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時忠とカムロ [気になる人物]

何だか清盛がオモシロクなってきた。
殿下乗合事件からオモシロくなってきた。

平家の傲慢、増長満(増上満)が始まったのは、平重盛の次男、資盛と、藤原基房の車が鉢合わせした殿下乗合事件からではないか。
ガキの分際で下馬しなかった、道を譲らなかった資盛がよくない。これは実際にあった事件だが(嘉応2年、1170年)、史実では激怒したのは重盛だという。TVみたいにいい子してなかったのである。

藤原基房は相手側の車の主が重盛の次男、資盛であることを後で知って驚愕した。
ホントは知っててやったんじゃないかと疑うが、基房は謝罪の使者を差し向け、実行犯の引き渡しを申し出るが、激怒した重盛は謝罪を拒否。使者を追っ返す。
重盛の報復を恐れた基房は乱暴狼藉に参加した従者を召し放って首謀者の身柄を検非違使に引き渡す。それでも、重盛の怒りは解けなかった。基房は報復が怖くてしょうがないが宮中に参内しなきゃならない。参内途中の基房一行を重盛の軍兵が襲った。

TVでは平時忠の郎党と思われる覆面を被った一団が基房一行を襲い、髻を切り、斬りはしなかったが短刀の柄でアタマをブン殴り、事が終わった後にはカムロ?が身につけていた共同募金の赤い羽根が1枚落ちていて重盛は唖然としていたが、重盛が早世したのもあってか、小説やTVでは常識人に描いただけだと思う。
時忠.jpg平時忠という人は、検非違使長官みたいな役歴が3回くらいある人だが、この事件の前、嘉応元年12月の強訴で検非違使からは外れていたようです。いくら何でも検非違使長官で襲撃はマズイだろう。都人の噂になるに決まっている。
この人は浮いたり沈んだり蘇ったり誰かを煽ったり、清盛の意を汲んでいるのか独自路線なのか、ちょっと掴み難いキャラではある。

文官です。武士ではない。
彼の経歴書を見てみると、
永暦元年(1160年)4月、検非違使・右衛門権佐。
応保元年(1161年)9月15日、二条天皇により解官された。
何か余計な事を言ったか出過ぎた振る舞いか。泣き面に蜂で翌年6月、二条天皇を加茂社で呪詛した源某という貴族が解官され、時忠もトバッチリを受けて出雲国に流罪。
この時、史実でも清盛は助けなかったらしい。4年後の永万元年(1165)7月、二条天皇が崩御され時忠は召還された。

翌年の仁安元年(1166年)4月、左少弁。
6月には右中弁、検非違使佐・左衛門権佐・五位蔵人を兼任。
11月、清盛が内大臣となり時忠も蔵人頭に。正五位下から従四位下に昇叙。
翌仁安2年(1167年)正月、正四位下・右大弁。
2月には参議・右兵衛督。
流罪が赦免になってから僅か2年で公卿昇進。バリバリ働いている。流罪にされたとは思えないのは平家が専横し始めたからでしょう。

仁安3年(1168)、従三位に。
7月、右衛門督・検非違使別当に就任。
8月に権中納言!!
さすがに権大納言まではいかなかった。ところが12月の“嘉応の強訴”で検非違使別当だった時忠は院御所や洛中の警備に当たるが、後白河法皇の思惑がいろいろあってまたまた解官され、2回めの出雲国配流。
2回、失脚しているんです。

時忠は1回目の失脚で清盛に助けられなかった不信感があったようだが、平家あっての時忠であることは自分でもわかっている。
彼がホントに禿(カムロ、禿髪)のような秘密警察を組織して、反平家分子を検挙していたかどうか。そういう史実はない。ないが題材としてはオモシロい。
身寄りのない童部を300人も揃えて髪を禿に切り、赤い直垂を着せて召し使った。

カムロの由来はおかっぱの髪型からきている。
遊郭に住む幼女をカムロと呼んだ。遊郭に売られてきた女の子や、遊女が産んだ娘がそれ。
時代が進むと、太夫や花魁、芸妓の付き人みたいになる。
ある程度の年齢を過ぎるとカムロでなくなる。いずれは遊女になる。

禿リーダー.jpg禿のリーダーを演じたのは女優さんではなく、吉武怜朗という20歳の男性俳優さんだそうですね。
早くもカムローズという造語が贈られたとか。

マトモに考えなくていいのかも知れないが、そんなガキが反平家の公家さんを脅し、家財道具を没収できるかとも思うし、京の都に300人!!
井伊の赤備えならまだしも、こんな共同募金の羽をたくさん纏ったような真っ赤っ赤なガキどもが300人もウロついていたら嫌がおうにも目立つ。薄気味悪い限りである。
隠密が隠密でなくなってしまうではないか。

カムロたち.jpg兎丸無念1.jpg
兎丸無念4.jpg兎丸無念2.jpg平家物語は歴史書として信じるより、小説として愉しむものだと思えばいいのだが、カムロは史実の確証はない。
ないが、史実ではなく伝承として述べると、清盛が子供を使って情報収集していたという説はあった。
時忠もそうだが、清盛自身も平治の乱の後、検非違使別当(長官)を努めている。その検非違使が被疑者を検挙、尋問する際に、洛中のガキの噂話を収集していたという説がある。殿下乗合事件が起きた嘉応2年(1170年)、応天門放火事件というのがあり、放火犯人が召し取られたのは、検非違使が聞き込みの過程で、洛中のガキの噂話が検非違使の耳に入ったという。洛中の噂話は案外と無視できないものがあったと思う。
これが小説で密告集団、カムロに化けたという。作者が取り入れたのではないか。

恐怖の秘密警察、ゲシュタポと化した禿たちと、汚れ役を担う時忠。
走狗煮るではないが、時忠に直接「やり過ぎだ」と面と向かって言った兎丸は粛清されてしまった。
カムロは隠密か秘密警察だったのが、いつの間にか暗殺集団になっていましたね。検非違使は何をやっていたんだろう。無警察状態の京都洛中の闇である。

それでも理想の国作りか、利による更なる支配か、目付きの悪くなったマツケン清盛。
先日、静岡の居酒屋「紀尾井」で、店内のTV(ようやく地レジに切り替えた?)にDEATH NOTEが流れていたが、凄い個性だったですね。理想の国づくりに燃える真っ当な主人公は合わなかったのではないか。

平家は栄華を極めた。だが栄華盛衰の理はある。ギリギリ栄華を極めているが、次の時代の足音はそこまできている。それに気付かない心許ない重盛以下の一門たち。
廃人と化した頼朝も覚醒しそうだし、牛若と弁慶も運命に向かって動き出した。
一旦は赦された成親や、西光の目付きもアヤしい。
何だか後半がオモシロくなってきた。これから鹿ケ谷の陰謀や以仁王の叛旗、その先にあるものへ。。。
画面が汚いだの、低視聴率ワーストだの、酷評されてましたがずーっと観続けてよかった。

追伸:政子はいつまであんな汚いカッコしてるんだ?
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廖化 [気になる人物]

廖化4.jpg私は三国志後半の問題児キャラ、魏延が大好きなんだが
もう一人、気になるキャラがいる。
でもそのキャラは目立たない。
廖化(リョウカ)という武人です。
この武人が初めて登場するのは、関羽が劉備夫人を伴って曹操のもとから脱出、餞別を持って追って来た曹操と別れて二夫人の馬車が何処かへいなくなってしまった時、黄巾で髪を束ねた20歳の青年廖化が現れた。
黄巾といえば、この三国志序章で世を荒らした黄巾党の残党ではないか。
廖化は山賊だったのである。この辺り一帯で廖化ともう一人の二頭目でタムロしていたのだが、劉備のニ夫人を分けてお互いの妻にしようぜと邪心を持ちかけた相棒を刺殺して関羽の許へやって来た。
関羽は最初は信じようとしないがニ夫人の証言もあって許される。人柄も悪くないようである。
廖化は足の洗い時と関羽に随行を願うが、山賊風情を供に加えたら世間の聞こえはどうかという理由で却下された。すぐには綺麗な身になれなかったのである。
さすがに同情した関羽に、我らが落ち着いた先を風聞されたら訊ねて参られよとは言われている。

廖化3.jpgあまりいい登場の仕方とはいえないが、この後で登場するこれまた山賊の頭目、周倉という人物、これは正史にない架空の人物らしいが、養子関平と並んで関羽の片腕となる周倉の方がよく知られていて彼は随行を許される。
周倉も関羽に「供に加えてください」と懇願した際、「前に出会った廖化のような者でも断ったのだから」と一旦は難色を示す。廖化のようないい人でも断ったのだからとも聞こえる。

劉備や張飛と再会、趙雲も参集し、人がちょっとずつ揃って来るのだが廖化はすぐには来なかったらしい。劉備が孔明を得、呉と組んで赤壁で大勝し、益州を併呑、成都を陥落させる間に、いつの間にか廖化は関羽の許へ来ている。
正史の上で初めて名が挙がるのは、荊州を守る関羽の主簿を務めた頃だという。山賊上がりがいつの間にか幕僚長になっている。
なので関羽の部下です。この頃は劉備から見たら陪臣でしかなかった。

三国が鼎立してから、関羽が呉の呂蒙の策に破れて荊州を捕られ敗色濃厚になった頃、廖化は関羽の養子関平、前述の周倉と三人で必死に防戦しているから部隊長クラスだろうか。
その一連の攻防で呂蒙の策に追い詰められた関羽は、関平、周倉、廖化らと古城、麦城に落ち延びた。従う兵は僅か五百。
廖化は「五百の精霊が一体になればこれでも金城鉄壁といえないこともない」と兵卒を鼓舞する。
部下に弱みを見せない。この辺りはカッコいい。

だが蟻の這い出る隙間もなく包囲された憂慮すべき事態の中、関羽に進言した。ここから遠くない上庸城にいる劉邦(劉備の養子)、孟達に援軍を要請しようというのである。
では誰がこの重囲を突破して、決死の覚悟で援軍要請に赴くか。
言い出しっぺの廖化は自ら使者に立った。これが自分を真人間にしてくれた関羽との永遠の別れになるのだが。。。

まさかこの時、廖化はこの後、劉備の死を見て、孔明の死に立会い、後蜀を担う姜維に従って老骨粉砕し、蜀滅亡の更に先まで長生きして、見たくもないものまで見届けるとは思わなかっただろう。
彼は長生きしているんです。

廖化2.jpg乞食みたいなボロなナリでやっと上庸城に辿りついたが、劉邦、孟達に援軍を断られて悲憤慷慨。麦城に帰るに帰れず馬に鞭打って遠い成都へ走った。劉備に直接援軍を乞おうとした。
ボロボロになって成都に着いた時にはもう関羽はこの世にいないのだが、当初の目論みがダメなら己の判断で次へ向かう姿勢が大事なのを中学生の時、この場面を見て学んだ。

正史には、一旦は呉に投降するが、劉備の元に戻りたい一心で、己が死んだデマを流してから老母を連れて脱出したとある。
しばらく野にいたが、関羽の復讐戦で呉に進軍した劉備の許に馳せ参じて帰参を果たしたともいう。それはそれで劇的である。

廖化1.jpg廖化は生きている。
孔明の最初の北伐では、魏延、張翼、王平、呂義、馬岱に次いで六番目に名がある。この頃から蜀軍の将校たちは、アクの強い魏延以外は平均レベルになって昔のような豪傑がいなくなってくるから。

何回目かの北伐で、孔明の策が大当たりし、廖化は魏の司馬懿を手が届くところまで追い詰めた。
だが廖化が馬上から振り下ろした剣は司馬懿から外れて大木の幹に斬り込んでしまい、剣を抜いてるうちに司馬懿は逃げ去った。
廖化は尚も追う。
東西二手に分かれる箇所にさしかかった時、東への道に司馬懿の兜が落ちていた。
「さては」と廖化は東の方角へ走って行くが、司馬懿が逃げたのは西への道だったのである。
廖化は見抜けなかった。結果、取り逃がした。
「兜を落として逃げるほど追い詰めてやったぞ」と功を誇る廖化だが、拾った兜なんか自慢しても仕方が無いのではないだろうか。
孔明は廖化を誉めた。口では誉めながらも、「関羽ならこの程度のことでは得意になったりしないだろう。関羽、張飛、趙雲・・・蜀は人がいなくなった・・・」
現状を憂いて寂寥感にふける。
廖化は見事にハズレ籤を引いたといっていい。この辺りは運のない将の見本のように描かれているが、司馬懿の運が強かったのであろう。

孔明亡き後も廖化は生きている。
更に更に人材が薄くなったこともあるが、かつて関羽に拾われた山賊の若者は、昇進に昇進を重ねて大将軍、国臣になっているのだ。正史に見ると「右車騎将軍 仮節 領并州刺史 中郷侯」という何だかいかめしい諸侯の肩書きになっていた。

廖化は自分と同じく蜀建国以来の生き残り将校、張翼という人物と常に左右に並んでいる。既にこの時代だと相当な老齢である。
孔明の遺業を果たさんと北伐を繰りかえす姜維を諌めて留守に回されたりもしてるが、北伐が国家の方針として決定したからには姜維に従って文句一つ言わない。この辺りもカッコいい。
姜維から見たら、廖化は自分が知らない伝説、関羽の薫陶を受けた宿将なので、一目も二目も置いているように見える。

廖化は張翼とともに先陣を任されたり、本軍の姜維が重囲に陥って苦戦すると別ルートで救出に現れたりしている。
いよいよ蜀が末期になると、君側の奸によって前線の情報が握りつぶされ、援軍派兵を許可しない劉禅にアタマに来て義憤に駆られ、張翼と二人で姜維のもとへ援軍に馳せ参じた。

だが。。。

蜀陥落前の263年、姜維、張翼と共に、剣閣を守備して最後まで魏の鍾会軍に抵抗するが、先に成都が陥落したため降伏。
復興を企む姜維に黙って従うが、264年の成都大騒擾事件では、病と老齢で私邸に閉じこもったままだったとも、洛陽に連行される途上で病死したとも。。。

廖化は三国志演義では物語の設定上、黄巾の乱から蜀漢滅亡までを生き抜いたことになっているので、かなり長生きしたというイメージの武将です。
188年生まれで264年に死去したというのが定説で、これだと76歳だが、関羽が曹操に下ったのが建安5年(200年)だから、関羽が1年そこら居候して曹操の許から去ったとして、冒頭、最初の登場場面で200-188=12歳ってことはないと思う。関羽に拾われたのが仮に20歳だったとしたら、成都大騒擾事件が264年だから、20プラス64で84歳になってしまうからホントは何年生きたんだろう。

山賊上がりの廖化は名将でも豪傑でもなく、たまたま出逢った関羽に拾われ、劉備と劉禅の二代に仕え、蜀の大将軍にまで昇った。与えられた仕事をしてたら地位が後からついてきたのである。
老いて大将軍になってからは後輩の姜維を戒めながらも支えた。建国から亡国まで見届けて逝った三国志で最も丈夫で長生きした武将です。
目立たないが、最後まで裏切らず生き抜いた蜀の忠臣中の忠臣、隠れた将星。それが廖化。
孔明にも関羽にも張飛にもなれないが廖化で充分ではないか。廖化なら、なれそうな気がするのです。
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屋代勘解由 [気になる人物]

屋代勘解由(やしろかげよし)、勘解由兵衛(かげゆひょうえ)、または、景頼(かげより)ともいうこの人は、永禄6年(1563年)-慶長13年(1608年)を生きた伊達家の上級家臣。
私はこのキャラを、カテゴリ「盛秀と盛継」で徹底的な悪役に設定した。主君・政宗の為ならどんな流血をも厭わず、徹底して遣り遂げる吏僚として描いた。
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この怪人は実在の人物で、平均視聴率39.7%の「独眼竜政宗」第11話「八百人斬り」で江夏豊さんが演じた。
大内定綱軍の小手森城攻撃で城内に雪崩れ込んで室内戦になった時、突然、前触れも無く登場する。
大内家の武術指南、荒井半内というのが「伊達の者ども、我が太刀風受けてみろ」と大見得を切った時、牛角のような兜と巨体がヌッと現れ、
「いざ見参、伊達の旗本、屋代勘解由」
ボソッと言った。
確か台詞はこれだけだったようだが、早業で荒井半内を斬り捨て、かかってくる大内兵を圧倒。巨体を生かしてタックルで突き倒したりもしてた。

落城後、渡辺謙の政宗の前に大内軍の投降兵が引き立てられ、西郷輝彦の片倉小十郎が、「(大内)定綱殿は何処か」と尋ねるが投降兵はいずれも答えない。
三浦友和の伊達成実が「斬れっ」と命じて誰が斬るのかと思いきや、無言の屋代勘解由が江夏豊さんだけにサウスポーただ一撃で斬殺する。迷いなど微塵も見られない。
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この後、タイトル通りの小手森城大虐殺、籠城した兵、農民、老若男女800人が殺戮された場面は解説が流れたのみ。なので余計に怪人・屋代勘解由の印象が強烈に刻まれる。視聴者は800人に直接手を下したのはこの牛角の左利きの怪人だと思うだろう。
この第11話だけで大根ながら強烈な印象を残している。
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800人斬り4.jpg伊達ファンでもこの撫で斬りは避けて通れない。史実ではこの小手森城だけではなく、会津侵略の過程で高玉城、安子ヶ島城、和泉田城でもやらかすのだが、この800人という数字は、政宗が最上義光に宛てた書状の数では総数1000人。
会津口檜原城を守備する後藤信康宛の書状では200人。
大滝秀治の資福寺虎哉宗乙宛ての書状では800人。
数の真相はどうあれやらかしたのは事実。東北諸州の大名は戦慄した。


処理済~小浜城2.jpg小浜城石垣.jpg
小浜城1.jpg写真は2007年の9月に行った小浜城と宮森城。
この時、小手森城にも行った。だが遠目に見ただけで写真も撮っていない。小手森城は小浜城の支城です。
第12回で北大路欣也さんの伊達輝宗が、石田太郎さんの畠山義継に拉致されたのが宮森城です。







宮森城入口.jpg宮森城説明版.jpg
宮森城土塁.jpg宮森城主郭.jpg
江夏豊さんの屋代勘解由は、北大路欣也の伊達輝宗が石田太郎の畠山義継に拉致された第12回「輝宗無残」やいかりや長介さんの演じた鬼庭佐月が戦死した13回「人取橋」でも巨体と牛角が画面に見え隠れてたが、事実上ドラマでの出番は終わったとみてよい。
カゲユ2.jpgカゲユ3.jpg
カテゴリ「盛秀と盛継」の構想中、会津若松駅前の書店で収集した資料本を見てたら、伊南と伊北の境目、和泉田城攻防戦でこの屋代勘解由の名前があったのに驚いた。
加えて和泉田城兵でも撫で斬りがあった。この辺りが会津に伊達政宗関係の事跡が過少な理由かと思うが、この撫で斬り、大量虐殺は小手森、高玉、安子ヶ島には政宗がその場にいて命令したと思うが、和泉田城には政宗は従軍していない。
では屋代勘解由は独断でやったのだろうか。
それもどうかと思い政宗の命ということにした。政宗の影を背負っていると自負する忠実な吏僚、「政宗公の命令なら誰かがやらんきゃならない。俺以外にやれる者がいるのか」という設定にした。

会津側の資料には、この和泉田城攻防戦では屋代勘解由は“討ち死に”という記述があったのだが真贋のほどはわからない。
屋代勘解由はその後も登場する。
秀吉の奥州仕置により、政宗は会津を取り上げられる。
宮城県北部~岩手県南部を領していた葛西氏、大崎氏も改易され、旧臣が反乱する葛西大崎一揆が起きるのだが、これは裏で政宗が一揆勢を煽動したという説があり、奥州仕置で会津他を没収された政宗が失地回復を狙って一揆を起こさせ、木村という新領主を失脚させ、自分で煽動しておきながら後で一揆を鎮圧し、その恩賞として葛西大崎旧領を我が物にしようとしたというもの。
これがバレた。政宗は秀吉に疑われて上洛、釈明する。「一揆煽動の証拠檄文は偽造である」とシラを切るのだが、その証を立てる為に(実は証拠隠滅)、桃生郡(現在の石巻市)の須江山という地に一揆の主犯格を呼び出し、屋代勘解由に命じて皆殺しにした。

屋代勘解由は秀吉のロクでもない外征、文禄の役で政宗が朝鮮に出兵している間、当時の伊達氏の居城であった岩出山城の留守居を任されている。
この頃、有名な挿話がある。
三浦友和さんが演じた伊達成実の出奔に屋代勘解由は関わってまた有名になるのだ。

葛西大崎一揆の後、秀吉は政宗に葛西大崎13郡を与えたが、本領12郡を取り上げて蒲生氏郷に与えたので13マイナス12だが、葛西大崎領は一揆により荒廃の地だったので実質14万石ほどの減俸になってしまった。
当然、家中の知行は減る。
荒地を宛がわれ困窮した上級家臣団たち、伊達成実、鬼庭綱元、国分盛重、遠藤定信といった有名家臣が出奔する騒動になった。
よりによって伊達の親族、伊達成実の出奔に政宗は烈火の如く怒った。政宗の命で成実の妻子が籠城した角田城を接収し損ねて皆殺しにしたのがまたしても屋代勘解由。
独眼竜政宗では矢代兵衛と別人扱いになっていたが実際は同一人物であろう。
カゲユ1.jpg
だが、屋代勘解由は己が信じた政宗に追放される。
学研の歴史群像シリーズには、屋代勘解由が追放されたのは伊達成実が帰参してからのことだという。政宗と成実の和解の影で、屋代勘解由追放の理由は「百姓の評判が悪い」というもの。
取って付けた理由だが、要は家中でも彼への不満が長年積もり積もっていたのでしょう。失意の屋代勘解由は越前(一説によると近江)で死去したとされるが、それまでは遺恨がある筈の伊達成実の保護下にあったというがこれはまた別の話になる。

政宗の汚れ役だった屋代勘解由の享年、墓はわからず。
ホントに左利きだったのかどうかもわからない。
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平忠正 [気になる人物]

相変わらず視聴率が悪いようですねこのドラマ。
「画面がボヤケて汚い」、「主人公が吠えてばかりいる」、「時代背景や相関関係の説明不足」。。。(これは改善されつつあるが、それでも難しい)
いろいろ厳しい意見がある。
私は、スタジオなのかロケなのか、屋外オープンセットなのかわからないくらいの錯覚を起こす映像や、汚くてリアルな衣装、クセのある脇役たち、オドロオドロしい宮廷の世界、私も知らない平安時代という背景が気に入っている。
画面、画質は今までにないと思う。薄汚い映像美といっていい。
だが17回で棟梁になった清盛が初めての歌を披露するシーンであれはなかろうて。大きに失笑した。荒唐無稽もいいトコである。
でも松ケンのせいではあるまい。何処の誰が脚本書いてるんだ?

主役よりも、脇だけいいといった感じもする。そこで気になる人、俳優さんを一人取り上げる。

清盛は伊勢平氏の嫡男扱いだが、ホントに平忠盛の実子なのか。
生母は白河法皇に仕えた女房だったという。忠盛の正室の子ではない可能性はある。
一門で、そこを突っ込み、怪しみ、危ぶんでいるキャラが一人いる。
忠正1.jpg気になる俳優でもある。
私はこの俳優さん他では観たことがない。
一門のナンバー2、平忠正は清盛とソリが合わない。胡散臭く、憎んでいるようすら見える。
ドラマ中でマトモな会話はしてない。先の棟梁、忠義(中井貴一さん)が去って棟梁を継承した時、かろうじてちょっとだけ「殿。。。」呼ばわりしていた。


その忠正が甥である清盛の先妻、明子の子と団欒している。
嫡男、清太(後の重盛)と次男、清次(基盛)。
この時、後妻、時子殿は奥で産気づいている。
忠正2.jpg忠正3.jpg
清太が言う。
「大叔父上、もしもおのこが産まれたらどうなりますか?」
「・・・?」
「母上(時子のこと)は、私や清次よりも、ご自分の子ばかりを可愛がるのでは?」
(ご自分の子?この時産まれるのは宗盛)
母が違うから、実の子が溺愛されて、自分たちが疎まれるのではないかという懸念をしている。子供心に。
「さような事は断じてない!!」
「・・・」
「誰も好き好んで血の繋がりのあるないで争わん。つまらぬ事は考えず産まれてくる子をうんと可愛がってやれ」
忠正4.jpg好き好んでとはどういうことなのか。
実は言ってることとは裏腹に、忠正は、血が繋がってないが為に、清盛へのジレンマを抱えているのだ。自分に言い聞かせているのかも知れない。
この場面では救われたが。。。

忠正は清盛と袂を別つことになる。


忠正5.jpg保元の乱で敵対する。
清盛と敵対する崇徳上皇側につき、平氏分裂を引き起こす。
HPでも既にそのスチール写真が載っていた。
清盛VS忠正.jpg

疎んじていた清盛に付くのを潔しとしなかったのか、一門が割れてもどちらかが平氏一族として存続すると考えたのかはわからない。
その結果は。。。
忠正の末路は。。。

ジャン妻は豊原功補さんを、「何かの現代ドラマで観たことがあるよ。主役じゃないんだけど、主役のジャマをする役だったね」
そういう役がピッタリな俳優さん?いいバイブレーヤーだと思います。
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柿崎景家のこと。。。 [気になる人物]

越後国(新潟県)は弓型を成していて東西、南北に細長く、途中、幾つも山や川に遮られ、冬場は豪雪に閉ざされ国内の統一が難しい。
米の実り良く、河川や海上流通で潤う一面もあるこの国には国人衆が割拠していた。彼らは自分らの利権、領土を護らんが為、守護代上杉氏から長尾景虎に鞍替えしたに過ぎない。国主というより国人の代表として選んだ。
個性強く、我が強く、表面上は長尾景虎に従ってはいるが、中には「本来、長尾氏とは対等だ」口に出さないまでも独立性が強い越後の国人たちは雪や寒さに鍛えられ、どの豪族も一癖二癖あって強い。
越後勢.jpg越後勢3.jpg
目をむく柿崎.jpg私の実家の本家はこの国の柿崎という海沿いの町の出身で(現在は上越市柿崎区)、現在も本家の墓がある。この町が推奨するヒーローが柿崎景家という人。景虎率いる越後将星の最強者。剛勇と膂力と、部隊長としての戦闘力で他に追随し得る者がいない。
七手組の将という。七手組とは、加地春綱、新発田長敦、色部長実、本庄繁長、竹股朝綱、中条藤資、柿崎景家。
先手組の将、春日山城留守居役、小田原北条攻め参加、第4回川中島先鋒、京都上洛軍参加、景虎と共に歩んだといっていい。



景虎公が景家を評した有名な台詞。
「和泉(景家)にして分別あらば、七郡中手に合う者有るまじ」
これを単純に読むと「分別が無いってことじゃないの?」(ジャン妻)
「越後七郡で和泉守(景家)ほど分別のある者があろうか」だったらいいんだけど。
2007年のドラマでは金田憲一さんが演じていた。直情径行感情ムキ出しでしょっちゅう目を剥いていた。守護代上杉氏の被官から長尾家臣になった一派と張り合っていた。
「分別ないんじゃないのこの人?」(ジャン妻)
すぐ怒る柿崎.jpg太刀を抜いた柿崎.jpg
柿崎景家2.jpg柿崎景家1.jpg
直江と柿崎.jpg直江と柿崎2.jpg
川中島では武田信繁にトドメを。
柿崎景家3.jpg柿崎景家4.jpg
柿崎景家の書籍.jpg実家にこんな本があった。ボロボロ。
表紙に「反逆児」云々って何だ?
この本では景家は天正2年(1574)以降、諸記録からその存在が消えているという。
信長へ内通したという俗説で、景家が上方の馬市に越後の馬を売りに出したら、馬に眼がない信長が高値でその馬を買い取り、贈品と共に景家に礼状を送ったんだと。
だが景家はこの経緯を景虎に報告せず、景家が卸を通さず直接信長に馬を売却=信長に内通に化けちゃって誅殺されたというもの。
景虎と共に幾多の戦塵を歩んだのだが、多年の忠誠空しい結末になってしまった。

だが、鉄砲3千丁が火を噴いた天正3年の段階でがまだ長尾・織田両家は交戦状態ではないような気が。。。
景虎(謙信)が能登へ侵攻するのは翌4年です。前々年に誅殺されたのなら何者かの讒言か、信長の君臣離反の策に引っかかったのかも知れない。

軽くて全く見る気がしなかった「天地人」では息子、柿崎晴家が演:角田信朗さんで登場したので、一族は連座しなかったと思われる。(このドラマはあまりに軽いので途中で見るの止めちゃった)
晴家は御館の乱(謙信の後継者戦争)で上杉景虎を支持して上杉景勝と敵対する。その晴家にも天正5年に織田方に内通して処刑されたとする説が存在してヤヤコシイ。景家と混同されてないか?
幸い柿崎家は晴家の子・憲家を当主として御館の乱後も存続しているらしいが、米沢へ同行したかどうかはわからない。越後に帰農、土着したかも知れない。

景虎(謙信)が厠で倒れた時に、死んだ景家の亡霊が現れたという俗説もある。

伊豆の下田に下田港に面した135号線に柿崎という地があり、景家がそこで生涯を終わったという説を聞いたことがある。だが何処の出典か忘れた。
柿崎城に立つ幼少の私.jpg柿崎城の小山.jpg柿崎城遠望.jpg
柿崎景家の墓.jpg
ジャン実家からこんな写真が幾枚か発見された。
白い看板は柿崎城。景家さんが住んでいた館跡。
そこの小山に上ってるガキは幼少の私。ジャン父(故人)に連れられて行ったんだと思う。
記憶が無いのだが、墓所の楞巌寺にも行ってたみたい。
夏休みに墓参方々連れて行かれたのだが、何しろ夏場の新潟県は暑く、空調のなかった当時は子供心に暑さに辟易した記憶がある。

当時は寂れた町でね。飲食店なんか見当たらなかった。駅前の道にも店が無いんだモン。郊外は田んぼばっかり。現在は住宅がビッシリ立ち並んでいるけど。


柿崎城実測図.jpg柿崎IC.jpg
幼少の私が立っていた小山は現在、北陸自動車道のICに取り巻かれている。
2004年夏、新潟県の集中豪雨の後で「嵐渓荘」に宿泊した翌日、白馬の「トロイメライ(4.21に掲載)」に向かう途中でこの北陸自動車道を走ったが、柿崎ICはアッという間に通り過ぎてしまった。
今でも国道側からなら登れるのだろうか。

色褪せたカラー写真は幼い頃の夏休みです。
新潟の夏は暑い。夏のむせ返るような草いきれ。夏空と緑の稲穂が眩しい。九つ井と同様、幼い頃の記憶から掘り起こしました。
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魏延~やはり貴殿は悪役なのか。。。 [気になる人物]

DVD2.jpgDVD1.jpg
魏延紹介ページ.jpg三国志“Three Kingdoms”のDVDは全部で95話。後半に私の大好きな憧憬キャラ、魏延が登場してくる。魏延がどういうキャラかはhttp://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-04-02-2にUpした。
関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠・・・五虎将の次が魏延。六番目に強いキャラ。
孔明は魏延を採用した時のひっかかり「この者は反骨の相がある・・・」云々を覚えており、魏延も心中含むところがある。だが蜀の将星が相次いで堕ち幕僚寂寥の今、いずれ禍の種になると知りながら魏延の武勇が必要でやむなく使っている。

だが戦闘隊長クラスのまま。それ以上の指揮権を与えなかった。

魏延は性格が傲岸なのもあるが孔明とソリが合わず、孔明の用兵を批判した、孔明の遺言に沿わなかった・・・諸般の理由で三国志では悪役に描かれている。

北伐の中、孔明が五丈原で陣没する。残された蜀の幕僚たちは魏延ともう一派に割れた。
撤退せずに魏を攻めようする魏延。
孔明の遺言に沿って撤退しようとする文官の楊儀。(魏延とは犬猿の仲)。
孔明の遺言、遺志によって魏延は馬岱(五虎将馬超の親族)によって斬られる。

私は三国志の後半で周囲を圧する魏延がタマらなく好きなのですが、この魏延の墓、廟は今日まで不明とも、鉄道敷設の際に取り壊されたとも聞いていた。
だが2005年3月、現在の漢中市石馬坂という場所で、魏延のものと推定される墓が発掘されたという情報を見た。あくまで漢の時代の墓が見つかり、もしかしたら魏延の墓の可能性があるという程度でその後どうなったか知らない。

その過程で、こんな話を聞きかじった。
姜維という武人が孔明の遺志を継いで北伐を続行するが、孔明の地位を継いだのは孔明の遺言にもあった蒋琬という人。
蚊帳の外の楊儀はオモシロくない。
そんな空気の中、蒋琬が漢中の視察に来る。

魏延が誅された後、彼の部下は帰順するのだが、さすがに将校だった魏延は石馬郷という地に埋葬される。石馬郷というのは、魏延が埋葬された(墓があった?)場所で、魏延の乗馬、黒毛の馬が嘆き悲しみ、魏延の墓の前で石になってしまったという故事の場所。
蒋琬が漢中の視察に来てこの馬の石像を発見して、この伝説を知ることになる。
蒋琬は魏延の謀反の真相を洗いなおす。
孔明とウマが合わないのは偉大なる故人への中傷と取れるので、同格の文官だった楊儀の讒言に摺り替えられて楊儀は失脚してしまった。
孔明は生前、楊儀と魏延の不和に困っていた。呉王孫権も「孔明は何であんな二人を使っているのか」と遠国から同情含めて見抜いていた。
孔明は軍部に影響大な魏延を自分の死後は誰も制御できないだろうと。楊儀を小人なれど害は少ないと思っていたフシは確かにある。
どうも後で取って付けたような話だが、蒋琬が蜀軍中の兵どもの不満を逸らす為か慰撫する為か、魏延の生前の功績は認められ葬儀を行ったという。

この石馬は漢中博物館に移送され、いまでも展示されているとか。だがようワカランのはこの伝説には更に追加があり、二つの石馬と頭を下げた文官の石像があって、石馬は魏延を斬った馬岱と、不仲だった文官の楊儀。文官石像は孔明だという。

前述の2005年3月末、漢中市内の石馬坂・・・石になった馬の伝説の近隣なんだろうと思うけど、そこで発見された墓から、墓室10m・幅3m中に長さ4m幅2mの石棺桶が発見された。
魏延の墓なのだろうか。

魏延の名誉は地元で一旦は恢復されたのではないか。だが、後世の三国志演義が魏延を再び悪役に引き戻した。
三国志“Three Kingdoms”は、YouTubeで魏延が登場する場面だけ片っ端から拾い観をしました。だいたいどの場面かはわかっているので。
魏延12.jpg魏延15.jpg魏延6.jpg
衣装は黒。
甲冑も黒。
シブい。
演じている男優さんは誰なんだろう。ちょっと暗いイメージ。だが私の期待、想像を裏切らない男優さんだった。

処刑される前の馬謖に末期の酒を渡す場面がある。
執行と叫んで杯を砕く前の魏延は眼が潤んでいる。
魏延20.jpg魏延21.jpg魏延23.jpg
でもうやはり悪役なんだな。孔明の魏延を見る眼差しはやや厳しくも伺える。
魏延を見る孔明の目14.jpg魏延24.jpg魏延9.jpg
魏延31.jpg魏延32.jpg魏延34.jpg
魏延35.jpg魏延36.jpg魏延37.jpg
魏延39.jpg魏延40.jpg魏延5.jpg
私は中国に行ったことはないし、今後も行くつもりは全くないが、最後にもう一つだけ。
信じられない話だが、孔明の廟には孔明を護るように、魏延、馬岱の二人の像が立っているという。
二人は斬った斬られたの関係ですよ。

魏延の像が屹立しているということは、魏延の名誉は回復されているのだろうか。
物語やDVDの世界では、やはり魏延は悪役。孔明に疎まれたから。性格が傲岸だから。
だけど強い。「俺以外に誰がいるんだ・・・」と言わんばかり。タマらない魅力があります。
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奔れ島津!! [気になる人物]

島津奔る.jpgこの人、池宮彰一郎氏の作品は、司馬遼太郎氏の作品との類似点を指摘され、絶版、回収となったのがある。
この本もそう。
だが、私は近年までそんなの知らなかったフリをしていた。(「逃げろ家康」は新聞等で知ったけど、この「島津奔る」は知らなかったの。ホントよ。)
司馬氏には悪いが、こんなオモシロい本を回収させられてたまるかって思ってる。
このハードカバーを購入したらすぐ文庫版が出ちゃって。[あせあせ(飛び散る汗)]


島津敵中突破1.jpg島津敵中突破2.jpg

ステガマリ1.jpg島津は義久と義弘の二頭政治。両殿という。
義弘は朝鮮陣での泗川の戦いや、関ヶ原の敵中突破で有名だけに当主にみられがちたが、果たして当主だったのだろうか。
兄、義久との微妙な確執。
上方へ増兵しない義久。兄を責められない義弘。
慢心した伊集院を斬る義弘の実子、忠恒の冷徹ぶり。
甥である豊久と義弘との親子に似た情愛。
義久を無視して上方へ奔る島津兵たち。
そして、寡兵で望んだ関ヶ原。
鋒矢の陣形で捨て身の敵中突破。
義弘(演:麿赤兒さん)を逃がすべく、ステガマリで倒れていく兵たち。
身代わりになった豊久(演:山口祐一郎さん)は享年31歳
義弘.jpg甥・豊久.jpg
故・池宮氏の言葉を借りて、島津義弘は言う。
「人の作り出した困難は、人の力で打開できぬ事はない」
この台詞は、自分が迷った時や壁にぶつかった時、思い出すようにしている。
だが、今回の震災はどうだろう。この言葉の壁でもあるような。
東電さんの原発問題は、人の力で打開するしかないのだが。

この作品の他、「事変リットン報告書ヲ奪取セヨ」、「四十七人の刺客」、「四十七人目の浪士(最後の忠蔵に改題)」、「その日の吉良上野介」、「遁げろ家康(これも回収)」、「受城異聞記」、「天下騒乱鍵屋の辻」、「義、我を美しく」が書棚に並んでいる。
島津義弘の賭け.jpg兄義久の本.jpg
もう二つ紹介します。
左の書は、ちょっと読んだ記憶、印象が残ってないので近々読み直そうと思ってますが、「島津家文書」他を基に、本文中の会話まで史料的裏づけを持つ記録文庫。

右の書は、国許にいて関ヶ原へ増兵しなかった兄、義久が主人公。
これは500頁を超える大作で難解だが、義久、義弘、歳久、家久の四兄弟と、木崎原、耳川、沖田畷、別次川を得て、九州全土を席巻していく過程が克明に描かれ、暴走し分裂しがちな島津家中を長として纏め舵を取る長兄、義久の苦衷が痛いほどわかる本。
もうボロボロです。
義久が主役なのはこの書籍だけみたい。敵中突破で有名な次弟義弘に隠れて何か損な印象もある。

長兄義久は、肖像画が残されていない謎の武将でもある。
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魏延 [気になる人物]

私は張飛のような舎弟が欲しいと日頃思っているのだが、それは叶いそうにない。
だが、張飛とは別に、妙に気になり、憧れているキャラがいる。

魏延です。字は文長。
社内で「三国志」ファンに「魏延っていいなぁ」って言ったら絶句された。そういうのってあまりいないですよと。

魏延.jpg魏延は三国志ファンには嫌われていると思う。
三国志後半の蜀では抜きん出た勇猛さ、強さを誇るが、むしろ、三国志の前半に登場するタイプの武将が後半に遅れて登場したようなタイプ。
劉備が存命なうちはいい。劉備亡きあと、蜀の存亡を一人で担った孔明に、後半は対立した姿勢を示し、自信家にありがちで我が強く、傲慢で暗いイメージがある。
孔明の死後、反乱を起こした咎で誅される。
なので評判が悪い。孔明にとって外敵が魏、内部の困り者が魏延。そのように描かれている。



若き頃の魏延が初めて劉備軍に採用された際、のちのちまで尾を引いた事件がある。
孔明が「魏延は反骨の相がある、謀反人によくある相だ」と面罵。魏延を斬るように劉備にかなり強く言うが、劉備の取り成しで許されたというもの。
反骨の相とはどういうものなのか。
頭蓋骨が後部にでていて、裏切りの象徴とされるという。でも魏延にしてみりゃ採用面接で罵倒され、己の相を悪く指摘され、挙句の果てに斬られかかった。魏延自身が「私は謀反人の相でございます」なんてわかるわけないし言う訳がない。
私は随分な場面だなって思った。
許されたがこれで表面上はともかく禍根が残らない訳がない。心中、根に持ったか、バカでもない限り孔明に嫌われたと思ったに決まってる。

劉備軍が蜀を取るべく益州へ侵攻する過程で魏延も隊長格で度々登場する。何だか強く勇猛なのがわかってくる。
益州の成都を手中に収めた劉備は、この時初めて自分の強国、蜀を持ったといっていい。左右に並ぶ人物も多く、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠・・・いわゆる五虎将の次席に魏延は名前が載っている。

即位した劉備が、魏と接する漢中の地を重要視して誰に守らせるか。
張飛が起用されるであろうと思いきや、劉備は魏延を任じた。
魏延は漢中太守となった。蜀国内部の一国の雄といっていい。
劉備に採用されてから十余年程度だった筈。大変な抜擢である。孔明は反対しなかったのだろうか。
劉備が何故、魏延を抜擢したのかはわからない。わからないが、以下は私の想像で、劉備は後世、仁慈の主君のように描かれているが、無頼の部分もあったと思う。魏延に若い頃の張飛を見たのではないかなぁ。
簡単に言えば、張飛は酒で失敗するが魏延は酒で失敗しないだろうと。それだけじゃないだろうけど、孔明が中枢にいて、学者肌の文武官が多く登用され、魏延に懐かしい臭いを感じたのかも知れない。

劉備が健在な時はよかった。
劉備の死後しばらくは最後の五虎将、趙雲がいたし、魏延自身も自分を抜擢してくれた先帝劉備を想い、蜀の為に忠誠心を保っていたが、孔明が、泣いて馬謖を斬り、趙雲が病死してから、もともと心中ソリが合わなかった孔明と魏延の関係は確執に繋がっていく。
いつの頃か魏延は孔明を軽んじ、孔明の用兵を批判し、命令を無視して危機に陥り、孔明に詰問されると讒言するなど、性格に問題のある人物なのが如実に現れていく。
諸葛亮も魏延に反骨の相があるのを思い出したであろう。

だが孔明は魏延を罷免できない。何故か。
蜀の将星が相次いで鬼籍に入り、勇将が少なくなったからである。
関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠の五虎将は既に無く、軍中は並以上か二流の武将たちで占められており、その中で魏延の勇猛さ、武勇は群を抜いている。蜀建国時からいる歴戦の猛者なので居並ぶ諸将の誰よりも強い。
孔明にとっては心中やっかいな武将なのだが、実力は抜きん出ているので用いている。

魏延は孔明の立てた作戦を遂行中、炎の中で殺されかかった。事故に見せかけて除かれようとした。
孔明はかろうじて生を得た魏延に詰め寄られ、別の将の責任にして収めている。

孔明の苦衷如何ばかりか。

人事というのは綺麗ごとではすまないのです。私だってこのBlog、カテゴリ人間ドラマに掲載できない話の方が遥かに多い。イヤラしい言い方だが「コイツは実力、経験はあるが会社の禍だな」ってのは過去に何十人もいましたよ。
だが、そう思ってもすぐには処置できないんだな。「マズイ。いつかは・・・」って心中密かに期しても表には出せないし、その時の感情や好悪で動かしてもいけない。
なので私は孔明が魏延を処分したくてもできない心中を察して余りあった。

だが、それと全く矛盾するのだが、魏延のように実力があって、存在感が抜きん出ていて、斬ってみろ、斬れないだろう、俺以外に誰がいるんだっていう傲慢キャラの魏延にタマラない魅力を感じるのです。
私は現在の社に在職して十数年になりますが、当時から今日まで私といる社員は片手より少ない。私より若い執行部はもしかしたら私を利用しながら煙たく思っているかも。[わーい(嬉しい顔)]自分の立場を魏延と重ねてニヤニヤしたりします。
あっ、ひとつ違うのは、私も執行部の末席にいること。表立って社内政策を批判したりはしないですよ。

漫画の魏延.jpg最後に、孔明の死後、魏延は本当に反乱を起こしたのかについて。
孔明は五丈原で病に倒れ、余命を悟った時点で、魏延が自分の死後に背くであろうと見抜き側近に遺言する。
だが、孔明亡き後、魏延自身は蜀を裏切るつもりはなかったと思うのです。
総指揮権を奪おうとした。「孔明亡き後も俺がいる」って。だが他の諸将はそれを認めなかった。撤退の過程で魏延は誅されるのだが、魏延は北へ行って魏に降伏せず、南へ、蜀へ帰ろうとしている。謀反というより蜀軍で孤立してしまったのではないか。

最後については反骨の相が的中したというよりは魏延自身の不人徳。自分で招いた責任には違いない。

魏延は中国でも人気がイマイチらしい。
孔明とはウマが合わなかったが、劉備が張飛を差し置いて魏延に漢中を任せたのは、魏延がバランスの取れた将質を備えていたからではないだろうか。
魏延が陽の目を見る日、正当に評価される時って来るのだろうか。
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