて駆け出した。
先代、盛頼から仕えた老臣である。時代は流れ今はもう誰も阿波に華々しいものは期待していない。家中では尊敬と侮りの混ざった複雑な視線を浴びているといっていい。
先年、田部原治郎右衛門が使者となって伊達への帰順を促しに来た折、第二話で阿波は評議席上こう言っている。
「既に蘆名様は滅び、伊達とか申す者の世に移り、人道が衰えたとは申せ、当家は藤原とご縁のお家柄。結城の末裔にござりますれば、蘆名義広公が黒川を落ちたからといって、手の裏を返すようなことがあってはなりますまい。年来重恩の郎党らと一心にしてこの要害に立て篭もられ、田島勢や伊達勢が寄せ来たれば防ぎ、叶わぬ時は隣国の上杉景勝公にご加勢を願いましょう。それも叶わぬ時は御運つきたることと思し召し、この地に滅んでも家の面目、名は末代まで残りましょう・・・」
情勢は阿波の言ったとおりになっている。
その阿波と僅かな手勢は敵勢に今にも囲まれそうになった兵庫、杢右衛門の前に分け入った。二人は日頃、何処かこの阿波を侮る気持ちがあったので、
「阿波の爺、何しに参られたか」
年寄りの冷や水と言わんばかりの二人に阿波の大喝が返ってきた。
「浅慮者め何をしておるっ。ヌシらが日頃このワシを死に損ないと嘲るのは勝手だが、たかが和泉田で一度死に損ねたぐらいで何という短慮だっ。まだ序戦。御屋形が戻るまで待たんかい。この戦の顛末を見届けてから死ねっ」
阿波のこの世で最後の叱責が二人を死から生へ引き戻した。田島勢は阿波に襲いかかろうとする。
「田島衆、白髪首とて侮るなよ」
芳賀阿波は乱戦の中、田島勢の中に消えて見えなくなった。享年はわからない。

伊達軍本陣で、屋代勘解由、梅津藤兵衛が戦況を望見している。
「大体、場所がわかったの」
「ウム。右翼と、左翼の中央寄りが浅いようだ」
二人は渡河した田島勢をダシに、浅瀬や渡河できそうな箇所を見定めていたのである。
「使い番!!」
使い番、母衣衆が駆け寄ってきた。
「我らも総攻めとする。柴田但馬は兵三百を持って右翼を渡河。草野備中も兵三百で左翼の中ほどを渡河して仕寄れ。次に・・・」
ここで勘解由は藤兵衛を見てニヤリと笑った。
藤兵衛は思った。コイツがこういう笑い方をする時は決まってロクなことを考えていない。
「ワシ自ら中央に寄せる。兵三百をお借りする。梅津殿は本陣にいて戦況をご覧あれ」
梅津はまたかと思う。この男は自ら血を見ないと気がすまないらしいなと怖気をふるった。

「阿波が討たれた・・・」城中から芳賀阿波が敵勢に巻き込まれて消えたのを見た盛継夫人は頬を滂沱の涙で濡らした。山ノ内家から嫁して来たばかりの頃、何くれとなく面倒を見てくれたことを思い出した。
夫人は涙ながらに絶叫調になった。
「救えっ!!兵庫と杢右衛門たちを城中に入れよっ!!」
木戸が開いた。駆け込もうとする兵庫と杢右衛門の後ろから渡河しきった田島勢が殺到した。傷から発した熱で赤い顔をした五十嵐和泉が血を吐き出すように叫んだ。
「構わぬ、閉めきれぬうちに入った敵勢はそのまま城内に入れて馬出しで討ち取れっ」
兵庫と杢右衛門はかろうじて城内に帰還し、十数人の敵勢が釣られて城内に入ったが、城内馬出しで囲まれ討ち取られた。だがそんな戦果は焼石に水といっていい。
夫人は自分が河原田家に嫁いできた時に一緒に山ノ内家から随行して今日に至る家臣、只見大炊介に叫んだ。
「大炊っ、まだ我が夫(ツマ)の軍勢は見えぬかっ」
大炊は自分が責められているようでギョッとした。夫人は夜叉の形相になっている。
「まだ見えませぬっ!!」
和泉は城内を振り返った。「全軍、正面の塀に備えよっ。宮床四郎、大炊、弥次、右京、落とせるものは何でもよいから農民どもに持ってこさせよっ」
全軍といっても城内たかが百五十かそこらである。和泉が号令したその時、川を渡河しつつある田島勢の後方から巨大な鯨波が響き渡り、黒々とした伊達の大軍が地を這う巨大な竜のように三方向から渡河して来るのが見えた。
(いよいよ総攻めか・・・)
今は盛継夫人も五十嵐和泉も残った郎党たちも死を覚悟した。和泉は(どうせ俺は和泉田で死んだ身だ)と思い半ば開き直ったが、盛継夫人は「我が夫(ツマ)のおっちょこちょいめ」と肝心な時にこの場にいない亭主を罵った。
敵勢が城壁に蝗のように取り付いて来る。農民や女子供も混じった城兵百数十人は、僅かな鉄砲と弓矢、石や丸太、鍋でも鋤鍬でも薬缶でも熱湯でも汚泥でも、何でも獲物になるものを寄せ手の頭上に落として食い止めている。

盛秀は本陣にいる。
伊南衆の最後の抵抗を見ている。
(手強いが。もう持つまい・・・)
そこへ母衣衆が来た。伊達軍が動いたという。
今頃になって後詰かよ、いいトコ取りかいと舌打ちしたが、「軍監殿御自らご出陣」と聞いて顔色を変えた。
(また勘解由のヤツ、あれ(撫で斬り)をやるつもりだなっ)
「馬を引け」
「御屋形。何処へ?」
「俺も行く。前線へ出る」
「成りませぬ。戦線は諸将にお任せあれ」治郎右衛門は止めるが、
「あの勘解由めにこれ以上、血を流させて・・・」
そこまで言いかけた時である。南の方角、寄せ手の左側面から少なくない銃声が一斉に轟いた。
「何だ?」
二度目の銃声が轟いた。
吾に返ったら、渡河中の連合軍がバタバタ倒れている。
南側、側面からの一斉射撃の硝煙が消えると、銃隊の後方に猪の旗が見え、舘岩から戻った河原田軍数百が布陣していた。
盛秀の視線はその先頭に、己が大嫌いで腐れ縁の宿敵、河原田盛継を捉えた。
ややあって、三度目の銃声が響いた。
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盛秀と盛継 第八話 ~盛秀と玄蕃老、生涯只一度邂逅のこと~ [盛秀と盛継(会津)]

多々石峠を先頭切って登ってきた長沼盛秀は、木沢玄蕃と鉢合わせした。
「何奴!!」
玄蕃ももとは武士である。動じない呈で丁重に返した。
「この峠に隠遁しておりまする木沢の爺と申しまする」
玄蕃と名乗ればもとは武士なのがバレバレになる。
盛秀は警戒したが相手は老人で丸腰である。手に鉈を持ち背には薪を背負っている。それでも盛秀は見破った。
「その方、この峠に住みよるか。もとは武士であろう」
「ハイ。実は河原田家の先代にお世話になったこともございますが。戦傷と老齢によりこの山中に隠遁してもう十数年になりますかの」
玄蕃はそこはごまかしようが無いので正直に言うしかなかった。
「では河原田盛継に通じる者であろう」
「ハイ。ご覧の通りで炭、薪、茸、山菜といった類を河原田様に納めてはございます。また峠を護る者として領内領外いずれの旅人も難儀しておればお護り致しまする。あの、御大将様は何処の・・・」
「田島の長沼盛秀だ」
「これはまた。田島の殿様が物々しい出で立ちでございますな」
「爺も聞いておろう。蘆名家が滅んだ後の西会津一連の争闘を。我らは黒川の伊達政宗公の尖兵たり。政宗公の意に逆らう伊南の盛継を討つ途中よ」
「さようで」
盛秀はここで警戒を解いた。この爺がなにほどの危険があるかとナメたのである。
「夜も更ける時分由、この辺りで一夜の宿を借りれぬかな。なに、明朝は早く立つ由」
「この辺りの峠の地蔵堂や、爺の炭小屋程度でよければお好きになさいませ」
使番を呼んで下地した。「ここで野営する」
兵どもは今日の日で中山峠、ここ多々石峠、二つの峠越えで疲労困憊であった。五百の兵どもがこの峠一帯、猫の額ほどの平地や窪地に野営することになった。
「火は最小限にせよ」と触れた。幸い、伊南や舘岩方面から見て東側で、遠目に見ても火は見えないであろう。
玄蕃は兵どもを労いながら聞き耳を立てた。明日は古町、伊達軍と合流、一気に駒寄へ、といった私語が聞こえる。
(駒寄へだと?)
この時点で盛秀とその兵どもは、盛継が駒寄城から新城、久川城へ移ったことは全く知らなかったようである。

兵どもは各自持参した兵糧をつかったが、玄蕃は盛秀以下の幕僚に、僅かながらも濃い造り酒を出し、若干保存してあった塩漬けや酒漬けしてあった猪肉、鹿肉を炙って供した。接待といっていい。
やや打ち解けて来た頃合を見て玄蕃が言う。
「田島の殿様、今宵、この地にお泊まるのも何かのご縁かと思いまする。もう俗世に何も望みのないこの爺の願いを一つ、聞くだけ聞いて頂けませぬか」
「何か」
「憚りながら申し上げまする。田島の殿と伊南の殿とのこれまでの経緯はよう存じ上げておりまする。なれど伊南の民も同じ会津の土に勤しむ者でござりまする由、ご縁がございますれば田島の殿の慈悲深き仕置きをお願いしたい次第・・・」
木沢玄蕃自身は今でも河原田家の家臣といっていいのだが、この時の台詞は会津の民としての声であった。嘘偽りではない。
「そのことは心得ておる。あの頑迷固陋の盛継では伊南は伊達殿に滅ぼされるは必定明白。盛継が伊達殿に刃向かい己が武士の意地で滅ぶのはヤツの勝手だが、平定の暁には政宗公からこの地を賜る約定をいただいておるのでそこは安堵致せ」
傍らにいた治郎右衛門は「何処かで聞いた台詞だな」と思った。和泉田の陣中で次男の盛重に言った台詞を、もう一度この峠で木沢玄蕃を相手に言ったのだが、玄蕃は何の縁か、生涯この時ただ一度だけ長沼盛秀という人物に触れ、生涯忘れず、その印象は決して悪いものではなかったという。
盛秀は和泉田城の凄惨な撫で斬り以来、心中やや鬱屈したものがあったのだが、玄蕃の言葉を容れてやや気が持ち直したような気がした。全く疑わなかったようである。
盛秀も玄蕃老も、この時は同じ会津の者であった。
だがこの場に屋代勘解由がいたら必ず斬って捨てたであろう。

盛秀以下、田島勢と伊達の合力勢は峠越えの疲労で、地蔵堂や炭小屋で寝込んでしまった。見張りも立てず。
玄蕃は盛秀に「悪いお人ではない」という印象を受けたが、自らは河原田家二代に仕えた世臣である。今は一子右衛門を出仕させている立場というものがある。老妻に目配せして二人、外へ出た。
夜の冷気が心地よいくらい。星が満点である。
玄蕃が唇に指を当てる。西の方角、伊南の方角を指した。
心得たりと老妻は水汲みに行くかのように身なりを整え、手桶を持って小滝川を下った。峠の地蔵堂が見えない場所まで来ると手桶を放り出し、川沿いの小経を走り、伊南の久川城へ注進に走ったのである。

その間、目を血走らせた河原田盛継以下、伊南の手勢は恥風を抜けて舘岩郷へ着いている。
「火を消せ。追い立てられた民を匿え」
河原田佐馬允吉次は焼け出された民衆を囲って護りながら、しつこく矢を射掛け挑発してくる湯田采女の小勢を蹴散らした。だがどう見ても敵は雑魚雑兵ばかりで、長沼盛秀どころか将校クラスが何処にも見当たらない。
佐馬允は舘岩郷の長らしき者に問うてみた。
「田島勢はどれくらいであった?」
長が言うには、動転してよくわからないが、それほどの数ではなく、てっきり野伏の荒しかと思ったという。
変だぞ。
細作からは、田島勢五百が中山峠へ向かって行軍中といってきたのである。
この焼き働きは嫌がらせか。単なる荒しではないか。田島を荒らした報復だろうか。
他の田島勢本隊は何処へ消えたのだ。ひょっとして陽動作戦ではないのか?
佐馬允は胸騒ぎがしてきた。

同じ夜・・・
黒川城の一室で、伊達政宗が独眼を光らせて上方からの書状に見入っている。
太閤秀吉が、伊達が蘆名を滅ぼしたことは太閤惣無事令(大名間の私闘を禁ずる法令)に反するとして釈明を求めて来たのである。秀吉は己の意に従わない小田原北条氏を征伐する準備中なのだが、それ以外は私戦であり屹度慎みあるべしとあった。
形の上では勧告だが実際は命令といっていい。
政宗にとって奥会津の制圧は、長年の垂涎だった会津の領国化を完成すること。また奥会津の地は関東や越後に近い要地。その為に奥会津の制圧を急いだのだが。
(間に合うか。小田原の北条は持つか)
微妙な情勢になってきたのである。

またこれも同じ夜、一人の小者が駒止峠方面へ走っている。
盛秀の姉婿、金井沢佐衛門佐の家中の家人である。
(姉御前様がさらわれたのは駒寄城ではない。あれは新しい城だ)
夜を徹して走っている。

盛秀は未明に起きた。すぐさま出立の下知を触れる。
「木沢老、世話になった」
「ご武運をお祈りいたしまする。領内、郷が落ち着いた暁には何分ともよしなにお願いいたしまする」
「恩賞が望みか?」
「そうではござりませぬ。ここに隠遁する爺が何を望みましょうや。郷の安寧を願うばかりにございまする」
「ウム・・・おう、妻(サイ)はどうした?」
「本来ならば某とともにお見送りするのですが未明から七ヶ岳の山の神に参っておりまする。ご無礼の段、平にお赦し下さいまし」
「そうか。では参る。息災でな」
盛秀と五百の兵は西へ下っていった。この峠から小滝川に沿って伊南の古町辺りで伊達軍と合流する手筈になっている。
二人は一夜の邂逅のみで二度と会うことはなかった。

盛秀が多々石峠を発った未明、玄蕃の老妻はヨタヨタしながら久川城にたどり着いた。
衣服は擦り切れボロボロ。手足も血だらけ痣だらけ。細い枝のような腕で木戸を叩き、声にならない枯れた声で叫んだ。
「ご家中にお仕えする木沢右衛門の母にござります。急ぎご注進したき儀が・・・」
玄蕃の老妻の注進により久川城内は騒然とした。
大広間に盛継の母、盛継夫人、盛継の乳母、その他、小頭クラスの郎党たち、渡辺九郎兵衛、只見大炊介、馬場弥次右衛門、大桃右京、老臣芳賀阿波が集まった。
副将格の河原田佐馬允も伊南源助も不在。五十嵐和泉や宮床一族は傷で伏せっている。
「田島の軍勢が古町方面から寄せてくるというのか」と盛継の母。
「今頃はもう、みどもらの住む多々石峠を降りたかと・・・」と玄蕃の老妻。
さては舘岩郷に火の手が上がったのは我が軍勢を誘き出す策であったかと思い当たった。誰もこの時まで陽動作戦と思わなかったのであろうか。
盛継夫人が口を開いた。
「義母上、盛継殿を急ぎ呼び戻しましょう。九郎兵衛、舘岩方面へ駆け、盛継殿に伊南へすぐさま馳せ帰るよう伝えよ」
渡辺九郎兵衛が舘岩方面へ走った。

九郎兵衛が発った後、しばらく寂として声もない城中広間である。
「阿波・・・」
盛継夫人は、老臣、芳賀阿波に訪ねた。
「城内、兵どもはどれくらいじゃ」
「兵は百五十ほどでしょうかな。それに加えて伊北や山口方面から逃げてきた領民が百ほどおりまする。他は和泉田城から戻った和泉殿や兵庫殿、負傷兵と女子供と小者ばかりにございまするが・・・何とかもちこたえねばなりませんなぁ」
いつもながらまわりくどい説明に険しい表情で聞いていた夫人はしばし考える呈であったが、意を決したように言う。
「義母上、私が指図してもよろしゅうございますか」
「今や伊南存亡の時。構わぬ。盛継殿が戻るまで差配せよ」
「では・・・」
山ノ内氏勝の妹たる盛継夫人は家臣に向き直って言う。
「大炊介、弥次右衛門、右京、その方らは兵どもを城内、伊南川に面した郭、塀に配せよ。この新城の背後は断崖ゆえそこには手配りは多くなくて良い」
久川城の背後は断崖で、郭から高さ20m近い土居(登り土塁という)になっているので、兵の手配りは正面だけでよいと言うのである。
「乳母殿は女どもに命じて城中にある反物や色のついた着物、長手拭や風呂敷を集めなされ」
「それらを何になさいますか?」
「それらを幟、吹流しにして城内に高々と掲げ、農民どもにはそれを持って城内を移動さしめよ」というのである。擬兵の策といっていい。
「おっつけ盛継殿もお帰りになる。それまで持ちこたえよ」
郎党たちは城内に走った。女どもは布という布を掻き集めた。前に田部原治郎右衛門が手土産に持参した田島の反物も引き出された。
更に盛継夫人は戦傷と発熱で伏せっていた五十嵐和泉や宮床兵庫、四郎右衛門と杢右衛門に、「その方ら、これしきの傷でいつまで寝ておるか」と叩き起こした。
事情を聴いた和泉田城の頭目クラスの生還者四名も奮い立ったが身体がいうことを利かない。
「ではそなたらは城内の各部署に座っておればよろしい」
和泉田の生き残り四名は夫人に叱咤され、ズキズキ痛む傷や発熱した赤い顔のまま城内の主要郭に据わらせられた。

多々石峠を西に下った盛秀とその軍勢は昼前に古町の北、上田原という平地で待っていた屋代勘解由、梅津藤兵衛の率いる伊達軍一千と合流した。
「長沼殿大儀。日時、刻限通りじゃ」
「河原田めを上手く陽動したそうではないか」
盛秀は梅津はまだしも勘解由とはあまり長話しなくない。長居せず進言した。
「すぐさま伊南の本拠、駒寄へ寄せましょうぞ」
連合軍は隊列を整える。伊南川沿いの沼田街道を南に下ることになる。だがそこへ、田部原治郎右衛門が蒼い顔をして盛秀に囁いた。
「御屋形」
「なんだ治郎右、顔が蒼いぞ。まさか臆したのではあるまいな」
「金井沢佐衛門佐の家人がお目通りをと」
「佐衛門佐の家人?」
何でこんな時に。
盛秀は嫌な予感がした。金井沢佐衛門佐は盛秀の姉婿で、それをカサに着て尊大な態度が長沼家中でヒンシュクをかっていたのだが、先だって盛秀の姉すなわち佐衛門佐の女房は伊南へさらわれ、無事に戻されてからもそれを恥じてか屋敷の中に逼塞してしまい、弟、盛秀の見舞いも固辞している。
金井沢佐衛門佐も家中で肩身が狭くなり、盛秀も佐衛門佐のことをやや疎ましくなっている。
「まさか姉上に何かあったのではあるまいな?」
「いえ、そうではございませぬ」
「では佐衛門佐の家人とやらが何の用か?治郎右、その方聞いたのか?」
「家人は某に早口で述べましたが重大な情報でござった。ともあれ、直にご引見を」
金井沢佐衛門佐の家人など盛秀にしてみれば陪臣である。これから勇んで向かうところへ水を差されたようでオモシろくないが引見した。
家人は蟹のように這いつくばっている。
「佐衛門佐がなんぞ申したのか」
緊張しまくりで這いつくばったままの家人が断片的に言うのを拾い集めて構築してみると、盛秀の姉が河原田盛継にさらわれ一晩軟禁されたのは、どうも盛継の居城、駒寄城ではなかったというのである。
「駒寄城ではない?何処ぞの館か出城か見なんだのか?」
盛秀の姉も家人も拉致された時、駒止峠から目隠しをされ、気づいたら城内らしきに軟禁され、盛継の母や女房衆の取り成しで翌日には解放されて田島へ帰ったのだが、帰り道も峠を越えるまでは目隠しをされて見えなかったと。
「では何を根拠に」
「川の音がしました」
盛秀はイラッとした。
「川の音?川や沢ならそこらじゅうにあるではないか」
「大きい川でございました」
「大河を渡ったというのか?」
「ハイ。目隠しされて何も見えなんだのですが、行き帰りとも川を渡ったんです。船橋のようでございました。小川や沢ではなくかなり大きい川の音でございました」
大きい川とは今、右手に流れる伊南川に違いない。これから連合軍は川の流れに逆行して南下するのだが、その先にある駒寄城なら川は渡らない。
では対岸の何処かの城か館に連れ去られたのだろうか。
「寺ということはあるまいな」
「寺にしては読経の声もせず、荒々しく物々しい気配でございました」
「出城か?」
「出城にしては兵の数が多くござった」
おかしい。おかしいぞ。己の知らない何かが起きている。盛秀はここまで己の作戦は完璧と自負していたが、その作戦の最後の方、詰めの段階で知らない新しい謎が立ちはだかったようである。
「他に何か気づいたことはないか」
「真新しい木の匂いがいたしました」
真新しい木の香?
頭脳明晰な盛秀はここで覚った。そして自分の推理で愕然とした。
「治郎右、盛継は新城を築いておったのではないか。それも密かに」
「新城をでござるか?」
「治郎右、すぐさま物見を差し向けよ。伊南川の左岸、右岸、二騎ずつ駆けさせよ」
「誰かある!!」
治郎右衛門が物見の指示を出す傍ら、盛秀は次男盛重と中妻源太佐衛門、小野丹波、兒山丹波を招いた。
「盛重、源太、丹波らへ申し付ける。当初の予定通り駒寄方面へ南下する。輜重隊は後方へ下げよ。銃隊は火縄に点火。弓隊はいつでも矢を放てるように致せ」
久川城.jpg田島勢を先頭に軍兵は臨戦態勢で進発した。
やがて物見が戻って報告するには、駒寄城には一兵もいない、対岸の小杖山(コジョウヤマ)に新城あり、おびただしい幟、旗指物がたなびいているというのである。
行軍の足が速まっていく。駒寄城に近づくにつれ先頭を行く兵どもがざわついてきた。兵どもは進行方向右手、伊南川の対岸を指差している。
ざわめきがどよめきに変わり、盛秀のいる中軍にも伝わってきた。
「御屋形、あれを」
盛重、中妻源太佐衛門らも強張った形相で対岸の小山を指さしている。
そこにはこれまで見たことも聞いたこともない新城・・・久川城が堂々そびえていたのである。
盛継は仰天した。
久川城虎口1.jpg久川城虎口2.jpg縦堀1(私は滑って転落した).jpg縦堀2.jpg二の丸.jpg本丸.jpg本丸空堀2.jpg本丸空堀4.jpg本丸虎口.jpg本丸土塁1.jpg本丸土塁2.jpg本丸土塁3.jpg本丸土塁4.jpg本丸土塁5.jpg
処理済~本丸土塁から見下ろす.jpg久川城大看板.jpg
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盛秀と盛継 第七話 ~俺は智将だ アタマを使う盛秀~ [盛秀と盛継(会津)]

手元に資料が三冊ある。
資料①にはこうある。この一連の戦闘の流れで疑問がある。
七月七日、伊北梁取城攻防
七月九日、伊北和泉田城攻防
七月九日、駒戸合戦
駒戸とは現在の駒止のこと。これだと伊南には攻め入っていない。
もう一つの資料②には、天正十七年(1589年)八月二十八日、長沼盛秀と伊達の連合軍が伊南へ攻め入っている。
三つめの資料③には、和泉田城攻防で甚大な被害を出した寄せ手、伊達と長沼盛秀の連合軍が、一旦、会津田島に引き返したとある。これは「伊南を攻略するには和泉田城攻撃の数倍の人数が必要」と判断したというもの。
どれが本当かはわからない。ここでは一旦、会津田島に引き上げたと想定して話を進めます。
和泉田城の攻防は史実ですが、これから先は創作が増すのであらかじめご容赦。

和泉田城の力攻めは伊達軍にも甚大な被害を与えた。田島勢にも死傷者が多い。
撫で斬りで伊北の土豪、民は震え上がった。だが、効果はそれだけともいえる。そこから先の敵兵は伊南へ撤退し、農民は山々に隠れた。
(これではだめだ。撫で斬りなどしたところであの河原田盛継が降伏するでもない)
頭脳明晰な盛秀は策を練った。単細胞の河原田盛継を陽動作戦で別の地へ誘き出し、その間、手薄になった伊南を衝こうというもの。
伊達軍の軍監、屋代勘解由と、梅津藤兵衛にその策を進言したが、盛秀が忌み嫌う勘解由はこう言う。
「伊南の河原田如き小勢であろう。そこまで策を弄しないと勝てないのか」
勘解由は不満そうである。また出過ぎた真似をするかという視線である。
だが盛秀は粘った。
「河原田盛継は敵なれど中々の戦巧者。伊南の兵どもは郷土意識が強く局地戦に強い。この先は山と伊南川に沿った狭隘な地にて、思わぬ伏勢も構えておりましょう。ここは我が策をお取り上げ下されたし」
盛秀にしてみれば、伊達軍が屋代勘解由を先頭にこのまま伊南へ南下し、行く先々で撫で斬りなどやられたら堪らんという気持ちもある。ここで伊達軍の勢いに水を注しても後日、数で圧倒できるであろう。
このまま一気に伊南へ攻め入りたい勘解由は不快の念を露にした。だが副将、梅津藤兵衛がとりなした。
「勘解由殿、ここから先、伊南は我ら未踏の山間、奥深い敵地。ここは長沼殿の策にも理があると存ずるが如何かの」
「我ら和泉田城を落して気勢が上がっておる。ここで長沼殿が引き上げたら間が開いてしまうではないか」
梅津は勘解由の不満顔を逸らして盛秀に言うには、
「長沼殿、貴殿のその策には確かに一旦は補充の名目で田島へ引き上げるしかあるまいが、こちらの兵にも勢いというものがある。今日よりいつ頃に相成るかの」
「数日のうちには。古町で合流いたす日を今ここで決めてしまいましょうぞ」
梅津は勘解由の顔を見てこう言った。
「我らの被害も多い。この地で傷兵の手当、後方からの補充も必要かと。多少の間が開いたとて伊南の兵力が今より増強されるでもなし。伊南などだかが知れた小勢。ここは長沼殿に任せてみてはどうかな」
梅津にしてみれば、盛秀の策が成功すればよし、しなくても伊達軍の被害は今現状よりは増えないと踏んだのであろう。勘解由は不承不承頷いた。
「あいわかった。長沼殿の策でよかろ」
だがこう付け加えた。
「貴軍に目付け役を付けるがよろしいな」
盛秀は一瞬、まさかこの血の臭いのする男が自ら軍監で付いて来るのではあるまいかと内心ギョッとしたが、付けられた目付けは柴田但馬、草野備中という二人の伊達家臣であった。
「では今より田島に立ち返り、数日後、古町で合流いたさん。約定を違わぬべし」
長沼軍、田島勢は撤退した。

河原田盛継は新城、久川城の望楼に立っている。
あれから宮床一族と僅かな兵が和泉田城から帰還した。雑兵首を持って満身創痍で脱出した五十嵐和泉と宮床兵庫は高熱を発して城内に伏せっている。
(越後勢は何処までアテになるか)
伊北、只見川沿いでは盛継の義兄、山ノ内氏勝が伊達軍と交戦している。越後の上杉景勝の軍勢が田子倉方面から伊北を伺っていて、牽制する程度だが伊達軍にとって不気味な圧力にはなっている。
上杉景勝から上方の情勢も伝わって来た。
さる先年、摺上原で伊達が蘆名を滅ぼしたのは上方の太閤殿下の意思に背いており、小田原北条を討った後に大軍をもって東北へ討ち入るであろうというもの。
和泉田城では敵勢にかなりの損害を与え、束の間の膠着状態になっているが、それまでこの新城で持ちこたえられるかどうかはわからない。
天下の形勢は今の盛継にとってあまり意味を成さない。それよりも、
(撫で斬りなど・・・よくも・・・)
ここから手の届く地で、伊南兵が斬殺されたのが許せない。
(盛秀め・・・)
それと結びつけるのは盛秀にとって酷というもの。撫で斬りをやったのは長沼盛秀ではないのだが。そこへ一の郎党、伊南源助が来た。
「御屋形、恥風辺りに手配を致しました。長沼勢は一旦は田島に引き返した様子にござる」という。
盛継は黙って頷いた。
直線的で単細胞の盛継だが、和泉田城への備えが殆ど無策だった後悔の念からか今度は単細胞なりに考えた。これまで盛秀の田島勢は北の駒止峠を越えて伊達軍と伊北に乱入したが、長沼軍の次は南の中山峠から来ると読んだのである。
(さては南北から伊南を挟撃するつもりと見ゆる。だが来てみろ。今度は備えがある)
予想される中山峠からのルートは、中山峠から舘岩郷を抜け、熨斗戸(ノシト)、松戸原、塩ノ沢、穴原、恥風を抜けて、伊南中心部、この地へ来るというもの。
松戸原とは現在の湯ノ沢温泉入口、恥風とは木賊温泉入口から、現在の国道352号線が沼田街道に左折する辺り一帯の山々である。
峠を越え、安心して下って来るであろう詰めの玄関口、恥風の山道に、河原田勢は石弓、丸太を担ぎ上げ、伏兵を置いた。
だが伊南源助は思う。「その策は受け身だ」と。
源助はいまひとつ手を打ちたいのだ。伊南は田島と比べて兵の絶対数が足りない。何か第三者的な助勢が欲しい。
(あの者どもの手勢を借りるか)
その者どもとは・・・。
源助自ら、その地へ走ることになる。
恥風付近.jpg源助が走った先・・・.jpg
盛秀は自分で弄した作戦の為に田島にわざわざ引き返し、緒戦の梁取城、第二戦の和泉田城に続き、都合三度目の出陣をすることになる。
例によって、「この策が成れば伊南は手中に収めたも同然」と、鼻高々で自画自賛である。
田部原治郎右衛門雅盛は、その台詞、前にも聞いたようなと想う。内心鼻白んだり心配したりする。
田島勢は次男盛重、中妻源太佐衛門盛頼、小野丹波、兒山丹波、湯田采女、九々布四郎衛門、そして、田部原治郎右衛門雅盛以下、騎馬百、徒歩勢四百、その中には鉄砲隊五十、弓隊五十。別に伊達の目付、柴田但馬、草野備中の率いる伊達軍百人が含まれていた。
今度は南下する。滝の原から中山峠を越えた。
このまま盛継の予想するルートで行くと思いきや、高杖高原まで来て盛秀は軍勢を停めて幕僚を集めた。伊達の目付、柴田と草野もいる。
小隊長クラスを呼んだ。
「湯田采女。兵百以下を連れて、舘岩緒郷、できれば恥風方面まで討ち入り、諸方の村々に火を放て」というのである。
兵百以下?
百はともかく”以下”という指示は不要であろう。采女は中途半端な数だなと思った。それと火を放つ場所が場所である。先年、河原田衆に横領されて盛秀が「取り返してやる」奪回したいかの地ではないか。そこを焼き働きするというのか。
田部原治郎右衛門が口を挟んだ。
「御屋形・・・」
「なんだ治郎右」
「今、采女にお命じになったかの郷は・・・」
「わかっておる」
「先日、田島の領内を荒らされた報復、もしくはかの郷が河原田衆についた意趣返しでござるか?」
「そうではない」
実はそれもあるのだが。
「盛継をこの方面に誘い出す策よ。采女、放火だけだぞ。かの地はもともと我が領地。略奪はするな」
采女にしてみれば徹底的にやるのか、手加減をしろというのか、何だか中途半端な命だと訝しんだが、足軽雑兵、小者ばかり連れて百人以下のせいぜい数十人が松明、火打石、その他火の基となるものを持って出立した。

采女以下を見送った後で、盛秀はニヤリと笑って幕僚に向き直った。
「我らは北へ向かう」
「北へ?」
幕僚はややどよめいた。
「更に山へ分け入りますか」と小野丹波。
「多々石峠へ向かう」
「多々石峠へ?となると、中山峠に続いて今日の一日に峠を二つ越えることになりますぞ。兵どもを休ませずにでござるか?」と、次男の盛重。
だが盛秀は譲らない。俺は智将だと言わんばかりである。傲然と胸を反らせて言い放った。
「休むのは多々石峠を越えてからだ。この峠越えこそこの戦の切所よ」
有名な小説のタイトルだと、「ここが巧妙が辻」といったところであろう。多々石峠を越えて西へ降りれば河原田の伊南中心部、古町に最短距離なのである。治郎右衛門もようやくわかった。この方面へ単細胞の河原田盛継を誘き出し足止めを食らわせ、その間に手薄になった河原田の本拠を急襲する作戦であろう。梁取方面の伊達軍と呼応して古町辺りで合流するというのだ。
「河原田勢を誘き出し、その間、多々石峠から古町へ下って、屋代殿他が率いる伊達軍と合流する。そうであったなお目付け殿」
盛秀は最後の方だけわざと声高に言った。伊達からの目付役、柴田但馬、草野備中は頷いた。だが二人は内心「コイツは己の策に酔ってやがる」とせせら笑った。
それでも地図上の作戦としては悪くない。2/3の距離で済む。さすがに地元の土地カンに明るい盛秀である。
三軍の進路.jpg
湯田采女率いる兵どもは、舘岩郷に放火してまわった。
住民たちは迷惑千万である。何事かと仰天して逃げ惑った。かつては長沼盛秀の支配下だったのを河原田衆についたのを恨んでの放火なら、今頃になって出し遅れた証文を振りかざしたような報復に等しい。
この煙は陽が沈む直前、久川城の望楼からかなり遠めに望見された。
「佐馬允、あの煙は何だ」
この時、伊南源助は城内にいなかった。密かにある場所へ後詰、援軍の要請に赴いて不在だったのである。一族の河原田佐馬允吉次が「様子を知らせよ」使番を走らせた。

陽が落ちた。
盛継は今にも自ら城中を出て急行しそうな気配である。篝火の前でイライラしている。待つことが嫌いなのだ。
舘岩方面の空がやや紅い。
渡辺九郎兵衛という家臣が走って来た。
「御屋形、田島勢が舘岩郷へ襲来。村々に火を放ちおります」というのである。
「かの方面に備えた石弓その他、伏兵はどうした」
「舘岩でござる。石弓や伏兵を配置した恥風までは来ておりません。その上流、舘岩の郷に放火」
盛継は眦が釣りあがった。
「佐馬允。城内の兵を連れて直ちに舘岩郷へ向かうぞ。盛秀のそっ首ねじ切ってくれる」
「お待ちを。ここは堪えて敵勢が恥風まで来たればそこに仕掛けがござりまする。そこで一打を加えて・・・」
盛継は最後まで聞かず、
「それでは舘岩郷が撫で斬りに遭う。見捨てられるか」
撫で斬り云々そこまでは盛継の思い過ごしだが、さる年の災害時に河原田衆は当時は長沼領だった舘岩郷を救済し、その時から河原田衆に懐いて我が領地となった舘岩郷が可愛いのである。
(困ったお方だな)
佐馬允は敵が舘岩郷を焼き働きしたなど、これから伊達軍を迎え撃つ大事の前の小事と言いたいのだが、そんなことを言われたら盛継は激怒するであろう。佐馬允は伊南源助ほど弁が立たないのである。
「続けぇ。遅れるなぁ」
慌ただしく久川城中から盛継と佐馬允を先頭に三百余人の兵が出た。滑稽なことに自分らが伏勢や仕掛けを施した恥風を通り越して更に上流の舘岩郷へ急行したので、結果的に恥風の仕掛けは用をなさなかったのである。

盛継夫人はこの光景を唖然として見ていた。
夫人は伊北の山ノ内氏勝の妹である。今、兄と実家の会津横田城は伊達軍と交戦中。我が夫、盛継も伊達に与せず抵抗していることは彼女にとっては好ましい。
だが・・・
(相変わらず慌ただしい我が夫(ツマ)であること)
騒々しい亭主だと思う。深呼吸して考えようとしない。先には会津田島を蹂躙し、益ないことに敵の家臣の女房をさらい、此度も一騎駆けの武者のように先頭切って火の手の方角へ走っていった。城内殆ど空。僅か百五十人ほどの兵と和泉田城から脱出してきた負傷兵、女子供と小者ばかりである。
「こんなところへ敵が攻め寄って来たら・・・」
夫人の懸念は翌日には懸念でなくなるのだ。

高杖高原から北へ方向転換した盛継と田島勢は、獣道に近い山道を喘ぎ喘ぎ登って多々石峠へ向かっていた。途中、「盛継勢が伊南を討って出ました」の報を得た。
盛秀はニヤリと笑った。
「采女に伝えよ。適当にあしらいなるべく長く引きとめよ。矢戦だけでよい」

現在、多々石峠は地図に名前だけあるようだが、自転車でも通行できない廃林道になっているという。この多々石峠に老夫婦が陋居している。かつて河原田家の先代盛頼と、今の盛継二代に使えた木沢玄蕃老人は、一子右衛門を河原田城に出仕させており、老齢の自らはこの山中、多々石峠近くの小炭火屋に老妻と隠遁していた。
木沢玄蕃は現役時代には田島勢とも戦い、服従を求めてきた蘆名家とも干戈を交えた。だが山中に隠遁した今は田島も伊南も同じ会津の郷にしか見えない。蘆名家が滅んでからの長沼家、河原田家の関係を憂えてもいる。それでもさすがに旧河原田家臣なので伊達の先鋒になっている長沼盛秀に味方する気はサラサラないが、己が仕えた河原田盛継の変わらぬ頑迷さ、視野の狭さにも時折嘆息する。
玄蕃老は、郷の噂で和泉田城兵が凄惨な殺戮に遭ったのを耳にしている。
(この地で撫で斬りとはな・・・)
世捨て人とはいえ、暗澹たる気分になる。
(何とかならぬのかの)
だが、玄蕃老に何ができようか。今は伊南に出仕している一子右衛門の無事を祈るばかりであった。
その日の陽が西に沈もうとする前、闇が峠を支配せんとしているその時、玄蕃老は何かの気配を察知して地に耳を当てた。
足音がする。少なくない群れの何者かがこの地へやって来る。
ガサガサと草木を掻き分けて現れたのは、驚いたことに長沼盛秀その人であった。
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盛秀と盛継 第六話 ~和泉田城凄惨録~ [盛秀と盛継(会津)]

伊達軍&長沼軍が和泉田城を包囲している。
和泉田城へ降伏勧告をしようとした盛秀を屋代勘解由が制止した。
「盛秀殿、開城勧告など無用。力攻めで陥す」
(いきなり総攻めかよ)
盛秀は嫌な予感がした。
(城兵は僅かであろう。一気に潰すつもりか)
屋代勘解由は主君政宗のためならどんな苛烈な手段を取ることも流血も辞さない。仙道での小手森城、高玉城、安子ヶ島城の伊達軍撫で斬りも率先して仕切った噂がある。
(まさか・・・この城、和泉田城の城兵もそうなるのではあるまいな)
「総がかりで寄せる。まず田島勢に下知させよ盛秀殿。我らも側面から続く由」
軍監の屋代勘解由に据わった目で睨むように命じられ盛秀は抵抗できなかった。
押し殺したような声音で応えた。「承った。田島勢、先手仕る」
だがこの戦、どうも結末が嫌な予感がする。盛秀はその胸騒ぎを無理やりに抑え、次男の盛重、侍大将の中妻源太佐衛門を呼んで告げた。
「総攻めだ。源太、敵は小勢。一気に寄せよ。盛重も続け。だが敵の弾にあたるな」

田島勢は喚声を上げて和泉田城の外郭に押し寄せた。
山麓部の平坦面、ここは急場に村民が避難する場所も兼ねていたのだが、そこを易々突破し、ジグザグな坂を昇っていく。
だが、細い九十九折りの急坂の角々で狙い打ちされた。
「敵は小勢ぞ。押せっ。登れっ」
次男の盛重、中妻源太佐衛門、小野丹波、兒山丹波、湯田采女らが数にもの言わせて大木戸を突破しようとする。
後詰の伊達軍は、梅津藤兵衛率いる数百の迂回軍が城山の斜面の窪地を這って登ろうとする。だがそこへ石弓という獲物が落ちてきた。
石弓とは城内に石を溜めておき、これに綱をかけていつでも切って落とすもので、よく国内や中国の山岳合戦シーンに出てくるもの。同様に丸太、煮え湯が寄手に降り注いだ。

次男の盛重は血の気が多い。
「これしきの小城。奮えや者ども」遮に無に登ろうとする。
中妻源太佐衛門は寡黙で冷静である。盛秀から「くれぐれも盛重を頼む」と言われている。矢弾や石弓をやりすごし、その合間をぬって城内に強弓で矢を打ち込んだ。
和泉田城の軍勢は山上より大石、大木を転がし、敵勢のたじろぐ隙に矢を射かけ、決死の表情で防戦した。
五十嵐和泉と宮床兵庫介らはここを死に場所と定めたかのように城内で獅子奮迅。やや疲れた兵に脅すように奮起を促した。
「伊達に下って死するか。ここで伊南を護って死するか。二つに一つぞ」
「伊達の撫で斬りの目に遭いたいか。気張れぇ」

河原田盛継のもとへ「和泉田城、徹底抗戦!!」報せが届く。
(和泉、撤退せなんだのか)
命令無視といえば命令無視。長沼盛秀の動員数は八百から一千だが河原田の動員数はせいぜい六百から七百程度。小領主同士の戦闘でこの差は大きい。だから新城を築いた。
「源助、援兵を送るか」
「寄せ手は千五百、我らはせいぜい二百を送れる程度」
「では山口辺りまで撤退して兵を伏せるように伝えよ」
「もう遅うござる。蟻の這い出る隙なく。次には必ずここへ寄せて参ります。この新城で迎え撃つしかござらぬ」
「・・・」
盛継は苦渋の表情で押し黙った。押し黙った盛継に源助が言う。
「和泉殿も覚悟のうえかと・・・」

西会津、山々の狭隘に銃声、矢唸り、喚声が木霊している。
長沼軍&伊達軍は攻めあぐんだ。だが数が多い寄せ手は新手を替え替え攻め上る。
盛秀の本陣に小野丹波が駆けてきた。
「御屋形、攻めるに難しい。城内から飛んでくる矢弾の数だと小勢のようだが、ご次男殿も源太の勢も正面の九十九折りの坂で膠着状態。。。」
頭の回転速い盛秀は言う。
「必ず何処かに攻め手がある筈だ。誰かこの地に明るい者はいないのか」
盛秀は土地に明るい者を銭の褒美で募った。

勘助という者が呼ばれた。勘助が言うには。
「和泉田城は三方にきつい山なれど西に尾根続きの高い山あり。ここから鉄砲を撃ちかければ」
傍らで聞いていた屋代勘解由は、何故、それをもっと早く具申せぬかという剣幕であったが、その屋代勘解由と梅津藤兵衛率いる別働隊二百名が和泉田城の背後に廻り、間道の尾根筋から鉄砲を撃ちかけて斬り込んだ。
城将、五十嵐和泉は「何ヤツが間道を洩らしたか」激昂したが、和泉田勢は背後から郭内に追い立てられた。
城内の郭が一つ一つ制圧されていく。城兵の血溜まりが増え、寄せ手の兵で埋まっていく。だがまだ城方は抵抗を止めない。
正午の開戦から夕闇が迫ってきた。

追い詰められた中央の郭の小屋に、城将、五十嵐和泉と副将、宮床兵庫が身に十箇所もの手傷を負い朱にまみれ、横たわるでもなく座っていた。
和泉は生き残った各郭の小隊長格を呼び寄せたがその数僅か三人。皆、僅かな手勢で城内を走りまわり疲労困憊である。
「宮床四郎右衛門と杢右衛門の生死は?」
「わかりませぬ」
「富沢藤助は?」
「二の郭で斬り死にして候」
「生き残った兵どもはどれくらいだ」
誰も応えられない。しばしの沈黙の後、五十嵐和泉は言った。
「田島勢はまだしも、伊達の兵は何をするかわからぬ。重傷者は望んだら介錯してやれ。動ける者は各自、己の才覚で落ちよ。伊南へ、久川へ落ちよ」
それだけ言うと、和泉は傷と出血と疲労で意識がなくなった。

盛秀は抵抗が緩んだ城内に入ろうと本陣を発った。両側には小野丹波、兒山丹波がいる。
「盛重は無事だな」
「無事でござる」
だが何だか嫌な予感が消えないのだ。
(もうすぐ陥落する。まさか勘解由のヤツ・・・)
銃声、喚声が止んだ。
ほうぼうで残敵の掃討戦が始まっている。

銃声、喚声が止み、やや静まった城内で、五十嵐和泉の意識が戻った。
(俺はまだ生きているのか・・・)
傍には宮床兵庫しかいなかった。ニヤリと笑った和泉が起き上がる。
「兵庫よ、もういかんかな。だがここまで釘付けにしたぞ。かくなる上はいっそ・・・」
自刃をほのめかした。だが兵庫は同心しなかった。満身創痍だが目が死んでいない。
「和泉殿、俺は伊南へ戻って今一度戦いたい。伊南の衆と一つになって運命を共にしたいのだ」
「・・・」
「某に思案がある」
「・・・?」
「だがこの策、所詮は成否を天運に任せるしかないのだが。和泉殿も俺に同心して欲しい」
兵庫が提示した策に和泉は驚いた。
「兵庫、そんな事が可能か?」
「やってみなければわからぬ」
言ったが早いか、兵庫は城中で討たれた者の首二つを掻き切り、諸手に提げた。
「一つは和泉殿が持たれよ」と放ってよこした。
「誰の首だこれは?」
「わからぬ。そんなこたぁどうでもいいではないか。ここからか切所ぞ。俺に続いてくれ」

死に傾きかけた和泉を兵庫が生に呼び戻した。二人は誰かわからぬ首を持って兵庫を先頭に残った馬で駆け出した。駆けながら叫んだ。
「これは五十嵐和泉、並びに宮床兵庫の首なるぞ」
「急ぎ、首実検に入れとうござる」
「長沼殿の御陣は何処にて候」
「伊達殿の軍監殿はありきや」
この剣幕に、寄せ手の兵どもは、「おう、本陣は麓にて候」「御両人の勇にあやかりたし」「勇ましいことよ」どよめきと称賛の声が上がり、行く先々で道を開いたという。
和泉と兵庫は偽首を持って、「敵将の首を得たぞ」と叫びながら、自らの傷から流れる血潮で朱に染まりながらも最後の力を振り絞って馬を走らせた。伊達の者は田島の兵と思い、田島の兵は伊達の兵と思ったのである。
二人は寄せ手の本陣脇をかすめた。どちらかというと文官の田部原治郎右衛門は本陣にいた。駆ける二人を見て訝しんだ。
(何処かで見た顔だな)
記憶をたどる。あっと思った。
先年、伊南へ使いし折にいた。一人は自分を宿舎に案内してくれた者ではないか。
だが、治郎右衛門は余計なことは言わなかった。むしろ、二人の無事を祈りたい気持ちであった。

和泉と兵庫は伊南方面へ走った。山口辺りでようやくにして死線を越えた。その辺りは兵庫介他、宮床一族の縄張りなのだが既に一族は伊南方面へ退去している。二人は伊南へ、まだ見ぬ新城、久川城へ向けて走った。
「伊達め、盛秀め、今に見ろ」
脱出した僅かな兵が二人について駆けて行く。

屋代勘解由は、城内に城将、五十嵐和泉がいないのを知って激怒した。
残った僅かな兵、逃げ遅れた兵、まだ息のある城兵の斬殺、撫で斬りを振るい始めたのである。
(やはり。また始まったか)
盛秀は眉をしかめた。
小手森城、高玉城、安子ヶ島城の再現か。だが表立って意見はできない。副将の梅津も止めようとしない。
屋代勘解由は常日頃から、「俺は政宗公の影を背負っている」と自負している。
勘解由が血刀を振るうのは政宗の命でやるのだ。政宗の命なら誰かがやらなくてはならない。副将の梅津藤兵衛もそれは理解していて、「俺はとても勘解由のようにはなれん」と思っている。
だが、伊達にとって新参者の盛秀にはまだ到底理解できない。
(そこまでせずとも)
盛秀は盛継が憎いが、兵農分離していないこの地方の城兵は平時には農民でもある。功成り暁はここから伊南は盛秀が治めることになるのだ。
(緒戦、梁取城の兵どもは生かされたのに、何故この和泉田城兵は斬るのだ)
怖気を振るった。次男の盛重や家臣たちも蒼くなっている。
盛秀は目を逸らし、残敵を掃討するフリをしてその場を立ち去った。

城方の宮床四郎右衛門と宮床杢右衛門が負傷して腰郭に横たわっていた。起き上がり何処へともなく立ち去ろうとした時、その場に歩いて来た盛秀と目が合った。
一瞬、空気が凍りつき殺気が走ったが、盛秀は黙って首をしゃくった。逃げよという意であろう。
二人は尾根伝いに逃げた。

この和泉田城攻防戦は、城兵の撫で斬りも含めて諸説あるようだが、伊達の軍勢の死傷者もかなりの数なのである。
手元の書籍には「伊南合戦記」からの記述があり、「八月二十四日、政宗の家臣梅津藤兵衛、八代勘解由両大将にて布沢、小林、梁取の降参共を引率し和泉田へ押寄せ、五十嵐和泉道正を攻めにける。道正も一族要害に楯籠り、一日の戦に両大将を始め八百余を討つ」という。
両大将を始め伊達軍の戦死者が八百!!
多すぎないか。
しかも両大将を始めというのは、梅津藤兵衛と屋代勘解由を指すという。
実際、私の手元にも、この二人が戦死した記述の書籍はある。

では城方の記録はどうか。
「味方は小勢なれば道正を前とし一族二百人皆々討死にして落城したりけるは無念なりし事共なり」という「伊南合戦記」という資料は、この戦闘から後年、文禄元年(1592年)、和泉田城主、五十嵐氏の一族であった五十嵐宗左衛門惟道という人物、後裔が語ったものを、子の惟房という人が口述筆記したと伝わる。
和泉田落城から僅か3年後の記述なので最も信頼したいが、それにしても多過ぎる。大量虐殺といっていい。

もうひとつ。「泉忠記」という文献には「撫で斬りにされたのは武士百二十七、雑兵七十」と。寄せ手の戦死者も、武士三百、雑兵八百という。かなり多い。

和泉田城の祠.jpgまだある。「伊達家治家記録」
これは伊達側の記録で、梅津藤兵衛と屋代勘解由が戦死したという記載はない。だが「城中の者共残り無く撫斬せし」とある。凄惨な状況であったことが伝えられている。

五十嵐和泉と宮床兵庫が首二つ持って脱出した書籍もあるのだ。その書籍には生き残ったのはその二人だけというもの。


この和泉田城の力攻めは寄せ手にも甚大な損害を与えた。後日、このツケが伊達に大きく響いてくる。

その夜。。。
盛秀は兵を休ませ、陣幕の中で徴発した酒を口に含んでいた。暗く沈んでいる。
撫で斬りにされた城兵の血で悪酔いしたみたいになっている。顔が青黒い。
だが、酔ってはいない。酔えぬのだ。
盛秀の知る会津の戦闘は、相手を徹底的に叩き潰したり、殲滅するまではやらないもので、対陣途中の何処かのタイミングで誰かが仲裁して和議になったり、政略的な婚姻で結ばれたり、一時的かも知れないが休戦になったりする。そして寝返ったりの繰り返しになるのだが、それでも相手を“潰す”まではやらない。これは雪の季節は兵を動かせないのと、兵農分離が進んでいないこの時代、対戦相手の兵どもの生を奪ってしまうとその地の収穫がなくなるからである。
だから長沼家も河原田家も小競り合いしながら残ってこられた。蘆名、畠山、山ノ内、相馬、大内、二階堂、猪苗代、穴沢、皆そうである。
だが伊達政宗という「やるからには徹底してやる」タイプが現れる。小手森城の八百人だかの撫で斬り、城中の生あるものは牛馬犬猫の類まで斬殺した仕置きが東北地方の大名たちを震撼させた。
盛秀はそれを承知で政宗についた。だがさすがに仙道の小手森城、郡山方面の高玉城、安子ヶ島城の惨劇の再現を、まさかここ西会津で己自身が目にしようとは思わなかった。いい気分ではない。

盛秀は伊達に組したのは後悔していない。だが・・・
(やり過ぎだ・・・)と思う。
(いや違う。アイツだけだ)
盛秀は自分が選んだ伊達が嫌に感じたのだが、悪漢はあの男・・・屋代勘解由だけだと己に言い聞かせた。迷ってはならんとも己に言い聞かせた。
そこへ次男の盛重がやってきた。何か言いたそうである。
「親父殿」
「盛重か。陣中はどうだ」
「やや沈んでござる。あまり口を開かぬ」
「さもあろうな」
しばらく黙って盛重が言う。
「親父殿。あれは伊達のお家芸でござるか」
「そうともいえぬ」
「あそこまでせずとも」
「これは戦時ぞ。平時ではない」
「しかし・・・」
「盛重、声が大きい」
「・・・」
「盛重、ワシが何故、蘆名家を離れ、伊達家についたかわかるか」
「それは・・・凋落した蘆名家を、日の出の勢いの伊達家が呑み込んだからでしょう」
「それは答えのようだが答えではない」
盛秀は内心、何故、己が蘆名を見限り、伊達に付いたか考えていたのだが、盛重へ諭しながら、己に言い聞かせるように言った。
「鎌倉以来の家、長沼の家を存続させる為だ。それには蘆名家では保てなかったのよ」
「・・・」
盛重は承服しかねる表情でもある。
「だがそれともう一つある。田島を、伊達から護るためよ。わかるか盛重」
当初は盛継個人が嫌いなのと、横領された舘岩郷を取り返す為に始めた戦争だが、ここで初めて”西会津や南会津の為”と切り替えた。切り替えることで納得しようとしたのである。
「伊達殿に意地を張る盛継では西会津、南会津は滅ぶ。盛継が武士(モノノフ)の意地で滅ぶのはあいつの勝手だが、西会津、南会津の領民たちはどうなる。抵抗した者は多少は命を落とすだろうが、伊達家に逆らった兵どもも含め、この地の領民ともども生あるものを、伊達にことごとく討ち果たせてはならぬと今日気づいた」
「・・・」
「ワシが指図して田島勢だけで攻め取ればあんな残虐な真似はせぬ。だが田島勢だけでは足りぬ。だから伊達家の合力は得る。得るが、それはこの地を生かす為に河原田盛継を討つ為だと思え」
「・・・」
盛重は饒舌な父親に驚いた。だが不承不承といった表情である。
「盛重、得心せよ。いずれわかる」
傍らにいた治郎右衛門は目を瞑って聞いていた。主、盛秀の立場、苦悩を理解しようとしている。

盛継は四方の峠に兵を割いたので、和泉田城に援軍を送れなかったのだが、送る間もなかったといっていい。和泉と兵庫に「脱出せよ」と書面を送ったその日の夕刻、陥落の報が届く。
五十嵐和泉と宮床兵庫介は満身創痍で帰還した。二人の帰還に久川城内が沸き返った。盛継は自分の命令を無視して玉砕した二人をブン殴ってやろうと靴音荒く駆け下りて来たが、己の出血に息も絶え絶えに横たわる二人を見てさすがに気が変わり、少しだけ瞼が濡れた。
伊南の郷.jpgだがその直後、逃げてきた僅かな兵どもから、残された城兵が伊達軍の撫で斬りに遭ったことが伝わったのである。
伊南源助と河原田佐馬允以下、郎党たちは和泉田城へ向かって怒りに震えた。
盛継は押し黙っている。黙って北の方角を睨んでいる。一言だけ呻くように言った。
(伊達許すまじ。盛秀・・・)




(屋代勘解由は会津の資料では戦死、伊達家の資料には生きているようです。この後も様々な逸話で登場するようだが、例えば政宗の弟、小次郎の介錯を命じられたり、後年、出奔した伊達成実の家族を討ち果たしたりと血に彩られた生涯だった。政宗の命によるものとはいえ。。。)
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盛秀と盛継 第五話 ~独眼竜の思惑~ [盛秀と盛継(会津)]

◆会津四家の二人◆
長沼盛秀~
南は栃木県の横川~会津滝の原(現在の会津高原)、東は会津下郷辺りまでを治める会津田島の鴫山城主。頭脳明晰だが器量は中くらい。隣領の河原田盛継とは犬猿の仲で、伊達の合力を利用して打倒盛継に執念を燃やす。
河原田盛継~
伊南から檜枝岐方面を治める古町温泉近くの駒寄城主だが、新城、久川城を密かに築いている。伊達政宗を挑発するほどの硬骨漢で戦巧者。やや単細胞で直線的思考。無骨で根っからの奥会津人の武士(モノノフ)。長沼盛秀とは犬猿の仲。

◆長沼家の子供たち◆
長沼福国~盛秀の長男。
長沼盛重~盛秀の次男。武勇自慢で血の気が多い。
長沼九郎左衛門~盛秀の三男。

◆会津田島衆、長沼家の家臣たち◆
田部原治郎右衛門雅盛~架空の人物。盛秀の重臣で田島領内を仕置きする文官。会津鉄道田島高校前駅から徒歩数分にある田部原館に在住。何かと慌しい盛秀を補佐する執事役。
中妻源太佐衛門~田島勢の侍大将。会津下郷の中妻辺りを護る伝承の人物。
小野丹波~田島勢の足軽大将。湯野上の玄関口の小野岳に山塞を構え、大内辺りを護る。
兒山丹波~同じく足軽大将。
湯田采女~田島勢の武者。

金井沢佐衛門佐~名前のみ登場。盛秀の姉婿で、それをカサに着て家中でも評判がよくない。河原田盛継は佐衛門佐とかつて遺恨があり、意趣返しに女房をさらわれてからは家中で肩身が狭くなっている。

◆伊南衆、河原田家の家臣たち◆
伊南源助~盛継が最も信頼する一の郎党。根っからの伊南育ちで武芸、探索、交渉に長け忍びの心得もある河原田家臣ナンバー1。
河原田佐馬允吉次~河原田一族で盛継の甥か。温和で武芸に秀でた河原田衆のナンバー2。

五十嵐和泉道正~河原田領の北の橋頭堡たる和泉田城の城将で河原田衆のナンバー3。
宮床一族 兵庫介~五十嵐和泉の片腕で和泉田城の副将。同四郎右衛門と同杢右衛門、この二人は兵庫介の一族で、南郷の宮床という地に館があった。
(和泉と宮床衆は、河原田一家の中でも、惣領盛継の側近の伊南源助や河原田佐馬允吉次とはやや一線を画している。この四人の出番はこれからである。)

只見大炊介~もとは山ノ内家の家臣で、その名の通り只見郷の出身。盛継夫人が山之内家から嫁して来た時に随行してきた。河原田家中で最も夜目が利く郎党。
芳賀阿波~河原田先代盛頼と盛継二代に使える年齢不詳の老臣。盛継と家中に伊達との徹底抗戦を主張したが・・・
他に渡辺九郎兵衛、馬場弥次右衛門、大桃右京。

◆戦国の会津女性たち◆
盛継の母~御名前は不明です。
盛継夫人~会津四家の山ノ内氏勝の妹と伝わる。直線的で猪武者っぽい盛継を頼りにしてはいるが・・・
彼女の出番は後編で。
盛継の乳母~袋の方と伝わる。

長沼御前~前半に登場。後半は名前のみ登場。盛秀の姉。盛秀の家臣金井沢佐衛門佐の女房で、亭主と盛継の因縁で伊南にさらわれた。

◆南会津戦争のキーマン◆
木沢玄蕃
河原田の先代盛頼と盛継の二代に使えたが老齢で隠居。老妻と多々石峠の炭火小屋に住む。田島と伊南の争いに心を痛めているが、意外な展開でこの戦争のキーマンとなる。

◆伊達家の将校たち◆
大波玄蕃允~伊達軍、伊北攻めの総大将。
屋代勘解由~景頼ともいう。伊達政宗の筆頭旗本。政宗の命令なら苛烈な手段を取ることも辞さない血で彩られた汚れ役。小手森、高玉、安子ヶ島の撫で斬りも政宗の命とはいえ率先して執行したような印象を持たれ諸州に恐れられている。独眼竜政宗第11話「八百人斬り」に登場し、江夏豊さんが演じたあの左利きの怪人ですよ。
梅津藤兵衛某~伊達軍の将。屋代勘解由よりは話がし易い設定になっている。

◆その他◆
布沢上野介と野尻兵庫~第三話にのみ登場。会津四家の山ノ内氏勝の家臣だったが、不和だった氏勝に捨てられて伊達につく。

星備中~檜枝岐村の関守。後半に名前のみ登場する。

山ノ内氏勝~名前のみ登場。会津四家の一家で只見川流域を納める横田中丸城主。一旦は政宗に帰順して黒川にいたが嫌になって脱出して抗戦の構えを示す。
山ノ内家は領土が只見川に沿って細長い為か、一族家中が一枚岩でなかったようで分裂し、布沢上野介と野尻兵庫といった造反者が出た。河原田盛継の義兄。

伊達政宗~蘆名家を滅ぼしたまでは上昇気運だったが、上方から太閤の惣無事令が出ている。小田原北条攻めまでに西会津を併呑できるかどうか。。。

「第一話:ソリが合わない」 http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-10-1
「第二話:二張りの弓」 http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-15
「第三話:よう働く」http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-15-4
「第四話:どっちもどっち」http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-22

第一話~第四話までのあらすじ。。。
旧蘆名家中、西会津で境界を接する隣国同士の長沼盛秀と河原田盛継は、性格、気性、生き方や考え方、全てがウマが合わない。
お互いが大っ嫌いなまま今日まできた。
両家の均衡を保っていた蘆名家が滅び、侵略してきた伊達政宗に盛秀はいち早く帰順したが盛継は断固拒絶。政宗や盛秀を挑発して徹底抗戦の態度を示す。
盛秀は盛継との長年の遺恨を清算すべく「盛継の領地を賜るなら・・・」という条件で伊達軍の尖兵となり西会津戦争に積極的に参戦する。せっせと働くそのサマは滑稽ですらある。
盛秀は、盛継が密かに久川城という新城を築いていたのを知らない。緒戦、伊北の梁取城を抜いて得意満面な盛秀だが、留守中の会津田島を盛継に荒らされ慌てて撤兵。政宗へ援軍をすがるが、そこへ政宗の大喝が待っていた。

留守の田島領を荒らし、姉をさらった盛継のやりように怒り狂い、見苦しいくらいに動転した盛秀は黒川(会津若松)へ自ら走った。
だが昨年、「河原田盛継の領地、伊南を賜るなら先手を仕りましょう」と大言を吐いたのを政宗が忘れているわけがない。この大言が仇となり、政宗に助勢をすがった盛秀に政宗の怒声が降った。
「盛秀っ!!先回の大言にも似せぬ今回のその挙動は何だっ!!汝の力に及ばぬのなら、昨年預けおいた所領安堵状はすぐさま返すべしっ!!」
大変な剣幕であった。盛秀が面を上げるともう上座に政宗はいなかった。足音荒く去っていった。
(来るのではなかったワイ)
すごすごと田島へ引き返したのである。

だが。。。
盛秀に怒声を浴びせ、田島へ追っ返した後、政宗のもとへ原田休雪斎という重臣が囁く。西会津戦線から早馬が来たのである。
政宗の顔色が変わった。
「越後から上杉勢が会津横田の山ノ内氏勝へ援軍を送る気配だと?」
「確かな情報にござる。となると梁取にいる大波玄蕃允率いる我が軍勢、山ノ内氏勝の横田中丸城まで届くかどうか。加えて小癪な河原田盛継めが伊南から北上すれば背後から挟撃されかねません。ここは長沼勢に新手を加えて河原田勢を押さえることが必要かと」
「休雪斎よ。あの盛秀めに新たに兵を馳走するのか」
「御意。ですがあくまで先手は田島勢。あの長沼盛秀はよう働く御仁なれど所詮は南会津の小領主。山ん中で河原田盛継と田舎喧嘩をさせておけばよろしい。しかし田島勢だけではちと心もとのうござる。新たな後詰は監視役も含めてお手配あれ。盛秀めにあまり大きい手柄を立てられても・・・」
政宗はちょっと考えていたが、即座に一決して書状を二通したためた。手を叩いて使番を呼んだ。一通めの書状は総大将大波玄蕃允への命令書である。
手渡しながら口上で言うには、
「大波玄蕃允に伝えよ。後詰を送る由、屋代勘解由と梅津藤兵衛に兵一千を盛秀に合力させて伊南を攻めさせよと。勘解由には長沼勢の軍監を申し付ける・・・」
というものであった。
「途中、盛秀に追いつくであろう。この旨は先に盛秀に申し渡して差し支えなし。盛秀には梁取へ戻れと伝えよ」
もう一通の書状は屋代勘解由宛である。
「この書状を勘解由にのみ手渡し密かに申し伝えよ。次の城攻めまで封を開けるなと」
二通目は果たして何の書状なのだろうか。

鴫山城へ戻る途中の盛秀に政宗の使者が追いついた。
政宗の言上を受けた盛秀は胸を撫で下ろし小躍りして喜んだ。政宗の怒声を浴びたのはもう忘れたような喜色である。そこから先は田島へ帰る馬の歩足も早くなった。
鴫山城で出迎えた心配顔の田部原治郎右衛門に、、
「首尾は上々。政宗公は後詰を送る由すぐさま梁取へ返せとの御下知だ」
喜色満面で言った。盛秀は自分にとって都合のいいことしか言わない。政宗の怒声を浴びたことは一切言わなかったがまぁ結果オーライである。
(おかしいな)
治郎右衛門は政宗への使者を断った負い目が若干あり、政宗に怒られて意気消沈してくるであろう盛秀を慰撫激励する心づもりだったのだが、案に相違して盛秀の顔色は良い。
だが、盛秀も治郎右衛門も、政宗の事情、本心は知らない。

盛秀は再度、田島を発って伊北方面へ向かった。軍兵は五百人。留守中を盛継に荒らされたので懲りたのか、留守の鴫山城と、中山峠、駒止峠の哨戒兵を増員したので前回より少ない。
だが出立前、盛秀は重要なポイントを逸している。
黒川へ走って政宗に怒鳴られていた留守中、盛継にさらわれた金井沢佐衛門佐の女房、すなわち盛秀の姉は田島に戻ってきている。盛秀は再度の出陣前に姉の見舞いに行こうとしたのだが、姉はさらわれたことを恥じているのか弟の面会を拒絶した。
無理にでも会うべきであった。姉が留め置かれたのは盛継の旧城、駒寄城ではなく、新城の久川城であったのだから。。。
この時点で、盛秀はまだ盛継の居城は旧城の駒寄城と思っていたのである。

一方、梁取城(第四話)から北上しようとした伊達軍は、越後の上杉軍が田子倉方面へ突出せんという報を得て伊南川沿いに駐屯していた。
既に伊達の別軍は只見川沿いを進んで山ノ内氏勝の諸城を次々に攻撃している。そこへ屋代勘解由と梅津藤兵衛は大将の大波玄蕃允から政宗の直命を拝領した。伊南への方面軍に転換させられることになった。
勘解由は面白くない。
(盛秀への合力かよ)
だが政宗の命令は絶対である。
ところが書状は二通あった。総大将大波玄蕃允宛とは別にもう一通、屋代勘解由宛へ直接の書状が手渡された。
使者が勘解由に言うには、
「公は、次の城攻めの時に封を開けと仰せられました」という。
(はて?訝しいことよ)
恐るべき内容がもう一通の書状にしたためられていたのである。

屋代勘解由は到着した田島勢、盛秀に皮肉を浴びせた。
「兵がいささか少のうござるの」
盛秀はやや赤面した。嫌なヤツだと思う。兵数は前回八百だった。今回は五百程度。
「領境の峠に抑えを置き申した。河原田盛継は田舎武者なれどなかなかの戦巧者ゆえ」
屋代勘解由はニヤニヤ笑っている。
「ではもう留守中に里を荒らされて慌てて取って返すこともあるまいな」
盛秀は内心ムッとしたが、さにあらず体で、
「ござらぬ。その為の備えでござる」
盛秀は伊達の為にせっせと働くので評価は高いが、留守中を荒らされた慌てぶりで諸将の失笑をかっていたのである。

長沼盛秀の率いる田島勢五百と、屋代勘解由、梅津藤兵衛率いる伊達軍一千、計一千五百の軍勢は梁取城から伊南川に沿って南へ反転した。
その先にあるのは和泉田城という。
河原田盛継の伊南領、最北の備え。橋頭堡といっていい。前線基地の支城である。
城将は五十嵐和泉道正。
和泉は河原田衆ナンバー3。伊南源助、河原田佐馬允吉次に次ぐ。
副将に宮床兵庫介。旗下にはその一族、宮床四郎右衛門、宮床杢右衛門・・・。
だが、城将、副将と謳っても、守兵は僅か八十人から百人程度であった。
前哨戦、梁取攻め地図.jpg
彼らは伊南源助や河原田佐馬允のように盛継の近習というわけではなく、盛継を主君というよりは伊南の盟主に仰ぐ関係である。その五十嵐和泉のもとへ盛継から命令書が届いている。
「伊南の御屋形は何と?」
宮床兵庫介、宮床四郎右衛門、宮床杢右衛門、富沢藤助がにじり寄る。
和泉は苦渋の表情で嘆息した。
「御屋形は、この城を捨てよと仰せだ」
「何と!!」
「伊南へ立ち返れとある」
「・・・」
宮床兵庫介が言う。
「では新城は完成したのですな」
「うむ。久川城は落成なったとある。だが・・・」
和泉にも意地がある。
「だからといってこの城(和泉田城)を捨てたらどうなる・・・。ここを易々と突破されたら、山口辺りまで蹂躙され、その先は一気に伊南の郷まで攻められようぞ」
一同、頷いたものである。
「敵は十五倍の数・・・だが・・・如何に御屋形の命とはいえここは伊南の玄関口。ここで一叩きせずして伊南に敵勢を招き入れたら我ら物笑いの種になろう」
玉砕覚悟の徹底抗戦に決してしまったのだ。
「伊南を伊達から護る。耳にしておろう仙道郡で伊達が何をしでかしたか。伊達に下るは死を意味すると兵どもに告げよ」

和泉田城を盛秀率いる田島勢、伊達軍が包囲した。
この時、勘解由は政宗からの書状を開いている。それは恐るべき命令書であった。
「西会津の者ども伊達に従わぬなら攻め取って撫で斬りにすべし」というもの。
小手森城、高玉城、安子ヶ島城の再現がなされるのだろうか。(続く)
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忙しい船山史家 [盛秀と盛継(会津)]

仲の悪い二人・・・西会津、南会津の戦国小説、「盛秀と盛継」、後編執筆中!!
伊達政宗にいち早く属して、隣領の犬猿の仲で長年の宿敵、河原田盛継を討って所領を増やそうと目論むちょっと慌て者だが頭脳明晰な会津田島、鴫山城主、長沼盛秀。。。
伊達なんかに尻尾振れるかと、犬猿の仲、長沼盛秀と伊達連合軍に伊南の寡兵で立ち向かい、やや子供じみて単細胞だが戦巧者な硬骨漢、西会津・伊南久川城主の河原田盛継。。。
カテゴリを会津から別枠で統一しました。
「第一話:ソリが合わない」 http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-10-1
「第二話:二張りの弓」 http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-15
「第三話:よう働く」http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-15-4
「第四話:どっちもどっち」http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-10-22
戦国時代も大詰め後半、会津同国人なのに何の因果か、性格や気質が全く相容れず・・・
「アイツだけは嫌いだっ」
「一緒にすんなっ」
・・・全くウマが全く合わない隣国領主同士のイガミ合いが伊達軍を巻き込んで第五話以降、直接戦闘で佳境に入ります。
久川城.jpg鴫山城.jpg
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盛秀と盛継 第四話 ~どっちもどっち~ [盛秀と盛継(会津)]

梁取城に盛秀と伊達の連合軍が押し寄せた急報を受けた河原田盛継は、一の郎党伊南源助と一族の河原田佐馬允に騎馬三十雑兵百余人を付けて急派させようとしたのだが、細作から得た田島勢の兵数を聞いて駒を止めた。
(田島勢で八百人だと・・・)
多い。殆どの動員数ではないか。
「源助、佐馬允」
盛継は信頼する股肱二人を呼んだ。
「田島勢は八百だそうな。多い。さては盛秀め伊達の前で印象良くせんと領内殆どの兵を駆り出したと見ゆる。二つの峠(駒止峠と中山峠)に多少の兵を割いただろうが田島本領は僅かの留守兵であろ」
盛継はこの辺りの勘、判断力は鋭い。
「このまま田島へ攻め入りますか」
「梁取城はそう持つまい。田島へ討ち入る。村々を荒らすだけでよい」
急遽、河原田勢は東へ反転、僅かの守備兵がいた駒止峠を突破し、針生村から桧沢川に沿った村々へ攻め入ったのである。
犬猿の仲同士の地図.jpg
河原田衆は村々、特に裕福そうな在家在家に火を放った。この時代の農民は自警団というか、武士でもあるので若干の抵抗を受けたが、急襲された村々は殆どが「何事が起こった」と、慌てふためき東西に逃げ惑うばかりであった。中には武器を取って抵抗する者もいたが多勢に無勢である。
針生の住民こそいい迷惑であった。炎が立ち昇り、その炎に照らされて立つ盛継とその軍勢は魔界の軍団に見えた。

それでも盛継はこう言った。
「佐馬、あまり貧しい者の家は焼くな。藁束や小屋程度にせよ」
「この先、細井の屋敷がございますが」
「そこまでだと深過ぎる。おっつけ田島や梁取からも引き返して来よう。ほどほどで引き上げ・・・」
そこまで言いかけ、盛継の表情が固まった。
「御屋形、どうなされた」
「・・・」
やや間を置いて盛継は言った。
「佐馬允、金井沢佐衛門佐の屋敷はここからどの辺りにある?」
「金井沢佐衛門佐?」
河原田佐馬允は何処かで聞いたようなと思った。金井沢佐衛門佐は盛秀の一族、姉婿である。
もしかして、かつて黒川へ向かう街道筋で我が党と悶着を起こしたあヤツか。御屋形はあの一件の報復を思いついたのかと思い立った。
金井沢という地は現在の細井家資料館から更に田島寄りである。金井沢佐衛門佐の屋敷はそこにあるに違いないと踏んだ。だがそこまで踏み込むか。深入りし過ぎないか。
「金井沢の地はここから先、田島に近い位置ですぞ」
「構わぬ。他の在家はもうよい。金井沢へ寄せよ」
金井沢佐衛門佐の屋敷は案外すぐにみつかった。だが佐衛門佐と主だった男衆は主君、盛秀に従軍して不在だった。屋敷を包囲して押し入り脅すように詰問したが小者ばかりである。
(不在か・・・)
「では金井沢佐衛門佐の女房を引っ立てろ」
この命令に盛継の家来郎党どもは耳を疑った。「御屋形」「金井沢の女房を」「何をお考えか」というのである。
河原田衆が含むところのある金井沢佐衛門佐だがその女房は長沼盛秀の姉である。この時代では大年増である。伊南源助などは自分の価値観だけで考え、同僚の只見大炊介、馬場弥次右衛門に、「御屋形も酔狂な。あんな大年増なんか戦利品にもならんのに」と盛継に聞こえないように言った。大炊介と弥次右衛門も何か言いたそうに首を傾げている。ちと喧嘩のし方がいまいちしっくりこないのだ。だが諌めようにも盛継の目は真剣である。

金井沢佐衛門佐の女房が引き据えられた。なるほど大年増の女房は顔面蒼白であったがそこは長沼盛秀の姉である。気品がある。
「長沼盛秀の姉ぞ。伊南の礼儀知らずの田舎武者め。下がりゃ」精一杯に威を振舞ったが盛継は全く意に介さず。
「我ら河原田一党、その方のご亭主殿とはちと因縁がござる。そなたが言うところの田舎、伊南へ同道していただく。自害などさせるな。舌も噛ませるな」
猿轡をはめ、目隠しをして縛め、馬の鞍に括りつけてしまった。
慄く家人に言う。
「夫人に害は加えぬ。この有様を盛秀に伝えよ。返して欲しくば伊南まで来るがよいとな」
盛秀の頭を混乱させ、田島領内を混乱に陥れ動揺させるのが目論みだが、このやり方はどうであろうか。源助も佐馬允も大炊介も弥次右衛門もかな~り複雑な気分であった。
源助は「まさか御屋形は、あの大年増の女房を側女にするのではあるまいな」と、誰もが言えないでいることを吐いたのだがその時、鴫山城方面を見張っていた渡辺九郎兵衛という郎党が駆けて来た。
「鴫山城から寄手が・・・」
「九郎兵衛、頭は誰だ?」
「盛秀の三男、九郎左衛門と見受けたり。兵は八十」
「たかが八十であの小僧か。小僧に用はない。伊南へ返すぞ」
盛継以下の河原田勢は帰る足も速い。駒止峠へ帰る道を途中から逸れ、戸板峠から伊南へ帰還した。盛秀の田島勢が駒止峠を引き返して来る前に河原田領内に下っていったのである。戦利品は若干の米俵と、抵抗して捕らわれた者、盛秀の姉である。

駒止峠を越えて領内に帰還した盛秀は、荒らされた針生村や金井沢村を見て怒髪天を衝くばかりに激昂したが既に後の祭り。姉が拉致されたと知り狼狽した。地団太を踏んで口惜しがった。見苦しいほどであった。留守してた三男をドヤシつけた。
「九郎左衛門、そちは何しておった。指くわえて傍観しておったのではあるまいな」
治郎右衛門は嘆息した。
(またお得意の八つ当たりか。鴫山城の留守兵は百人もない。九郎殿に何ができようか。簗取へ動員し過ぎたのだ)
治郎右衛門は、盛継が盛秀の姉を拉致したのは金井沢佐衛門佐への先年来の遺恨だと察しがついている。佐衛門佐当人がいれば佐衛門佐の首を引きちぎっていたに決まっている。
治郎右衛門はもう一度、嘆息した。
(いつもながら河原田の殿も子供じみた真似をなさる)
先には政宗を挑発し、二張の弓をよこし、今度は盛秀の姉であり、遺恨ある家臣の女房をさらうとは。
意を決したように言った。
「御屋形、焼け出された村々の民は諸方の寺や豪農に預けおきました。梁取の大波玄蕃允様に早馬を走らせ我らはすぐさま奪還すべく伊南へ兵を差し向けましょう。峠には河原田勢の伏兵が待ち構えているかと思いますが小勢に過ぎますまい」
だが案に相違して盛秀はこう言った。
「政宗公へご助勢をすがる」と言うのである。
「それはお止めなさった方が・・・」
恥の上塗りになる。先年、河原田の伊南の領地を賜るなら先手を仕りましょうと豪語した手前もある。ましてや姉の奪回戦など私戦ではないか。
だが盛秀はきかない。言ったそばから「ご助勢を賜りたい」旨、書状にしたためた。
「治郎右衛、その方、黒川へ使いに・・・」
(冗談ではない・・・)[たらーっ(汗)]政宗に使いして、「主君、盛秀に河原田の伊南の領地を賜るなら、先手を仕りましょう」と言上したのは治郎右衛門自身である。その舌の根も乾かぬというか、言った当人が今度は“助けて下さい”などと言ったら政宗はどれほど怒るか。
治郎右衛門「焼けた村々の慰撫がござれば」と逃げてしまった。実際、焼かれた家々はそう多くはない。
長男の福国に持たせようとしたが、そこでまた思いとどまり考えた。
「自分で行く」という。
治郎右衛門は呆れた。
(まぁそれもよかろ。その方が目が覚めるだろう。せいぜい政宗公の勘気を蒙って来ればよろしい)
小まめに動く盛秀は黒川へ自ら走しった。忙しい男である。

盛継は意気揚々と伊南へ帰還した。
この頃、新城、久川城はほぼ完成し、一族郎党は駒寄城から少しずつ引越してきている。新城で留守兵どもには大歓声で迎えられたのだが・・・

新城の奥で、盛継の母と夫人(山ノ内氏)、乳母は、白~い目で迎えた。
「盛継殿」
「・・・」
「そなた幾つになられた」
「・・・」
「あのような女子を捕らえに田島へ兵を向けたのか。聞けば長沼殿の姉とかいうではないか。そなた何を考えよるか」
盛継の母は立場が違えどそこは戦国の女性である。盛秀の姉に同情的な部分もある。
「・・・」
盛継が盛秀の姉を捕らえたのは将来的、戦略的な意図など全くない。単に大嫌いな盛秀を怒らせ、動揺させ、長沼家中、鴫山城中を混乱させようとしたに過ぎない。
「お前様・・・」
これ以上ない険しく刺々しい声を放ったのは会津横田の山ノ内家から嫁して来た盛継夫人である。山ノ内氏勝の妹という。一子がいる。
姑と嫁が組んだ様相を呈してきた。二人して盛継を睨めつけている。度し難き息子、亭主という目である。
盛継夫人は何か誤解しているようでもある。まさかあのような大年増の人妻を側女にするわけでもあるまいが、誤解されても仕方がないであろう。
実母以上に盛継に親しい乳母殿は哀しげな表情で伏し目がちである。
母と女房に白い目で見られ、盛継もさすがに(やくたいもないことをしたか)と気づいたがもう連れて来てしまったし。
「・・・」
盛継が何も言わないので、とばっちりが傍らにいた一族の河原田佐馬允吉次(甥?)に飛んだ。
「そなたが付いていながら・・・」
「伊南の総領のお名を辱めると思わないでか」
辟易した佐馬允は平伏した。何か言わねばと思い盛継の方を向き直ってこう言った。
「総領、盛秀の姉を拉致するなど、世間の覚えも如何なものでしょうか。だいいちあのような大年増・・・
失言である。女どもの怒りの矛先が自分に向いた。しまったと思い慌てて言い繕う。
「・・・あのような女子、あまり戦略的な意味もございますまい。お気が済まれたら峠まで送り返された方が・・・」
盛継はまだ黙っている。見かねて盛継の母が言った。
「あの女子、一晩泊めて田島へ返すがよろしいですねっ」
盛継は憮然として頷いた。部下が暴走したのではない。自分の命令でやったことだからである。
盛継夫人は言い訳すらしない亭主に呆れ機嫌を損ね、せっかく引越してきた新城、新居の最初の夜なのに、この夜は寝所に現れなかった。

久川城案内柱.jpg盛継は戦時の咄嗟の判断で電光石火の田島急襲が河原田家中や領内で見直される筈だったのだが、盛秀の姉などを拉致したことで、その賞賛、喝采も半減した感がある。
奥で盛継の母は盛秀の姉を見舞い手当てはしたが、伊南を見下す剣高い態度にはさすがにカチンと来たらしい。
一晩留め置き、休ませただけで、盛秀の姉と捕らわれた者どもは老臣、芳賀阿波が駒止峠まで送っていった。盛秀の姉は罵り罵り峠を下っていった。



黒川に赴いた盛秀は政宗のカミナリを喰らっていた。
「先回の大言にも似せる今回のその挙動は何だっ。汝の力に及ばぬのなら、昨年預けおいた所領安堵状はすぐさま返すべしっ」
大変な怒りようである。盛秀は面目丸つぶれで退席した。(続く)

河原田盛継が田島に乱入して、何を考えてるのか知らないが金井沢佐衛門佐の女房=長沼盛秀の姉を拉致したネタは、若松市内に販売されている書籍にあるのですが、「伊南勢は金井沢佐衛門佐の女房を探し出し」とあるのです。何か因縁があったのでしょうな。

ここまで前哨戦ですがここで一旦ペンディング。ちょっと間をおいて、後半ではいよいよ盛秀の田島軍と盛継の伊南軍が干戈を交えます。
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