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上信電鉄(旧上野鉄道)鬼ヶ沢橋梁 [廃線跡]

12月14日の今日は討ち入りに合わせて「大野九郎兵衛は生きていた」を予定していたのですが、第三者資料の裏付けがどうしても取れなかったので、一旦見送り、急遽この記事に差し替えました。

ローカル線で行く秘湯.jpg上信電鉄の頁.jpg
ジャン実家にこんな本があった。ローカル線で行く秘湯。。。
私が今いる上州の頁は、山間部を走る3両編成の上信電鉄(現在は2輛両でマンガ塗装)下仁田駅で下車して徒歩20分、猪鹿雉料理の「清流荘」が載っていた。私は「清流荘」を見にいったけど利用してません。

上州電鉄は揺れる。
何でだろう。車両が古いのだろうか。何かの挑戦バラエティ番組で揺れる電車として紹介され、出演者が車内の定位置にずっと立ってられるか否かを挑戦したが、千平~終点下仁田駅で急カーブの揺れに耐えられず全員が脱落したそうです。
廃鉄橋?.jpg私は山名駅周辺のカーブで振り倒されそうになったことがある。山名駅から先は国道と並行して平野部をほとんど真っ直ぐ走るのだが、この写真を見ると山間部を走っている。
終点、下仁田駅から出た電車が、千平駅に向かっている途中、山間部の急カーブで大谷川(鏑川の支流)という川を渡っている写真です。
急カーブを走る電車の右後方に、木々に隠れて、赤茶色のガーダー橋のようなもの、石積みの橋台、小屋が見えるのがおわかりでしょうか。
気になった。旧線ではないか。
写真の現在の線路は付け替えたものではないだろうか。
スピードUpや、車輛が長くなったことにより、カーブを緩和するために旧線を新線に付け替えるケースは全国にある。その際、旧線は撤去され放棄され、年月とともに自然に還っていくのだが、このガーダー橋梁は何故、残っているのだろうか。
今でもあるのだろうか。

上信電鉄の前身は上野鉄道という。
軽便だった。軌道幅が狭かった。
明治30年、富岡や下仁田の繭、生糸、蚕種等輸送のために建設された。生糸、木炭、石灰、砥石、鉄鉱石が高崎へ運ばれ、肥料、日用品、繭、石炭が高崎から富岡、下仁田へ運ばれた。世界遺産申請中の富岡製糸場を中心とした養蚕事業の物流だったのです。
株主には養蚕関係者が多く、南蛇井駅~下仁田駅間で山間部を走ってるのは、開業当時の株主だった地元の養蚕農家への排煙を配慮した為なのです。

この橋梁らしきものは旧鬼ヶ沢橋梁といって、軽便時代の上野鉄道の旧橋梁だという。
いろいろ調べてみたら、この橋梁を紹介したサイトはある。だが下仁田町のHP他には、危険箇所があるため“見学不適”とあった。“見学困難”とも。
でも私の前の上司が言っていた。「困難は可能なんだ」って。もっともそれは仕事の場合だが、私の血は騒いだ。夏場は草ぼうぼうの藪だろうと推定し、晩秋、初冬を待ってでかけた。

そこへ至る道ですが、道の駅下仁田を過ぎてすぐの細い道を右折し、ネギ畑にある細い農道を走ります。突き当りを右折、鏑川を渡って千平駅方面へ向かい、上信電鉄の踏切を左折で渡る。
踏切1.jpg踏切2.jpg
その先、県道195南蛇井下仁田線というのがあった。
「大型車道路幅狭少通行不能群馬県」・・・
如何にも細く狭い予告編ではないか。この道はヒジョーに狭く、大型車はおろか、普通車、一般車でも難しいと思う。
悪路への誘い.jpgここに来るまでの細い道.jpg
停める場所があるだろうか。
道の駅下仁田に停めて徒歩で行こうかと思ったのだが、そこで思いついたのは、目指す橋梁は現在、東電の鉄塔への管理通路になっているそうです。
それなら東電の作業員さんが徒歩で来るってこたぁなかろう。軽トラか何かの作業車を停め、資材も一時的に置けるスペースが道路脇にあるのではないか。

幸い、私のくるまは小さい。
それでも対向車が来たらすれ違いがヒジョーに困難な道だった。
切り通しを抜け、左手に視界が開け、下仁田方面の山々が望めるそこに停めるスペースがあり、資材らしきものが置かれていたのでそこに停める。おそらく東電さんもここに停めてるんだと思う。
処理済~停車スペース.jpgちょっと先に.jpg
その少し先に朽ちた札があって、消えかかってる文字で、赤津、上野鉄道大谷川鉄橋200mとあった。これだな。
朽ちた行先表示.jpg枯葉の道.jpg
枯草、枯葉が積もった坂を下りて行くと、“見学不適”とある。
見学不適?.jpg下っていく.jpg
更に荒れた下り坂を降りていくと大谷川のせせらぎの音が聞こえて来る。左手に上信電鉄現在線の鉄橋と鉄路が見えてくる。
現在線が左に、その先には・・・.jpg現在線の鉄橋.jpg
仮設通路の前方に、あったあった橋梁が。
その先にあるもの.jpg立ち入り禁止.jpg
この辺りから上野鉄道の旧線跡、廃線跡。橋梁に向かって歩いて行く。
橋のタモトに.jpg説明版.jpg
古写真.jpg当時の機関車.jpg
橋梁のたもとにあった古写真を見ると難所だったようです。大谷川の壁を削って桟道のように敷設していた。
現在の上信電鉄は曲線改良(急カーブ緩和)を図ったのではないだろうか。電化によるスピードアップか、車両が長くなったか。

渡っちゃいけないけど、渡らずばなるまいて。南無八幡台菩薩・・・と念じながら渡って見た。読者の皆様は絶対にお止めくださいね。
110年前の鉄橋.jpg渡ってみる.jpg
左の谷底.jpg右の谷底.jpg
橋梁上から下を見ると、結構、高い感じ。橋の幅が狭いから余計にそう感じる。
全長10m
川底から10.7m
幅は訳1mあるかどうか。ナローの幅だから鉄路の軌道幅は762mmではないだろうか。
下仁田側から1.jpg下仁田側から2.jpg
115年前の鉄桁は溶接ではなくリベットで固定したものだった。断面はIがIつ並んだような感じで、そのIをフランジのような別の鉄板で上下を固定してボックス型に近い形状にするもの。
橋脚は煉瓦と切石みたいですね。サイドの石垣は後年のコンクリート補強と思われます。
下仁田側から近寄ってみる.jpg小屋と下仁田方面.jpg
朽ちかけて今にも倒壊しそうな小屋は保線施設の跡だろうか。
その側に現在線のカーブが寄り添っている。
下仁田方面.jpg千平方面.jpg
渡ったからには戻らなくちゃならない。
一径間の橋梁なので多少は揺れますよ。
戻る~右の谷底.jpg戻る~左の谷底.jpg
上信電鉄の前身、上野鉄道が下仁田まで全通したのは明治30年(1897年)です。
大正10年(1921年)に上信電鉄に改名され、軌道幅が現在の1067mmに改軌され、電化されたのは大正13年(1924年)、この時に現在線へ付け替えられたのだと思う。
115年前の橋梁が残ったのは、現在は東京の鉄塔への管理用通路になっていのもあるが、本来の役目を終えてからも、千平集落と、先ほどの朽ちた板にあった赤津の集落を結ぶ道として使われていたとか。だから保存状態がいいのだと思う。
戻って振り返る.jpgこの橋梁を訪れるのは最初で最後と思いますが、自己責任の範疇なら見学は可能ですが、渡るのは絶対にお止めください。強風に煽られたら命の保証はありません。
晩秋から冬場の方がよろしい。草は枯れ、刈り払いもされていて最低限の管理はされているように感じた。
将来、下仁田町が整備するかも知れない。






この先、上信電鉄は蛇がのたくるような急カーブを描いて山間部を進んでいく。
下仁田町で254線やまびこ街道と接する辺りに白山という地があり、そこにあるトンネルも上野鉄道時代のものだというが確認していません。
最寄駅、千平駅です。
終点、下仁田駅は一つ先。
千平駅1.jpg千平駅2.jpg
上信電鉄の上は上野国、信は信濃国のこと。下仁田から先の山々をブチ抜いて、信州佐久平に至る夢は果たせなかった。
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里見橋台の謎 [廃線跡]

これは廃線跡なのか。
記録に残ってない闇鉄の跡なのか。
資料が極めて少なく、私は魅せられ、この迷宮から抜けられず深みにハマっている。

倉渕温泉http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-07-07-3に行った帰り。
国道406号線(草津街道~くだもの街道)を市内に戻る途中、下里美という地で渋滞し、県道137号に横入りすべく、途中から細い道を右折した。
坂を登る.jpg坂を曲がる.jpg
細いけど行き違いできる程度の幅のある道、坂を登って曲がったら、薄暗い切通があって、右手にこんな建造物があったのである。
謎の橋台.jpg正面から見る.jpg
きょ、橋台!!!
驚驚驚!!!
切通し全体.jpg逆光の切通し.jpg
くるまを停めて間近で見てみた。
見上げたらどう見ても橋台である。片側しかない。もう片側は、何処にでも見かける近代的なブロックで擁壁されている。
側面から見る.jpg反対側にはない.jpg
二つ、文字が打たれたブロックがあって、明治四十三年四月竣工、號五第(第五号)と刻まれていた。
当時の技を凝らした近代遺産?
それほどのモノでもないかもしれないが、古風で重厚で厳めしく見える。
明治四十三年?.jpg第五号.jpg
橋台に登る細い坂があった。路盤跡でもあるのだろうか。
だが、上ってみたらそこは墓地だった。もしこれが鉄道のものなら、橋台の先に軌道敷が続いたと想像されるが、凄い藪だったのと、墓地なので掲載は控えます。
登る坂がある.jpg登ってみたら.jpg
この地は里見といいます。
里見という地は東西に細長く、下里美、中里見、上里見とある。
南総里見八犬伝の里見氏発祥地ともいうが、今回はそれが本題ではない。
(以下はこの橋台近くにある里見城)
里見城跡看板.jpg里見城本郭.jpg
三軌道の位置関係.jpgこの地は前に載せた上州電気鉄道未成線跡http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2のすぐ北、約2kmの位置にある。
近いからだろうか。故宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」には、上州電気鉄道と、里見軌道というのがセットで紹介されていた。
この二つの路線は、「全く関係なかったかというとそうでもないようで・・・」と濁して結んでいる。

だがJTBブックスでは、私の目の前にある橋台や、これから述べる未成線は掲載されていない。もっと先の烏側の上流、榛名町の上里見~室田発電所付近に実際に運行されていた4kmの人車軌道、里見軌道が載っていた。
人車だったんです。動力は人力。馬車でもない。

ではこの橋台が里見軌道かというとそう簡単ではない。
幾つもの謎があって・・・というか、謎が多すぎるんです。前述のJTBブックス他、いろいろ調べた人がいて、それによると里見軌道の書類上の開業は昭和6年(1931年)7月で、翌昭和7年に廃止だという。
1年も満たないのはどういうことなのだろうか。

当初の起点は飯塚駅と呼ばれた現在の北高崎駅付近だという。それだと上州電気鉄道と同じではないか。方向も似ている。
関係はなかったのか。(満更無関係でもなかったような記載も散見された。)

安山岩の運送が主目的だともいう。だが、安山岩を人力でどこまで運べるものなのだろうか。坂なんかアブなくないか?
里見軌道地図.jpg流用で恐縮だがこんな図があって、朱が運行線、テンテンが未成線、この古い石造りの橋台は未成線の位置と概略一致する。
起点を見て下さい。前述のように、飯塚駅というのは現在の北高崎駅です。前に載せた上州電気鉄道も、最終起点が群馬八幡駅に落ち着く前は飯塚駅だった。
同じ方向に二つも認可されるものだろうか。


軌間は762mm説と1067mm説とあるのだが、JRが1067mmなので、さすがに手押しなら762mmだと思う。測ってないけど橋台もそれくらいの幅のようです。
だが、全線開通したとして、こんな莫大な距離を人力で走破できるだろうか。

私は烏川上流で運行していた里見軌道跡には行っていません。
そこには烏川上流に向かう未舗装の細い道があってそれが廃線跡だという。ある程度は他方面のサイト、Blogで実地調査されているようです。
問題なのはこの橋台です。上流の里見軌道とは10数Km以上離れているこの明治の橋台はホントに里見軌道のものなのだろうか。それとも別のもの?

それと、ブロックに銘打ってあった日付が明治四十三年だった。
上流で開業されていた里見軌道は前述の通り昭和になってからです。大正を含めて20年の開きがある。
この差は何なのか?
先にこっちの免許が失効しちゃったのだろうか。
第五合拡大.jpgまだある。
この橋台は、左文字でシブく”號五第”(第五号)と銘打ってある。
ってことは號四第(第四号)から號一第(第一号)と銘打った四つの橋台が必ずある、もしくはあった筈なんです。
それらは何処かにあるのだろうか。





以下、転用と推測で恐縮です。俄か調査なので、史実と異なる個所があったらご容赦願いたいのですが。
里見軌道の敷設目的は里見石と安山岩の輸送が主目的だったという。それと後年、烏川上流にある室田発電所の建設資材、導水路トンネルの資材運搬。
発電所やダム建設の資材運搬なら、それらが完成してしまえば用済み。だから運行期間が短かったのかと思えなくもない。

こんな情報もあった。里見軌道の前、明治28年(1896年)に西毛馬車鉄道という馬車鉄道が計画される。だがこれは立ち消えとなった。年号が明治だからもしやと思ったのだが。

中野軌道という計画線もあった。
これは大正2年(1913年)に、これまた当時、飯塚駅といった現在の信越線北高崎駅を起点とし、烏川の右岸を通って、小栗上野介が斬られた倉渕村水沼の先、三ノ倉までが計画された。
これも不許可。[バッド(下向き矢印)]
理由は、またまた別の榛名電気軌道という路線に既に許可が下りていたからだとか。「同じ方向に二つも要らん」といったところでしょう。
どうも烏川に沿って建設願望がワンサカあったようである。
(この榛名電気軌道は、前に紹介した上州電気鉄道のことだろうか。もうホント、アタマ痛くなってくる。)

ところが出願者は諦めない。
翌大正3年(1914年)、中野軌道の距離を短くして申請したのが里見軌道。
これは翌4年に認可された。メデタシメデタシである。では以下、時系列で簡略に列挙すると、
大正3年(1914年)8月、軌道敷設特許出願
大正4年(1915年)5月、敷設特許取得
大正5年(1916年)11月、会社設立(里見軌道株式会社?)
大正9年(1920年)、2月、会社、上州石材を設立(役員は兼務していたらしく、実質はこの会社が運営権を握っていたと考えられる)
大正10年(1921年)、8月、軌道工事完成、資材運送を開始する。

JTB発行の資料には、「書類上の開業日、廃止日は、実際の運行とは異なるものであったらしい」とあった。届出を怠ったか、延期願いを出していたか。
工事竣工届は大正13年(1924年)4月に出されたという。ノンビリしたモンである。
書類上は昭和6年(1931年)7月が開業日で、翌7年(1932年)に営業廃止。書類上はですよ。廃止はともかく開業届を出すのが遅れた理由もわからない。それではまるでヤミ営業ではないか。なので書類上は僅か1年に満たないが、実際は11年の営業だったようである。
11年間も人力、手押しだったのだろうか。他の動力は考えなかったのかね。でも開業区間が4.1kmだったから、屈強な男性ならそれくらいは可能でしょうか。

その後は会社が解散したか、上州石材に合併されたと推測されている。上州石材も昭和27年に清算されたのだが、並行してこんな話がある。
里見軌道が資材を運んで建設された室田発電所は現在は東電の管轄だろうが、大正年間、経営難だった上野鉄道(現:上信電鉄)の電力供給は室田発電所だったという。何か絡んでいないだろうか。
妖しい路盤跡の位置関係.jpgでは路盤は残っていないのだろうか。
號五第(第五号)橋台から西に、アヤシイ道を発見した。私有地の畑に沿った農道です。
軽トラックの轍がある。後でトレースしてみたら、この道の高さは、橋台と概略一致するようなんだな。
これは路盤跡ではないかと思ったりするのだ。レールも枕木も、バラストも釘も落ちていないけど。
この道からちょっと離れた畑で農作業してるオッさんがいた。
でも、忙しそうだったので訊けなかった。
明治後年のものなんて知らないだろう。





アヤシイ道1.jpgアヤシイ道2.jpg
アヤシイ道3.jpgアヤシイ道4.jpg
アヤシイ道5.jpgアヤシイ道6.jpg
では他の橋台はないのだろうか。
この場所、下里美は、烏川や国道406号線と並んで、雑木林の丘陵(雑木林)が東から西北に伸びている。その中にこの號五第(第五号)橋台があったのだが、他にも橋台他が埋もれていると考えらた。

これは納豆ピザの「多伊夢」から見た段丘で號五第(第五号)橋台から東への延長にあたります。
「多伊夢」の前が406号線で、木々や雑木林に埋もれた段丘が延々と西北の上里見に向かって続いているんです。裾には里見川が流れている。
多伊夢の向かい側の丘.jpg処理済~丘が続く.jpg
丘が続く2.jpg丘が続く3.jpg
その丘を縦に割る路地や水路とかがある筈。そこを渡った橋の橋台がないかどうか、號五第(第五号)から多伊夢の間、406号線から丘に入る細い路地を幾つか探して入ってみたんです。
そのうちの一つ、號五第(第五号)橋台から東へ1km辺り、406号が里見川を渡った欄干の脇に細い路地があった。川に沿った小道になっている。
小川の傍を歩く.jpg奥へ進む.jpg
坂を登って.jpg丸い石垣の擁壁路.jpg
あまり人が立ち入る道ではないようで荒れていた。木々も倒れていた。豪雨には川と豹変するのであろ。その道、坂を上がって右、段丘にある八幡霊園の突き当りに、左右に残る橋台があった。
ここにも発見!!.jpg逆光の橋台.jpg
右側.jpg左側.jpg
橋台を支える背後の石垣は城みたいに見える。
この時は號五第(第五号)橋台ほど驚かなかなかったけど、ジャングルの中で誰にも知られていない遺跡を発見した時ってこんな気分なのかな~なんてワクワクしましたよ。
で、竣工年月日は?何号橋台か?
明治四十三年五月竣工とあった。號五第(第五号)橋台の一か月後に完成したこの橋台、写真がちょっとボケてますが、おそらく號二第(第二号)。
風化してるからもしかしたら三かも。でもこれで、號五第(第五号)からここまでの丘を軌道、もしくはその跡が続いていたのは間違いないと思われる。
號五第(第五号)からここまでの間、この先に合わせてもう三つの橋台が存在する、もしくは存在した筈ではないか。
これも明治四十三年.jpg第二号(ボケてますが).jpg
凄い藪.jpgこの橋台の上は右側だけ登れます。
だが、そこも凄い藪だった。
蜘蛛の巣だらけ。すぐ隣のフェンス越しは広大な八幡霊園なので、そこを整備している作業員の声が聞こえた。
上がってみたら、フェンスの向こうは墓地とはいえ人がいる。日常、陽が当たっている。
だがフェンスのこちら側は木々に遮られてほとんど陽が当たらない。私のようなヒマ人が滅多に訪れるかどうかといった場所です。
だから人知れず残っていたのでしょう。


橋台はまだある筈だ。
この散策は、1日に踏破したわけではないです。空振りも含めて都合5回は来ています。ウチ1回のランチが納豆ピザだったんです。最後の方はもう憑りつかれたみたいになっちゃって、晩夏の猛暑と草いきれでようやく小休止した。
その前に、気になる個所があった。
だが、立ち入り禁止だったんです。
処理済~立ち入り禁止だった.jpgこの奥にないか?.jpg
私はこの先に、橋台がもう一つあるような気がしてならない。今は夏場なので自重しました。

謎の里見橋台の位置関係.jpg左の地図では”第三”となってますが、二かもしれない。せめて間にもう一つだけでも橋台をみつけたいものだが。。。

この橋台について克明に散策されて方のサイトが一つだけありました。
そのサイトには都合、三つの橋台が紹介されているのですが、二つは私と同じです。號五第と號二第(三?)です。
もう一つの橋台はサイトに紹介する前に偶然発見したものらしいが、改めて探しに行ったら何処だったかわかんなくなっちゃったそうです。
住宅開発とかで破壊されてなければ三つ目の橋台がある筈です。號四第か號一第か、はたまた號六第か。。。

私は図書館に行く度に文献を探した。
旧榛名町は倉渕温泉もろとも合併されたので、市内図書館で情報を検索したら、里見村史、合併前の榛名町資料があって、僅かながら里見軌道の頁があった。
大正三年、軌道敷設特許願の頁に、
「里見村ハ往古ヨリ里見石ト称スル石材ヲ産出シテ石量豊富殆ド無尽蔵ニシテ石質亦良好んアルヲ以テ各種ノ建築其ノ他ノ材料トシテ重用セラレ・・・」
大正四年、里見軌道路線実地調査複令には、
「里見軌道ハ信越線飯塚駅前ニ起リ国有線ニ沿フテ烏川ヲ渡リ其ノ右岸ナル仮定県道上ヲ走ルコト約八哩ニシテ県道ヲ離レ専用軌道ヲ以テ進ムコト約三哩里見村ニ達スル延長十一哩軌間二呎六吋ノ軌道ナリ。。。」
二呎六吋なら762mmで間違いないようですね。
県道とは橋台の麓を走る406号線のことでしょう。烏川右岸も一致します。
大正四年の里見軌道特許状の項、命令書第三条に「原動力ハ人力トス」とあった。動力で電気、蒸気、馬車、ガソリンは見当たらない。
総じて大正年間の記録のみだった。この橋台の記載、明治の記載は皆無だった。

では近隣で訊いてみるか。
でも何しろ明治である。知っている古老だってそうそういないだろう。
だがまてよ??知ってる古老がいなくても、古老から聞いた人っていないだろうか?

號二第(第二号)橋台近くには家はない。そこへ至る薄暗い小道は荒れていて、橋台は八幡霊園のフェンスに接して行き止まりになっている。人が日常、通行する道ではない。八幡霊園ができたことで廃道になったと思われるのだ。
県道側の入り口付近には廃屋と営ってるのか営ってないのかわからない果物販売店があるだけ。

號五第(第五号)橋台は抜け道、裏道になっている。くるまの通行もある。
だがこの県の住民は必ずくるまを持っていて、くるまでないと移動しない。徒歩で歩いてる人を見ないのである。
まさか走っているくるまを力ずくで止めて、「この橋台知ってる?」って訊くのもどうかと。
近隣に住宅地はある。でも新しく、地主が切り売りして分譲した感があるので、居住している方は近年に越して来たとしか思えない。
白昼、わざわざおとなうのもちょっとねぇ。
いきなり玄関口をドンドン叩いて出て来た家人に「あの橋台はなんです?」と訊くのもはばかられた。
改めて 第五号橋台.jpg改めて第二号橋台.jpg
明治四十三年竣工という過去は遠い。遠すぎる。
諦めかけたところで、一つだけ明かりが灯った。私は一人、この辺りに知人がいる。Tさんという男性で推定年齢60台です。
Tさんのは地元で同姓がた~くさんいます。私はTさんとある場所である件で知り合い、その際、「里見って房総半島の里見氏発祥の地なの?」って訊いたことがある。
Tさんは、「こっちではそう言ってる。でも、向こう(安房)は俺んとこだって言ってる(笑)」って笑ってた。

私はTさんの邸宅を訪れ、頃合い良く庭にいたTさんに橋台の写真を見せた。
「あの山の中の二か所にこういう建造物があって・・・橋の台なんですこれ。桁が渡ってたんだと思います。昔、電車が走ってたんですか?」
敢えて人者軌道とは言わず電車と言ったんです。
Tさんは首をひねった。
「いやぁどうだろ。でも待てよ。昔、電車を走らせるって話はあったってきいたねぇ。板鼻ってところに橋の台があってさ。それがこっちに伸びてくるって」
それは上州電気鉄道のことに違いない。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2

「板鼻からこっちへは山を越えるじゃないですか。それとは別に、前の山を向こう(東)からこっち(西)へずーっとあったらしく、山ん中に二か所、この橋台があるんです」
Tさんは、號二第(第二号)橋台の写真で固まった。
「これって・・・???」
「八幡霊園の側にあるんです」
「昔、水道管を渡らせたものだな」
水道管の橋?
ちょっとズッコケた。明治四十三年に?
明治のいつだったか、横浜みたいな海の埋め立て地で、井戸を掘ったら水が塩辛くて飲めない土地には水道整備が急がれたが、ここは瑞々しいところです。やたらと川が多い。川だらけだからね。
でも改めて写真を見直したら、確かに水道管らしき丸い管は載っかっていた。セメントで蓋をされていた。雨どいみたいな細い管が降りていた。
水道管の跡右.jpg水道管の跡左.jpg
でも管が新しく見える。水道管橋は廃止後の再利用ではないか。確かにそういう橋はある。前は軽便の小さい軌道の橋台が水道管や人道橋として第二の人生を送るケースはあります。

鉄道、軌道じゃなかったのだろうか。
「でも、走らせるって話はあったように思うよ」
「何故、中止になったんでしょうか。金がなかった?」
「さぁ。でも無理でしょここに敷いたってさ。だって利用する人がいないもん」ってTさんは笑い出した。
「もう知ってる人っていないですよねぇ。」
「いないと思うよ。お祭りん時に一緒に(仕事を)やったあの人なら知ってっかなぁ」なんて言ってたけど、聞き取りはここで終わっています。
残念ながら噂、伝承の域を出ませんでした。
五号橋台を正面から.jpg二号橋台右を正面から.jpg
私は今でも里見軌道未成線はこの段丘の何処かを通るべく計画され、残る橋台もこの緑の丘に眠ってると思っています。
それは烏川上流で稼働していた里見軌道と同じ路線なのだろうか。
そうだとしても、明治43年竣工と、里見軌道株式会社設立の大正15年、この9年間のズレは何か?
謎が解けないのだ。
それは半永久的に解けないかもしれない。それでも私は、立ち入り禁止で断念した小道を含めて残る3つの橋台を探しています。あの立ち入り禁止の路地、草が枯れた晩秋か冬に踏み込んでみます。
この丘に眠っている1.jpgこの丘に眠っている2.jpg
この山の何処かに眠っているんです。明治~大正~昭和~平成。。。100年も草に埋もれている鉄路の夢の跡が。。。
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上州電気鉄道未成線跡 [廃線跡]

オカシな構造物.jpg何だこれは?.jpg
民家の敷地内に、こんなのがあった。
この構造物があるのは、板鼻陸橋下という交差点脇にある。県道10号(上毛三山パノラマ街道)、26号、137号、3つの県道の交差点です。
庭で植木を切っていた住民さん、オヤっさんに訊いてみた。
「何ですかこれ?」
「ああこれはね。軽井沢の方へ伸びる予定だった鉄道の跡・・・
橋台、橋の台だという。
橋というからにはもう片方あったに違いない。現在は片側のみある。何やらアヤシイものの看板になっている。

実は私、これの存在をこっちに来る前に知っていました。故宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」に紹介されていたんです。民家の敷地にある橋台というのがキョーレツに印象に刻まれ、発見した時、「何処かで見たな」って。
ブックスには、オッさんが言う「軽井沢方面へ伸びる予定だった・・・」とまでは書かれていなかった。そういう夢があった、夢を見た人がいたんでしょう。廃線は廃線なんだけど、この上州電気鉄道橋台は未成線なんです。未成線とは着工したけど完成しなかった、開通に至らず諸事情の為、途中で「止~めた」って放棄されたもの。
なのでこの橋台には電車は一度も走ることはなかった。

廃線跡シリーズ.jpg未成線(みせいせん)とは、計画、建設段階で中止され、完成しなかった鉄道路線のことです。
最初は鉄道関係者やマニアの隠語か造語だったらしい。一般人はこの造語を使わなかったというか、知らなかった。知らなくても日常に支障なかった。
それが故宮脇俊三氏監修の書籍他で広まったのは、「完成されていたらどうなっていたか」というロマンを辿る趣味の世界からだと思う。

未成線は枠が狭いようで広い。
着工区間があったか、もしくは営業までこぎつけて、そこから先は・・・・・・のように計画路線があれば未成線と位置づけられるようである。
私はこれまで、営業はおろか、全く工事着工しなかったものでも、地図に描くと全線が・・・(点線)・・・で表示されるものは未成線ではなく計画線、構想線だろうと思ってたのだが、免許を得られなかった(却下された)区間や構想段階、計画段階で消えたものも含めて未成線と呼ばれるらしいです。
例えば、軌道が全く着工しなかった熱海モノレールも未成線と呼ばれている。(熱海駅のみ着工した。)

JRでも私鉄でも、鉄道事業者が国土交通省に敷設許可を申請したとして、
免許線、これは工事は未着工。
工施線、免許から一歩進んで、工事が認可されたもの。用地買収や一部だけでも工事に取り掛かったもの。
これらは未成線扱いになる。

同じ線形だから、道路も未成線と呼ぶかも知れない。特に近世、予算凍結等で工事半ばで中止されたものは社会問題の的にもなる。

以下、難しい話で恐縮ですが、国鉄→JRの民営化に伴い、昭和61年に施行された鉄道事業法の前の地方鉄道法には、敷設免許の取得により、初めて鉄道会社の設立ができると定められるとあった。
上信電気鉄道株式会社の場合、免許取得が大正9年で会社設立は13年と伝わる。
最初の段階でもう4年もロスしている。資金が無かったのがうかがえる。

免許には期限があるらしい。同法には免許の失効に関する規定があって、期限までに工事ができなかった場合や、営業廃止となった場合に免許が失効となると定められているが、期限がどれくらいなのかはちょっとわからない。延長申請とかの救済策があったかも知れない。

この未成線の計画そのものは壮大だった。
群馬八幡駅から里見を経由して、吾妻や榛名湖、草津方面へ延長する計画で、更には県境を越えて長野県まで延伸する野望、夢もあった。なので冒頭のオッさんが言う「軽井沢の方へ」というのが確かにあったのです。
ただ、起点については諸説あって、当初の起点は群馬八幡駅ではなく、現在の上信電鉄の南高崎駅を起点としたという説もある。
軌間は1067mmなので我々が日常乗る電車の規格(軌格?)でしっかりした線路だった。

(この会社の本社は東京にあって、倒産前はこの橋台のある板鼻町に移転してきたとか。となると現在の下仁田まで走る上信電鉄とは無関係だったようだが、別項で出て来る“超”が付く謎廃線、里見軌道が資材を運んだ発電所との関係が怪しまれる。)

群馬八幡駅.jpgよくある話で資金難に陥ったようです。
金が無く工事が遅々として進まないうちに昭和3年、最初の予定ルートの免許が失効しちゃったので、起点をズラして当時は飯塚駅といった現在の北高崎駅を起点とするプランに変更した。
ところが烏川を渡る資金が無く、昭和5年に群馬八幡駅に変更された。南高崎→飯塚(北高崎)→群馬八幡です。
それでも金が無く、[あせあせ(飛び散る汗)]大正15年には安中~板鼻(この橋台のある辺り)と、上里見~何処かが失効し、昭和6年か7年には会社が倒産。翌8年には全線失効した。


実際の工事区間は2割だけと某資料にあった。冒頭に紹介した取り残された橋台はその名残です。
見た感じ、キョーレツで、最大の遺構のようだが、唯一の遺構というわけでもない。
この延長上には神社があって、この近くに車庫ができる予定だったと書いてあった。
神社の向かいにはこんな畑、用地がある。おそらく車庫予定地ではないか。
謎の神社.jpg車庫予定地と伝わる場所.jpg
まだある。
路盤の跡が残っているのです。民間会社の寮の側に、鉄路を敷設する築堤という盛り土が続いている。
この盛り土については、前述の本にも小さく載っていた。
路盤の跡1.jpg路盤の跡2.jpg
このスペースは現在、雑木林になっているところと、民間に払い下げられたか、もとの持ち主に返されたのか、畑になっているところもある。鉄道用地なだけあって平らだから耕し易いのでしょう。
近隣には新しい住宅も建ちはじめている。そこの住民さんたちはおそらく他から引っ越して来たのでこの廃線の
ことは知らないと思われる。
今ある路盤跡も、いずれは宅地になるかも知れない。
路盤の跡3.jpg路盤の跡4.jpg
いかにもそれっぽく見えるでしょう。でも実際にレールが敷かれるとこまで工事されたかどうかは不明です。
路盤の跡5.jpg路盤の跡6.jpg
路盤の跡7.jpg路盤の跡8.jpg
自然に還っていく.jpg盛り土部分は何となく、それらしく、鉄道用敷地といった感で細長く続いていくが、その先は自然に還っている。判然としなくなった。
この先、何処まで工事が着工されたのか。
中里見というところの泉福寺という寺付近に、二つの橋台が向かい合うように建っていたという情報もあったが私はそこまで行っていない。
廃線跡というのは、長~い路線跡をトレースして、そこにあるポイントポイントを抑えて行く根気が必要なのを感じた。私はそこまでしなかった。


橋台に戻ります。
こんなものが庭にあったら、「ジャマじゃないですか?」
ところが所有者?のオッさんは意に介さず、
「そうでもないんだよ。これのおかげでトラックや大型車が突っ込んで来れないんだよね」
家を、庭を、敷地を護っている防波堤のような役割を担っている。風化していてわからないが、くるまがぶつかったり、かすったりした跡もあるのかも知れない。
処理済~脇から見る1.jpg処理済~脇から見る2.jpg
ポツンと残るコンクリの橋台だが、盛土は何処に転用されたのだろうか。
並行して走る県道に転用されたという説がもっぱらです。オーバークロスする高さが同じだし。確証はありませんが。。。
現在は、脇に電気の配電盤ボックスみたいなのが取り付けられていて、夜は妖しく光るのかも。

上州電気鉄道橋台と築堤位置関係.jpg←場所はここです。
この未成線が発端となって、ここから北2kmにある写真下の建造物について調査中ですが、某サイト以外は資料、文献が希少な状態なのだ。
記事はだいたい出来上がっています。近日中にUpします。
謎の橋台.jpg
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大鷹の湯と塩原電車 [廃線跡]

大鷹の湯電車.jpgこのレトロな電車は十兵衛さんならご存知ですよね。
西那須野温泉、源泉かけ流し大鷹の湯敷地内の電車です。
十兵衛さんのこの宿のレポを見ると何だか旅館の根底がズレまくっていて、特に改装前のレポなんか爆笑の連続だが、改装後もこの電車はあるようですね。
宿のHPを見ると、地元を通っていた歴史ある電車を置いてあります、とある。

この電車の正体は何なのだろうか。

この電車の詳細資料がジャン自室にあったのを発見しました。資料からの抜粋で恐縮ですが、この「大鷹の湯」電車のモデルは塩原電車(シオバラデンシャ)といって、栃木県西那須野~塩原口駅間14.6kmを走っていたれっきとした軽便鉄道の1/2モデルだそうです。

塩原電車は1912年、明治45年が大正元年になった年の7月11日、西那須野~関谷が暫定開通。1915年(大正4年)7月11日に関谷から先、新塩原まで開通。
西那須野駅から、あるいは東北道西那須野塩原ICから国道400号に降りて塩原温泉まで行く道、だいたいそれに沿って走っていた。
最初っから電化されていたのではない。開業から10年間は蒸気。この間、塩原御用邸に向かう大正天皇が乗車されたこともあったという。

軽便鉄道なのに軌間は1067mm、現在のJRの標準軌間と同じではないか。軌道は西那須野駅前から湯の香ラインを併行して伸び、国道400号に沿って走り、関谷郵便局で400号から逸れて逆S字を描いて山を登っていた。
1921年(大正10年)12月に電化されている。
それまでは工事開始直後からアブなく怪しい遍歴もあった。電化の理由も、まぁイロイロと社内でゴタついた結果、救世主が現れたといった感じ。
翌22年(大正11年)には塩原口まで14.6kmが全通した。この時、新塩原駅は廃止になったらしい。おそらくは暫定的な終着駅だったのではないか。

駅というか、停車場は判っているものだけで、西那須野~三島(国道4号線との交差地点)~烏森公園~三島神社前~稲荷山~赤田~御嶽山道(東北道交差地点か?)~千本松(ホウライ牧場レストハウス付近)~金沢道~関谷~新塩原~塩原口とあった。
終着駅、塩原口駅は現在のがま石園地駐車場、尾崎紅葉の碑がある辺りと伝わる。回顧の滝辺りか?なので、塩原温泉郷まではまだかなりある。そこから先は連絡バスだったそうである。
延長の計画もあった。
関谷から矢板(東武線との接続)までと、塩原口駅からその先、福渡温泉までの延長計画も免許が下りていたというが金がかかり過ぎる。
乗用車に客を奪われ、金融恐慌により温泉客が激減。
1932年(昭和7年)1月には休止。
1936年(昭和11年)1月に廃止。
路線図他は以下のサイトに詳しいです。
http://www.geocities.jp/teturohp/teturo_033.htm
トコトコ.jpg資料には、「大鷹の湯」がこの「塩原電車」を復元した目的は、PRや遊び心も相当あったと思うが、本館と宿泊施設との連絡用を考察した結果と記載されています。
相当考察、考えたんでしょうねぇ~。
料金は無料。宿泊者優先。優先も何もないと思うけどね~。



運転席.jpg「大鷹の湯」関係者は設計にあたって四国の「土佐電気鉄道」を訪問。ここで研究、設計をした。
この電車の駆動ベースは蓄電式の中古フォークリフトを使用しているんだと。その種の免許があれば運転できるのではないか。十兵衛さんの会社は倉庫がありましたよね。フォークリフト使ってません?
ボディは自家製。塩原電車とはっきり銘打ってある。内装も丁寧に作られ、実際の塩原電車の1/2のスケールで完成した。
車内.jpg施設内の鷹山前~泰山前を希望があれば走らせると記載されているが現在はどうなんだろう。十兵衛さんのコメだと、「フロント前の玄関に電車が停まっていたり・・・(*^m^)o==3プッ、今でも線路はそのままありますよ」という。
今は鎮座、置いてあるだけなのだろうか。敷設距離は100mもないようだが、旅館施設は8000坪もあるので施設内を延長する計画もあるにはあったらしい。今でもそういう気はあるかも知れない。

よくやるよと思わないでもない。
こういうのに力を注ぐヒマがあったらってね。今は宿も改装され進化したそうですが、最初っから何処か根底がズレた旅館になっちゃったのはこの電車のせいかもね。
だが言い替えれば、源泉かけ流しの宿が如何に強いかと。それがあるから余裕の遊び心でしょうか。
まぁ作ってしまったものをこうして見れば悪くないと思いますよ。だって塩原電車なんて知ってる人います?

だがこの「大鷹の湯」のノリは宿敷地内の運転に留まらず飽き足らず。電車の重量が2.5t程度なのをいいことに、簡易レールを持参してPRを兼ねた出張運転を行うこともあると記載されている。
そこまでするかね。こうなるともう温泉旅館業を超えている。鉄道文化遺産PR庁も兼ねた感もする。何だか凄い旅館だとも思う。

現在、ホンモノの塩原電車軌道跡は痕跡を留めず、関谷から先も自然に帰っていて、その山中僅かに石積の橋台や、草が生えた坂があるらしいが熊が出るそうです。
何しろ、昭和初期にはもう消えていたのですから。
かつて電車が走っていたなんてのを知る人は少ないのではないだろうか。
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横浜ドリームランド外周列車の謎 [廃線跡]

処理済~後ろを走るのは?.jpg
⑤横浜ドリームランド外周列車に途中駅はあったのか?
途中駅は存在しました。まずは私自身の記憶。
もう1枚発見された左の古写真を見て下さい。写っているのは私とジャン母。
ランド正面ゲートから園内に入った場所から撮影しているようですが、後方のアーチ橋を外周列車が走行しています。
外周列車廃止後もこのアーチは存在していて、このアーチに登った記憶があるのです。そこにはレールとバラストが残っていたような記憶があります。不思議な光景だった。
もしかしたらホーム、途中駅だったかも。だが自信はない。記憶違いかも知れません。
それと前項の一級資料、HP「ドリームランドメモリーズ」には、レジャー産業雑誌表紙を見ながらこんな記載がある。恐縮だが抜粋すると・・・
1)左手に外周列車の駅があること。
2)その周囲には主だった遊具施設が無いが、駅の正式名称は「冒険の国駅」ではないかということ。
3)駅に隣接する踏切があること。
4)その踏切は一般客が入退場する場所では無く、関係者や搬入車両の出入口だったこと。
5)踏切には警備員が常駐している監視小屋があること。
6)ドリームの社員寮からスタッフ達は毎朝この駅で外周列車に乗車してそれぞれの持ち場まで通勤していた可能性があること。
外周列車とメモ.jpg前項でTopに掲載した写真を再度載せますが、そこに謎を解くキーワードが。
1枚目の写真下メモにジャン母の筆跡で「かえりに乗る」とある。
これはランドの何処かにあった途中駅から帰りのゲートまで乗った証ではないか。
途中駅は間違いなくあったのです。
3)4)5)にあるように踏切もあった。当時は現在みたいに安全なんとかシステムなんてなかった時代なので、前述の踏切には監視員がいたんですね。


←謎を解く鍵 ”帰りにのる”

乗車券半券.jpg⑥乗車料金は?
これも上の写真下、ジャン母の文字で、70円とある。
それとこの半券が残っていた。
昭和40年代の金額。今だと幾らくらいになるんでしょうかね。





⑦現在のどの辺りを走っていたのか?
横浜ドリームランドは現在は横浜薬科大学と、硬式野球場、芝生、市営墓地メモリアルグリーンのある俣野公園になっている。
この外周列車の痕跡は皆無といっていい。2011年正月3日、かつてのドリームランド跡地へ行ってみたのだが全く痕跡は発見できなかった。
どの辺りを走っていたのだろうか。外周列車というからには公団ドリームハイツの境界と、現在の俣野公園の境界を走っていたと推測するしかない。
「ドリームランドメモリーズ」に掲載されていたランドMAPをもとに見比べてみると、掲載したYahoo地図の黒いマジック殴り書き部分と重なるようです。この直線を、このカーブを走っていたのかなと。
ただ、あくまで推測ですよ。
ランド跡地の地図.jpg
↓左から①ポイント、①ポイント南方向、②ポイント
ポイント①.jpgポイント①-2.jpgポイント②.jpg
左から③ポイント、④ポイント、相州春日神社です。
ポイント③.jpgポイント④.jpg相州春日神社.jpg
散策の過程でこの日訪れた相州春日神社が初詣になった。横浜ドリームランドの発展と繁盛を願った神社という。

豆列車.jpg⑧この列車は何だ?
またしても船山史家の実家から発見された古写真。これまでの2枚はモノクロだったが今度は総天然色です。
この列車も軌道がしっかりしているが、これは外周列車とは別モノらしい。おとぎ列車みたいなミニ鉄道だろうか。どなたかご存知の方おられないでしょうか?


⑨外周列車の正式廃止日時は?
正確には不明だが、公団ドリームハイツに売却した昭和45年(1970)と思われる。
JTBキャンブックス「鉄道廃線跡シリーズ」にも載っていなかった。

私はこの外周列車に乗ったのは間違いないのだが、幼少なので記憶にないのです。
冒頭1枚目のモノクローム写真でジャン父に抱かれた風景、この場所も正確にはわからなかった。
現在わかっていることを殆ど推測で書き連ねましたが、何か正しい情報をお持ちの方はコメントを下さい。
今ここにUpするに辺り、写真を撮っておいてくれた両親と、記憶を蘇らせてくれたドリームランドメモリーズ管理人さん、YouTube寄稿者の方に感謝申し上げます。

横浜ドリームランドは夢の彼方、記憶の彼方に消え去った。
だがそれより遥か前の開業初期、僅かな最盛期間に走っていた外周列車を知る人は幾人おられるだろうか。
ドリームランド入園券.jpg
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横浜ドリームランド外周列車の謎 [廃線跡]

2010.1.08に掲載した「謎の地方鉄道」・・・
この記事は最初は不人気というか、注目度がイマイチだったのですが、史家の地元で謎のゲスト、みみんさんのコメを引っ張ってから若干上昇しました。[わーい(嬉しい顔)]
史家の実家から発見されたこの古写真。写っているのはジャン父(故人)と幼少の私。
タイトル通り、昭和39年(1964年)8月開園~平成14年(2002年)2月17日に閉園した「横浜ドリームランド」最盛期にランド周囲を走っていた鉄道、外周列車がこれ。
外周列車とメモ.jpg
写真の背景は田園地帯のようなので、ランドがあった現在の横浜市戸塚区俣野町か、隣町和泉町の風景だと推測されます。
横浜ドリームランドが開園当時の華やかさも薄れ、徐々に衰退していくきっかけは、ドリーム交通モノレールの設計ミスによる起動桁クラック、タイヤのバースト等に伴う運休に始まるが、この外周列車も運行期間は短く、昭和45年(1970年)ランド敷地の「冒険の国」他を公団ドリームハイツに売却したことでこの外周列車は消滅する。

この外周列車の資料がみつからないのです。だがネット上の資料として一級資料が二つある。
HP「ドリームランドメモリーズ」の中に開業前のランド航空写真を発見。雑誌「レジャー産業」1968.9号からの転用らしいが、この航空写真左に外周列車の線路と駅が写っているのです。
http://members.jcom.home.ne.jp/dream41834/dream1003.htm

次に「YouTube横浜ドリームランド前編」
これには外周列車現役の勇姿が堂々映像として残されています。
数少ない一級資料といっていい。

他は資料も少なく、ゼロに等しく、詳細は推測の域を出ないのですが、幾つもの謎がある。

①地方鉄道だったのか?
古写真や前述のネット資料を見ると、遊園地の遊具施設、いわゆる豆電車よもりスケールが大きい。
当時施行されていた法律から推測すると、地方鉄道法(当時、地方公共団体や私人が敷設する鉄道の敷設運営について規定した法律)による免許が取得されないと敷設できない筈。

②レールの規格は?
地方鉄道法では第2-4条に地方鉄道の規格に対する規定があり、「人力や馬力の使用禁止で軌間に1067mmを基本としながらも762mmを認める」云々とある。
実際、前述のYouTubeを見ると、再生後2:33~2:46では外周列車が画面後方をゆっくり走っているが、6:53~7:05ラストまではかなりのスピードで走っている。
外周列車勇姿(YouTubeから).jpg去って行く外周列車(YouTubeから).jpg
レール.jpg姉妹園だった奈良ドリームランド(2006.8.31閉園)の外周列車は日本国有鉄道規格で軌間は1067mmだったという。おそらく横浜ランドの外周列車も軌間は1067mmで30Kgレールを使用していたのではないか。
写真で使用されていたレール(推測)をイメージしてください。




奈良ランド機関車.jpg
③機関車の燃料、動力は何か?
これも推測だが、姉妹園の奈良ランドでは蒸気機関車(写真左)はレプリカでディーゼルエンジンだったという。
蓄電池、バッテリーの可能性もあるけど。





④どんな車両だったのか?
機関車はレプリカだが、奈良ランドの車両製作は帝国車両(後の東急車輛)という。横浜ランドも同じであろう。
古写真を見ると最終連結の車両は旧国鉄の貨物車掌車の改造ではないだろうか。車窓の位置が高い感もあるが。

次に長くなりますが・・・
⑤途中駅はあったのか?
難しい話で恐縮ですが、これもまずは法律が絡む。鉄道事業法という。
ランド外周列車はこの法の第5条第2項で「特定の目的を有する旅客の運送を行うもの」として規定されている鉄道事業に当たると思われる。

更に詳しく述べると、(A)特定の景観の鑑賞、遊戯施設への旅客の運送、(B)その他の観光の目的を有する旅
客の運送を行うというものに分けられます。
(A)はどういう意味かというと、一つの例として、例えば、何処ぞの駅からテーマパークへの直通シャトルがあったとします。
だけど(A)は、駅からテーマパーク利用者を直行させる事業は認可されるが、テーマパーク利用者以外の乗客を、市内路線電車のように途中駅を設けて運ぶ事はできないのです。空港へのシャトルバスと一緒。

廃止された横浜ランドモノレールの復活の噂が幾度となく流れたが、再開の前提はあくまで横浜ドリームランドへの乗客運転が大前提で(A)に該当します。それ以外の通勤に伴う途中駅(小雀信号所の駅昇格)は前相談の時点で運輸省が認めなかったという。

ゲストのヒロ旦那が以前、四国の祖谷温泉に行かれたと思いますが、そこは宿から遥か谷底の川原に温泉が沸いているので温泉専用ケーブルカーがあります。これも宿と温泉を往復するのが目的で、当たり前だが途中駅はないです。これも(A)に該当します。

だが、横浜ランド外周列車は、外部からランドへの客の送迎のための鉄道ではないです。ランド内の移動のための特徴性が強い。
公共性の低い鉄道だが、そういう特徴の鉄道事業も行えるようにした法律が鉄道事業法第5条第2項で、外周列車は(A)ではなく(B)に該当します。
となると、その遊園地内の移動目的として途中駅はあった可能性が高い。
だってグルッと一周して元の駅に360度戻るより、途中駅を設けて園内移動の利便性を図った方が、ランド利用客の動線が多様になって様々な遊具に金を落とすというもの。

難しい話が延々続きましたがまだ⑤の答えが出ていませんね。実際、途中駅はあったのだろうか?
どうもあったらしいです。
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