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会津誘致の垂れ幕。。。 [会津]

駅構内に、会津のキャッチがた~くさん垂れ下がっている。
処理済~垂れ幕がいっぱい.jpg処理済~垂れ幕がいっぱい2.jpg処理済~あかべこ.jpg
「ここから会津って遠くない?」(ジャン妻)
「遠いよ」
さすがに地理オンチのジャン妻もそれに気付いたらしい。
「どーやって行くの?」(ジャン妻)
「大宮まで戻って東北新幹線か、両毛線で栃木まで行って東武線に乗り換えるか。時間的には横浜から行くのと変わらないよ。」
「ふ~ん」(ジャン妻)
「くるまだったらこっちから直行すれば早いけどさ」
でも、こっちのくるまは社用車(会社契約のリース車)だから、こっちのくるまで会津行ってわけにはいかないよな。県内ならともかく。
ジャン妻は、ここからざわざわ会津に行く人っているのかな?みたいな表情だった。
トランヴェール.jpg別の日のこと。
新幹線車中、座席に置いてあったトランヴェール10月号が「時代を貫く会津特集」になっていた。
結構な特集である。震災以降、トランヴェールは東北地方が取り上げられることが多いのだが、今回は、~会津復興の歴史に見る東北の明日~だって。
会津と斗南が載っていた。
震災から復興への息吹を、幕末~明治の会津藩に準えているらしい。やってることが来年の大河と一緒じゃねぇか。

このトランヴェールをパラパラめくりながら、
「ここから会津って遠くない?」(ジャン妻)
「遠い。」
「どーやって行くの?」(ジャン妻)
「大宮まで戻るか。両毛線で栃木まで行って東武線に乗り換えるか。時間的には横浜の実家から行くのと変わらない・・・」
ここまで説明して、まてよ?って思った。
前の日に教えたじゃんか。ちったぁ自分で調べて覚えろっつーの。本人は前にも質問したのを忘れてるらしい。

会津もそうだが、ここだって田舎都市(失礼、地方都市)の城下町である。
田舎に住んでる人って田舎に旅行に行かないらしく、こっちのスタッフで、「ここの人たちは県内で遊ばないし、ここから別の田舎にも行きません」って言ってた。
俺らは4月以降、社の体制をガラッと変えて、あって当然のものを導入したら、「初めて夏休みが取れました」「連続して休めました」って嬉々としていたが、休んで行った先々は殆どが海がある場所、海が見える場所だった。沖縄だったり、ディズニーランドだったり。。。
「中華街に行きました」って目を輝かせてた子がいた。「美味しいですねぇ」って。
「俺らは地元で中華街はよう行かんぜ。こっちの田舎中華の方が美味い」
お料理は人数分の店や、ALL580円中華の店とかね。

沖縄に行った子が「見て下さい。こんなに焼けました」
「そうかぁ?前と変わらんぞ」
「ヒドっ!!」
(最近、だんだんと私の毒舌が開放されつつある。)
「あっ、いや、そうじゃなくて、前から健康的だよっていうことさ」ゴマカした。
田舎焼けなんですよ。海で無理に焼いた日焼けではなく、田舎の田んぼや畑ん中で焼けた自然の日焼けなんだな。
あかべぇ拡大.jpg
皆無とまで言わないが、ここから会津に行った奇特なヤツなんているかぁ。
この地で会津の“ア”の字も聞いたことない。申し訳ないけどこの垂れ幕は効果が薄いのかもしれないな。
リンクしてる会津観光親善大使、あかべぇさんの大好きなマスコット、あかべぇがキョロンとしている。
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慶応四年八月二十三日 [会津]

滝沢本陣.jpgタイトルは旧暦です。この日、新政府軍が土佐藩兵を先頭に滝沢峠を下ってきた。
会津藩主松平容保と、実弟の桑名藩主、定敬がいる滝沢本陣に迫って銃を乱射。現在も弾痕が見られるのはこの時のもの。
容保は滝沢本陣を脱出する。近習と甲賀町口門から郭内に入った。この郭内とは武家屋敷町のことで、郭内と町屋の郭外とは高い土居と外壕で境界され、十六の郭門が設けられていた。
最大の郭門は容保が駆け込んだ甲賀町口門、現在、「麦とろ」に至る細い道に、東西あった石垣の西側だけ残存する。
「この辺りは戊辰で一番の激戦があったトコなんだ。建てようとして掘ると、何か出て来る時がある」(麦とろのオヤジさん)
甲賀町口門2.jpg甲賀町口門3.jpg
容保は二十人の近習と郭内から城内へ向かう途中で、滝沢の急を知って容保を護るべく出動してきた春日和泉という隊長が率いる白虎隊士中一番隊37人と出遭った。
容保は「余に従うを要せず。甲賀町郭門に拠って防戦すべし」
この時、鶴ヶ城の鐘は激しく乱打されている。容保は「この鐘が乱打されたら城内に走れ」という触れが発令されてるのを知っている。家中が城内に入るまでに十六の郭門を一つでも突破されたら、新政府軍は郭門の守備兵の背後にまわられ、郭内での犠牲者が甚大になる。
「一歩も入れるな」
春日和泉以下、甲賀町口門で新政府軍と対峙したのは、37人の白虎士中一番隊他、合計五十人だった。
甲賀町口門1.jpg甲賀町口門裏.jpg
甲賀町口門表示柱.jpg甲賀町口門解説版.jpg
この37人の白虎隊士は士中一番隊です。飯盛山で自刃した十九士は二番隊で、この日の午後に若い命を散らす。
三番隊はない。ないが、士中とは上士のこと。他に寄合(中士か?)、足軽と分けられ、一番隊と二番隊に編成されていた。
(TVドラマで白地の黒い筆で“白虎隊”と描かれた幟を見る時があるが、史実とは違う。)

午前10時、一旦は城内に引き上げた容保は、老人組や、年齢制限で白虎隊から除外された十五歳以下の幼少組といった最後の予備兵力を掻き集めて甲賀町口門に再度来た。
会津藩の主力は越後口、白河口、日光口他、藩境に分散されたので、老人や幼少者をかき集めなきゃならないほどに城内の戦力は落ちていたのである。城外の会津諸隊が帰城して来るのは翌日の二十四日から二十六日にかけてである。
(だがその時は、白虎士中二番隊のうち十九士は、飯盛山の露と消えている。)

新政府軍の銃弾、砲弾が甲賀町口に集中してきた。
士中一番隊は甲賀町の郭門向かいの南、三宅という旧家老宅の土居に登って、ヤーゲル銃という旧式の銃で抵抗したが。。。
火力が違う。。。
新政府軍は最新式の銃(スナイドル、スペンサー)。その貫通力は会津側が立て並べた畳や俵の胸壁を貫通、粉砕する。死傷者が続出した。
士中一番隊士や他の会津藩兵は、旧式のゲベール銃、ミニェー銃、大阪陣と変わらない火縄銃。。。
少年隊士たちは最新式の火器に圧倒されて土居に伏せていると、新政府軍の砲弾が門扉を粉砕、歩兵が門の枡形へ雪崩れ込んできた。
坂井という少年が、侵入を許したことで間近に見える新政府軍の敵兵をヤーゲル銃で2人倒したが、こっちも至近距離なので3人目を狙って撃ったら被弾した。
甲賀町口はあっさり破られ、その郭内一帯に新政府軍が充満した。容保は城内に撤退したが、春日和泉以下、白虎士中一番隊は三宅邸に取り残されてしまったのである。
新政府軍.jpg新政府軍2.jpg
白虎士中一番隊が取り残され、袋のネズミになってしまった場所、もと家老宅、三宅邸とは何処なのか。
今回の旅では事前調査不足で発見できなかったが、戻ってからイロイロ調べたら、何だここか?っていうのを発見した。
福島県会津若松市栄町7番49号の「米熊」という料亭がそうだという。この料亭のHPを見ると、「300年の歴史を持つ会津藩家老三宅邸の庭を受け継ぐ会津の老舗料亭米熊」とあった。
改易となった山形鳥居家旧臣、三宅孫兵衛が保科家に召抱えられ、会津藩の奉行・家老職を務めたそうです。
しかもこの旧三宅邸、現「米熊」は、あの居酒屋「籠太」と接している。「麦とろ」~「籠太」は、「米熊」を挟んですぐ近隣なのです。「激戦があった」というのを裏付け、頷けるかと思います。

話を慶応四年八月二十三日に戻す。
三宅邸に集まった士中一番隊の少年隊士は、春日和泉隊長に命令を促した。
甲賀町口から斬り込むか。そしたら全員戦死であろう。
では自刃するか。
グズグズしているうちに三宅邸にも砲弾が飛んできた。

戸の口原戦線を離れ、その結果、士中二番隊十七士を自刃に追い込んだ誹りを受けている隊長、日向内記はある程度、調べたつもりだが、士中一番隊の隊長、春日和泉とはどんな隊長だったのか。
ここではリーダーとしての決断を要求される場面として着目したら、和泉隊長は、
「この場を脱出し、例え一人になろうと城内に入り、君侯(容保)に仕えるべし」
死地を脱せよという命が、死に傾きかけてた少年隊士を生に呼び戻し、これより先、隊士たちは死のうとは思わなかったようである。
士中一番隊は城へ帰還せんと三宅邸を脱出。途中、土屋という藩医の邸宅で二人の門閥家老、神保内蔵助、田中土佐と出遭い自刃を勧められたが、小隊長格の中村帯刀が「城は未だ陥落せず。君侯の先途を見届ける」と突っぱねている。
甲賀町通り.jpg城へ城へと走る一番隊の少年たちは、真っ直ぐ行くと西郷邸に至る甲賀町通りを避けて途中左折、並行している六日町通りを右折して三の丸を目指した。
だが既に他の口門も破れ、新政府軍が充満したので一旦、郭外に出て、二つの小隊に分かれる。
「生きて城に帰れ」と決断した春日和泉ともう一隊、生田織江という小隊長が十八人を率いて神社に潜伏した。
(生田率いる隊は入場を一旦は断念して東へ移動、後日、入城)
春日和泉率いる残りの少年隊士は三の丸に入城するのだが、その途中、敵前を横断する過程で遭遇戦になり、その時、二人の隊士が戦死している。(※)

春日和泉率い白虎士中一番隊が入城した三の丸はガラガラだった。
一息入れていたら北出丸、甲賀町通りの方角から喊声や銃声が聞こえて来る。和泉以下、一番隊の少年たちはその方面へ急行した。そうなると必然的にさっきまで市街で戦っていたと同じ敵とやり合うことになる。

北出丸は西郷頼母邸の真ん前で、現在の鶴ヶ城にくるまで入る際に駐車場に誘導される途中で必ず通ります。この時、北出丸前の西郷邸では一族が殉難していて、他にも武家屋敷町ではわかっているだけでも六十九家、百七十九人の老幼婦女子が自刃している。
この辺り一帯を制圧したと思った土佐藩兵は、西郷邸を背に、北出丸を前に、城門(追手門)を探しながら散開した。
新政府軍が散開した辺り2.jpg新政府軍が散開した辺り3.jpg
土佐藩兵は攻め込む城門を探した。だが、現地を訪ればわかるが、北出丸の門、追手門は、新政府軍が散開した正面からは見えない位置にあるのだ。
新政府軍が散開した辺り1.jpg城内簡略案内図.jpg
門の説明.jpg門は曲がったところの奥.jpg
戸惑っている新政府軍は、正面の北出丸の城壁から一斉射撃を喰らった。
北出丸の土居に登ってみた。そこから堀の対岸に散開いた新政府軍は手が届く距離に見えただろう。相手の表情も見えるかも知れない。
北出丸.jpg北出丸の土居1.jpg
北出丸の土居2.jpg狙える距離左.jpg
狙える距離中央.jpg狙える距離右.jpg
春日和泉率いる白虎隊士中一番隊は、正面の土佐藩兵に反撃中の北出丸守備兵に合流した。そこには戦闘員と城下の非戦闘員たちが集結していたが、誰が北出丸の反撃指揮を執っていたのか。
指揮をしているのは髪を切って男装した女性。7連発のスペンサー銃を構えながら周囲を叱咤激励して応射しているその女性が、会津藩砲術師範の娘、山本八重!!
土佐藩兵の指揮官が次々と撃たれる。大総督府軍監小笠原唯八、大隊長祖父江可成、三番隊長小笠原謙吉他、後はいちいち名前を挙げるのも煩わしいが、九番隊長、十番隊長、十二番隊長が死傷、斃れた。
八重の7連発スペンサー銃は、兄貴の覚馬が長崎で八重の為に購入したものだという。凄いプレゼントではある。
このスペンサー銃は元込め式で装填時間が短く、スプリングが効いて連射が可能だった。開戦時は弾は100発あった。そのウチの何発かが北出丸で炸裂している。
死傷者続出で後退した土佐藩兵に代わって薩摩藩兵の銃砲隊がやって来た。中に大物がいる。薩摩藩二番砲隊長の大山巌(西郷の従弟)。
大山巌は砲撃で北出丸の城壁を破壊しようとしたのだが、八重が撃ったのか、合流した白虎士中一番隊の誰かが撃ったのか、大山本人も貫通銃創を受けて後方に運ばれた。
だが薩摩兵が運んで来た砲身はこっちを向いている。八重は最初の夫、川崎尚之助他と力を合わせて、北出丸の石垣を一つ、堀に蹴落とし、その穴に旧式の大砲、四ポンド砲を差し入れ、正面の薩摩藩兵にブッ放した。至近距離なのでタマラず新政府軍は一旦は郭外へ退却した。
士中一番隊は三の丸に戻ってそこに攻め寄せた長州藩兵も撃退した。

会津藩は一日で城下まで侵入を許してしまい、北出丸と三の丸の水際で一旦は撃退した。
三の丸は1万坪以上ある広大な郭で中に東照宮他、寺院や寺も囲っており、日新館ともども焼かれ、城下が炎上するのと遠目に併せ見て、白虎隊士中二番隊19人が飯盛山で自刃したのは午後2時頃。。。
飯盛山の士中二番隊.jpg飯盛山から炎上する鶴ヶ城.jpg
だが、ちょっと振り返って欲しいのですが、この日8月23日(新暦では10月8日)、交戦しながら城下を走った白虎武士中一番隊を追って来たが、この隊からは西村と佐久間という少年が戦死している。(※)
二番隊十九士自刃の影に隠れているが、士中で最初に戦死者を出したのはこの一番隊なのです。
ついでに言えば、白虎隊最初の戦死者は足軽隊から出ていて、白河口で戦死した森という少年がそう。
越後戦線では白虎寄合隊から4人の戦死者が出ている。佐々木、星、百瀬、小松。。。
この日の市街戦でも、足軽隊の古川という十四歳の隊士が自刃している。
上下身分の差で致し方なく、上士たる士中より、寄合、足軽の少年たちは日の光を浴びていないように思うのだ。
スーちゃんの八重ー1.jpg鶴ヶ城の雄姿.jpg
この堀の何処かに.jpg翌24日から、国境守備兵や城外部隊がこぞって帰城する。籠城戦は9月21日まで続く。
娘子軍の中野竹子が涙橋で戦死するのは25日。
八重と夫、尚之助が落とした石垣の石は、今も堀の何処かにあるという。
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飛露喜トランスポーター [会津]

平成一桁の頃、初めての「蕎麦宿湯神」でお酒をお願いしたら、大旦那は黙って「花泉」を出してくれた。
冬になって熱燗をお願いしたら黙って「国権」を出してくれた。
会津中将、会津誉、花春、会津磐梯山といった有名どころは置いてないのに気付いた。
当時は「花泉」も「国権」も「湯神」でしか飲めない酒だった。地元、南会津や伊南、伊北の地元の飲んべぇで消費されてしまう酒だったのです。

その後、数年経って、会津若松市内の甲賀町口門の裏にある「麦とろ」に「花泉」が置いてあって、そこのオヤジさんが言うには、
「花泉は南会津の酒なんだげど、蔵元が「ワガマヅ(若松)に持っでぎで置いでぐれないがって頼んだら、花泉何それ?って断られて西の方でちょっとだけ広まっだの。わがまづ(若松)のれんぢゅう(連中)は、ウヂにもいれでぐれって頼んだんだげど、はじめいぎさづがあっがらイヤダってごどわっだんだよ。会津人はそういうの忘れないの」
過去を忘れないのが会津人。それはわかるが、この「花泉」を供給するしないは同じ会津での話なんだけどねぇ。でも確かに若松市内では「花泉」の看板は見たことないし、「麦とろ」だって花泉の看板掲げてない。
行かなきゃ飲めない。
堂々たる湯神.jpg麦とろ.jpg
また数年経って、「道の駅たじま」で「花泉」の四合瓶を売ってたのを見た。
もちろん購入。買ったところでその日の夜に「湯神」か「麦とろ」で「花泉」を飲むんだけどね。
この頃も希少価値だったので、値段が幾らであろうが関係なかった。

そして数年経ったら湯野上温泉駅近くの踏切に酒屋さんができて、今度はそこで「花泉」や「国権」を買うようになった。いっつも「湯神」の前日か、飲んだ翌朝の土産です。今は宅配便でケース購入している。
店の傍の鉄路.jpg大内行のバスが踏切を渡る.jpg
店の傍の踏切ー1.jpg店の傍の踏切ー2.jpg
「花泉」の辛口も数年前までは地元でしか手に入らず、出たらすぐ完売だったのだが、昨今は在庫に余裕があるように見える。
酒店の主人は、「あっち(南会津、伊南、伊北)の飲んべぇが大分、亡くなったんじゃないかなぁ」と、トボケた口調で言っていた。
会津の酒たち.jpg酒の大群.jpg
主人と酒屋は「籠太」と提携している。
「籠太」には2回しか行ってないが、これまた有名な「飛露喜」は置いてあっても「花泉」は置いてなかたように思う。
(籠太はhttp://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-30-1他で掲載した、掲示板にマイナスな書き込みがあっても消さない姿勢の主人です。)

「千萬あるべし」は東京のスタンド居酒屋、「よしよし」でボトルキープしていた。
何処かで見たような.jpg籠太のパンフ.jpg
実はですね、今回ある筋から、酔っ払い垂涎の「飛露喜」特別純米酒を入手したのですよ。
数年前、「籠太」で「飛露喜」を飲んだ時、個性の強さに負けてしまい、「う~ん、キツいな」感じだったのだが、この「飛露喜」はどうだろうか。
提供して下さった人が言うには、「これはすぐに持って帰ってすぐに飲んでください。大事大事に飲んでください」
封を切ったら風味が落ちてしまうというのである。冷蔵庫に入れるしかない。となると、横浜には置いておけないな。この後、すぐに転勤先に持って帰らないと。。。
転勤先の事務所に送るのもどうかと思い、結局、会津湯野上から東北道を走って、途中から北関東自動車道に入り、転勤先の冷蔵庫に「飛露喜」を入れようということになった。

「冷蔵庫に一升瓶入るかな」
「入るさ。だって他に食材何にもないし」
[パンチ][爆弾][むかっ(怒り)]

「飛露喜」を積んで東北道を走る。もちろん、「花泉」や「国権」も積んでいる。
東北道の岩舟JCTで北関東自動車道に入った。そしたら唐澤山城トンネルの中でダンプが2台走行車線で停車していて、オッさんが手を振って追越車線に誘導している。
追突したばかりらしい。
私は追越車線だったが、私の斜め前、走行車線を走ってたヤツはギリギリ停車した。
「アブなかったね」
「・・・???」
後で通行止めになったという。その直前に私らは抜けた。
北関東自動車道を走るのは東北道以上に爽快だったが、東北道では外気温が高くて32℃くらい、それが北関東自動車道を走ってると上昇していく。そりゃぁ天気予報やニュースによく載る「どこどこで40℃」の地方都市を走っているから。
しまいに36℃まで上がった。
「飛露喜」が心配である。
「傷んだりしないだろうな」
「・・・」
「味、落ちたりしないだろうな」
「封を開けてないから大丈夫よ」
何だか気が気でなかったね。アタマん中が「飛露喜、飛露喜・・・」って。
こっちもスピードが上がってきた。
「捕まっても知らないよ」

マンションに直行、冷蔵庫に即座に突っ込んだ。「入った入った~」
この時、写真に撮るとまたジャン妻が激怒するから撮らなかったが、冷蔵庫ん中にはネギ1本、白菜の芯がちょこっと、シャウエッセンのソーセージが一袋、こっちで買った下仁田の刺身蒟蒻が一つ、それとマズい味噌が入ってるだけだった。
我が家の酒たち.jpgそれから横浜まで戻ったら結局大遠征になったですよ。
転勤先→(新幹線とJR)→横浜→(新東名)→船山温泉→(新東名&首都高&東北道)→蕎麦宿湯神→若松市内(麦とろでランチ)→(東北道&北関東道)→転勤先→(関越道&首都高)→横浜→(JR&新幹線)→転勤先というコース。
もう船山と湯神のハシゴはしないぞ。
戻ってから封を開けた「飛露喜」は美味かったゼ。
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夏の椿事~船山~湯神~後編 [会津]

9:00船山を出る
9:30新東名新清水ICに入る。
11:10首都高用賀を通過。
ここから先の大橋JCTから延々トンネルの中央環状線を走行し、江北JCTから川口線に入ったのが11:40だった。
11:45東北道川口JCT
13:40西那須野塩原ICを出て400号線へ。いつものルート、日光街道(会津街道)を走行して、湯野上温泉のコンビニに入ったのが15:00
15:10湯神に入る。
外の看板(書).jpg表札.jpg
堂々たる湯神.jpg内湯(熱かった).jpg
湯が熱ぃ~。
「先に入って湯を柔らかくしといてくれる?」
その間、撮影、散歩して戻ったら、「48℃あったよ」
これだから源泉かけ流しはコワい。
夜は窓を開けたら外気で冷めます。
布団が敷いてある.jpg囲炉裏と椅子と冷蔵庫.jpg
内湯2.jpg内湯3.jpg
ヒロさんトコで、ゆかりんさんから託された宿題を思い出した。
蕎麦をこねている扁額と、洗面台下の匠です。
例の扁額.jpg洗面台の下.jpgこれも匠.jpg
若に訊いてみた。
「この絵って誰が描いたの?」
「ええっと・・・」(若)
知らないみたい。大旦那に訊いてる。
「これって誰が描いたの?」(若)
「うん?」(見上げる大旦那)
「・・・」絵を指す私
「ああ、これは合羽橋で買って来たの。他の(蕎麦の)道具と一緒に」
「浅草の?」
「そう」
「旦那さんが描いたってことになってるんだけど」
「いやいやいやいや、それはないですよ~」
「じゃぁ洗面台の下の細工は?」
「あれは下郷の大工さん。レーザーで焼き切って作ったの。これもそうなんだけど(カウンターの焼酎の瓶を除けると別の匠が現れた)・・・最近そういうのやってんだって。」
「これをデザインしたのは旦那さん?」
「いやいやいやいや、それも大工さん」
廊下にある匠.jpg紫泉の書.jpg長寿庵に椅子が.jpg
絵の傍に掲げてある書、“少年の日の心を忘れたくない“に”紫泉“って銘がある。
湯野上温泉街で南の方にある民宿「紫泉」主人の書ではないか。番頭さんが2003年に泊まっています。5点満点でオール3点の宿。
番頭さんの記事http://www.ikitai.net/y/2003.11.7yunokami-sisen/index.html
最近、新しくなった宿のHPhttp://www10.ocn.ne.jp/~sisen/
そこの主人は書道家だそうです。揮毫・・・とまで言うと大げさですが、書いてもらったんでしょう。
単コロ.jpg八重の桜号.jpg
田んぼ1.jpg田んぼ2.jpg
会津鉄道運休?.jpg雲行きがアヤシくなってきた。
一転俄かに掻き曇り、滝のような豪雨に。
「湯神には雨が似合うの」(ジャン妻)
翌日、会津若松市内の「麦とろ」で聞いたら、昨日は福島県全域でカミナリ注意報だったが、市内は全く降らなかったらしい。
湯野上の雨が上がった後、夕餉の時間に会津鉄道は走らなかった。豪雨で運休になった。
運休ったって、1時間に1本走るかどうかのダイヤ。運休しないまでも合間をぬってソロソロ走れんのかな。


アヤシイ雲行き1.jpgアヤシイ雲行き2.jpg
豪雨になった1.jpg豪雨になった2.jpg
雨が上がった。
熱い地面が冷やされ、湯気が霧になって山々に立ち上っていく。そして雲になる。
雨上がりの霧7.jpg雨上がりの霧5.jpg
雨上がりの霧6.jpg雨上がりの霧10.jpg
夕餉時には女将さん登場。
女将さんったって本職は教職です。大旦那も宿を始める前は公務員だったって聞いた。公職のご夫婦だったんです。
前に書いたこの記事を見ていただきたいのですが。。。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-02-06-1
大旦那は前相談なく、いきなり宿を始めたんです。
「突然ですよ。いきなり辞めたからって。民宿やるからって。で、もともとここは畑だったの。それを潰してね。宿の図面も自分で引いてましたよ。この辺の宿は皆、部屋に風呂付いてないから付けちゃえって。私に事前に相談なんかなかったですよ。料理を習いに行きだしたのも辞めてからですからね」ってズバズバ出たのね。この時はよくぞ訊いてくれましたと言わんばかりだったが、その後で俺らは、「ガッコの先生が突然、夜は宿の女将をやらなきゃなんなくなっちゃったんだから、接客とか配膳とかって抵抗あっただろうなぁ」
「何で教師のアタシがっていうのもあるだろうしねぇ」
もちろん女将さんはこっちが無粋にこういうことを訊いたりしなきゃそういうのは絶対、おくびにも出さないですよ。で、今回も軽く訊いてみたのよ。
「まだ教師のお仕事されてるんですか?」
「はい。してます。もう少しね」
もう少し?
じゃぁその後は女将に専念するのかな?
図に乗った私は「宿のお仕事って楽しいですか」って聞いちゃったのよ。そしたら、
「ぜんっぜんっ!!」
ありゃりゃ。そーなの?
顔は笑ってましたけどピシャリと言われました。出て行く時は「言っちゃったワ」みたいに笑って出て行かれた。
御膳が来た.jpg馬刺(薄造り).jpg
胡麻油に浸す.jpg馬刺をデロ~ンと.jpg
アスパラの和え物.jpgお浸し.jpg蕎麦と山芋の和え物.jpg
蕎麦豆腐.jpg枝豆.jpg漬物.jpg
岩魚が睨む.jpg蕎麦サラダ.jpg蕎麦粥.jpg
蕎麦寿司.jpg揚げ蕎麦(巣籠り).jpgざる蕎麦.jpg
夜の街燈.jpg昔むかしの民宿ガイド本に、「自分に出来る料理は蕎麦しかなかったんです」ってあった。
蕎麦サラダ、揚げ蕎麦、蕎麦稲荷、蕎麦寿司とかのオリジナル料理は「自分で考えたみたいよ」(女将さん)
若はいつ料理を覚えたんだろう。親がやってるのを蕎麦・・・じゃなかった、傍で見てれば覚えるもんなんだろうか。
いつ、継ぐ気になったんだろう。
答えてくれるかどうかわからないけどいつか訊いてみよう。




朝霧.jpg朝湯.jpg
鯖の味噌煮かな。これが絶品だった。いつもの鱒は相変わらずブ厚い切り身。
朝餉だよ.jpg何と!!鯖味噌煮!!.jpg
キャベツの味噌汁.jpgこの厚さを見よ.jpg
晴れてきた.jpg今日も暑くなりそう2.jpg
燈台?.jpg宿を出る時、大旦那は田んぼの向こうにある鶏小屋にいた。
この宿の温泉卵は自家製です。産み立ての卵をいただいた。
珍しく父子(若干、距離があったけど)に見送られた。

宿には後継者(若)がいるしそこは安心。
いつかは若の嫁が登場するかもしれない。
お孫さんも、いつかは蕎麦を打つんだろう。

(後で若干、修正するかもしれませんが、取り急ぎUpしました。)
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会津北の防人、穴沢一族③ [会津]

伊達輝宗は桧原を抜きたい。
だが二度も失敗した。
負けた相手は蘆名の本隊ではない。穴沢とかいう山の地侍の集団である。
輝宗は「桧原~、会津~」って喉から手が出まくっているのだが、心中臍をかむ思いで永禄九年(1566)の正月を迎える。家臣たちが米沢城に新年の賀詞言上に来た。その家臣団中、敵側の桧原村と峠や山々を挟んで反対側、綱木という村の遠藤という地頭がいた。
この遠藤が知ったかぶりして言うには、「穴沢衆は二十三夜月待ちを信仰し、その夜は各家々で月待ちを務める。峠の哨戒も緩んでいて、易々と攻め入れるだろう」と。
また奇襲作戦である。

この“月待ち”ってのがよくワカランのですが、いわゆる十三夜、十五夜、十七夜、二十三夜といった特定の月齢の日に、月の出を待つしきたりのことらしい。
月を信仰する、すなわち、月に神が現れるというもの。人々が集まって月の出るのを待ち、月にお供え物をして、月を拝み、経を唱え、飲食を共にする。
子供の頃の、十五夜お月さん見て跳ねる♪はウサギ(ですよね?)だが、穴沢氏は狐が守り神だったという。狐たちと一緒に月見酒でもしていたのだろうか。
この行事は悪霊を追い払う目的もあるのだが、追い払うどころか伊達軍が急襲することになる。
桧原峠.jpg
伊達軍は正月23日綱木村に集結した。
だが集められた兵どもはややウンザリである。
これで三年連続三回目の出兵である。しかも正月明けの真冬で寒い。
あまり戦意が高かったとは思えない。
当時ならではの防寒グッズに身を固め、ゆっくりゆっくり24日未明に桧原に来た。二十三夜の月待ちで夜更かし寝入ってる明け方を急襲した。

1 金山の坑口跡
2 鷹巣の一里塚
3 水芭蕉が咲いている
4 桧原峠の境塚



穴沢衆は寝入っていた。
伊達軍はしんと静まり寝入った村の入口の民家に放火した・・・のだが、家々は2m級の深雪に埋もれており、焼けた民家は僅か二、三軒程度。
火がつかないのだ。燃やそうとしても殆どの家が雪に埋まっている。
またまた例によって段取りの悪い伊達軍だが、それでも数は一千人。火が付かないなら数で圧倒しようと鯨波の声を上げながら桧原村の中心部に突入した。

穴沢加賀俊恒と、長男の新右衛門尉俊光は眠い目をこすって起きた。
意外な日に意外な襲来で驚いた。
「何もこんな日に・・」興ざめした。
だが慌てない。
毎度のことと、新右衛門尉俊光以下80人の兵が迎え撃ち、新右衛門尉俊光自ら斬り込んで、村に攻め込んだ伊達兵20数人を討ち取ったというから、よほど膂力に勝れた剛の者だったのだろうか。
残る敵勢を木戸の外へ追い払う。
そこへ加賀俊光以下100人が加わる。敵の後続部隊が来る前に全面の敵を崩さんとする。

穴沢軍はいつものように数で劣るので、次男、穴沢次郎兵衛以下、50人の弓隊が並んで側面からまたしても強弓をスティンガーのように発射した。
さえぎるもののない新雪に突っ立った敵兵を狙い討ちするので効果絶大。
伊達軍も前回の失敗で懲りてさすがに楯は持って来た。反撃しようとするのだが。。。
寒い。。。
身が凍えている。手がかじかむ。
当たり前である。雪道を踏んで徹夜で行軍してきたから弓も刀槍も上手く操れないのだ。
穴沢衆はついさっきまでは屋内で暖を取って寝ていた。寡兵ながらも余裕の操作である。
穴沢新右衛門尉俊光の他に、一族の穴沢九郎次郎、穴沢新十郎らの新たな援軍が加わった。また来たか、生きては帰さぬと勢いで圧倒する。

この時は黒川(会津若松)の蘆名家中からも、佐藤某という隊長の率いる100人ほどの寄騎が駐屯していた。
おそらくこの厳寒の地に嫌々来ていたのであろう。佐藤某は最初は怖気づき、「撤退しましょう」と穴山加賀俊恒、新右衛門尉俊光に進言したら・・・
父子の逆鱗に触れた。
「撤退だとっ?」
佐藤某は帰る家がある。穴山衆にはここしかないのだ。
「ではヌシは何しにここへ来てるんだっ」
「だったら出るなっ。すっこんでろっ」
どやしつけられたらしい。
ところが佐藤某は、戦況が穴山軍に有利に傾いた時点で、このまま戦闘に参加せなんだのが黒川(会津若松)の蘆名公のお耳に入ったらヤバいと思い直し、遅まきながら参戦した。
穴沢父子は「こやつ、今頃になって・・・」苦笑したが、黒川からの佐藤軍100人が参戦したのを遠目に見た伊達軍の後軍は、まだ戦ってもいないのに、「後詰がいたのか」「蘆名の援軍だ」と怖気づき、敗走しだしたのである。
穴沢軍の強弓に射掛けられている伊達の尖兵は、振り向いたら後ろから付いてきている筈の後軍がいないので仰天した。逃げて行くのが見えるではないの。「冗談ではない」と恐怖を呼び起こし我先に逃げ出した。
穴沢勢は追い討ちをかける。討ち取った者の首級は斬捨てにして追いかけた。

伊達勢は総崩れで逃げていく。
ここから先はまた講談というかアドベンチャーアクションそのものなのだが、桧原村から敗走した伊達兵は一ノ渡という淵まで逃げて来た。
おそらく桧原川の上流、沢の何処かの渡し場にある淵ではないかと思われるのだが、この時、折からの豪雪で淵の上には凍った雪に新雪が積もって蓋のようになっていた。
逃げて来た伊達兵は蓋が道に見えたらしい。渕や沢が見えなかったのだ。凍っていて沢の流れる音も聞こえなかった。
雪と氷の蓋=実は渕なのだが、気付かず逃げて来た伊達の兵どもが蓋=淵に殺到したところ、雪の蓋が兵の重みでズボッと崩れ、ドーンと抜け落ち、伊達兵どもは半ば凍った渕に一斉に転落した。
極寒地の半ば凍結した淵、沢である。別に穴沢軍が仕掛けた罠でも何でもないのだが、転落した伊達兵は岸に岩にとりすがろうにも上がれず、後からやって来た兵も前方で何が起こったのか咄嗟にわからず次々と滑落した。
その振動で左手の山から新雪の雪崩までおきたというから悲惨である。
そこへ穴沢兵が追撃してくる。沢で凍え、雪崩に埋もれ、誇張はあるだろうが討ち取られた兵は200、川にはまった溺死者凍死者300人。。。
冒頭で「正月明け、月待ちの夜明けなら穴沢衆も寝ていましょう」と知ったかぶりの具申をした遠藤某も戦死してしまったそうです。

穴沢軍は三度勝った。
売られた喧嘩とはいえさすがにアタマに来たらしい。今度はこちらから米沢方面へ討ち入らんと黒川(会津若松)の蘆名盛氏に言上した。
ところが岩城左京太夫とかいうのが蘆名家と伊達家を仲裁する労を摂り、伊達家、蘆名家は和睦となった。別に蘆名家にとってはこちらから仕掛けた戦争ではないのだが、要はこっちから攻め入るのが面倒くさかったのであろう。
伊達輝宗はついに穴沢衆に勝てなかったのである。
檜原方面2.jpg檜原村.jpg
その後、数年間は一見、平穏が続くのだが、その間、天正元年(1572)、穴沢加賀俊恒は隠居し、長男の新右衛門尉俊光が家督を継ぐ。
伊達家は独眼竜政宗の時代になっている。
政宗だって桧原を狙っている。政宗は輝宗とは違って何でもやる漢。オヤジが三度も勝てなかった穴沢衆をどうするのか。
ここまでは痛快な講談そのものだったが、後編は趣が全く異なるので、いつかまた項を改めて。
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会津北の防人、穴沢一族② [会津]

桧原の地図2.jpg第一戦で大勝を得た穴沢一族は次の襲来に備える。一党の協議で一つ問題が提起された。
伊達軍を迎え撃った峠から、一族が居住する桧原村まで、防塁の地が全くないのに気付いたのである。
もっと早く気付かなかったのだろうか。それだけ険しく、敵側から見たら攻め上ってくるのに難儀な地だからともいえる。
山賊相手の頃はそれでも良かった。だがこれからの相手、伊達氏は強大な仮想敵国である。
そこで構築されたのが戸山城。



この城塞は、標高822mにある桧原湖畔から更に230m高い山上にあって、冬場には2mの積雪があるという。そんな超寒い雪山にアタリマエのように居住してたのだからちょっと理解に苦しむ一族である。よほど精神が強靭でないと務まらないだろう。
この城塞に一族が交代で詰めることになった。他は普段は麓の桧原村で居住する。
ちなみに桧原湖は最大水深31m。今は湖底に沈む桧原村から見上げたら、戸山城は260mの高さだが、磐梯山噴火で村が覆われた可能性が大なので、当時は麓から戸山城まではもっと高かったかもしれない。

伊達輝宗は会津が欲しい。桧原を抜きたい。
桧原で金が産出されるのも知った。何かいい策はないか。
第一戦で大敗した翌年、永禄8年(1565年)夏、伊達の探索方の諜報だと、桧原川(檜原川)上流から沢を迂回し、戸山城の背面から襲撃すればよいという。
だがその沢は騎馬での渡河、遡行は全く不可能だというのだ。
大丈夫かよ。
どうもまだ読みが甘いような気がする。加えて伊達軍は先年の穴沢軍の恐るべき弓術がトラウマになっている。特に先年に借り出された綱木、小野川といった国境に近い村々の兵どもにその傾向が強い。
どうせまた山岳戦になる。何しろ相手は殆ど山の民といっていい。平野部での戦闘にはならないだろう。奇襲しかない。
いつ急襲するか。
7月14日~15日は聖霊祭なので、宿下がりをして戸山城内は手薄だろうという目論見をたてた。
だが輝宗だって多くの武士の累々たる屍を踏み越えて伊達家中の惣領になっている。さすがに先祖の御霊や戦死者を弔う14日~15日に衝くのは若干の良心が咎めたらしい。
16日夜にこっそり出陣させた。徒歩兵ばかり800人です。

この時、戸山城はホントに手薄だった。
長男新右衛門尉俊光以下、弟たちや一族の殆どが、麓の桧原村、己の宿、屋敷に下って先祖の霊を祭って静かに暮らしていた。(当時の桧原村は湖中に沈んでいます)
戸山城内には親父殿、穴沢加賀俊恒以下、二十人の郎党と、婦女子のみだったという。親父殿はたまたま当番してたのかも知れない。

17日の未明に伊達軍800人が背後の尾根から襲来した。
加賀俊恒はちょっとだけ驚いた。
伊達軍の襲撃というより、城内の手勢のあまりの少なさに驚き呆れたのである。
「これしかおらんのか?」(-”-;)
数えてみたら二十数人の郎党と婦女子ばかりである。苦笑するしかない。
普通の感覚なら一旦は脱出するかも知れないが、穴沢衆は何処か牧歌的で慌てない。それと、背後の痩せ尾根に三重の堀切があり、そこに一点、800人の敵が集中してやって来たのと、伊達軍は岩を伝い、藪を切り開いて進軍してきたので、迂闊にも楯を一枚も持参してなかったのが幸いした。
新右衛門尉俊光に急を知らせる間、郎党二十人は少しも慌てず、例によって強弓をバンバン射放った。

戸山城から矢が飛んでくる。
伊達軍は困ったことに楯がないのである。ビクビクしながら木の樹に隠れて射返すが功を奏さない。城中20人対寄せ手800人はズルズル膠着状態になってしまった。

その矢戦、矢唸りが桧原の街まで届いた。急を知らせる使いも来た。
宿下がりしていた長男、新右衛門尉俊光は跳ね起きて集合をかけるがさすがに全員は集まらない。叔父の穴沢主計、穴沢新十郎以下80人あまりの郎党&百姓が集まり、戸山城の大手の山道を伝って馳せ帰る。
この時、新右衛門尉は思った。「麓から城の頂上まで遠い。駆けつけるに時間を要するな」と。
ところが叔父の穴沢主計は一族一番の馬術の達人で、他の連中を置いてけぼりにして単騎、痩せ尾根、崖道を平地を走るが如くさっさと走っていってしまった。
叔父を見送った新右衛門尉俊光は苦笑したが、80人マイナス穴沢主計=79人を山道の途中に留め、戸山城中に援軍が来たりを知らせるべく兵どもに大喊声を挙げさせる。暁の桧原の山谷に穴沢兵の堂間声が「グワァーーーッ」と大反響するのなんの。
城内は奮い立つが寄せ手の伊達軍は「もう来たのか」[たらーっ(汗)]怖気づいた。そこへ単身一騎、駆けて来た穴沢主計が穴沢一族の旗印を掲げたのを見て、恐怖した伊達兵の誰かが言わなきゃいいものを「穴沢新右衛門尉が来た」叫んだらしい。
これが更に余計な動揺、トラウマをプラスし、腰が引けたところへ馳せ帰った穴沢衆の郎党たち数人が強弓を射放ったら一発必中。
後はもう斬り込む。後から援軍も追いついて来る。城中からも岩や大木を落とす。伊達軍は尾根伝いに敗走してしまった。
新右衛門尉俊光はアタマもいい。穴沢軍は数が少ないので気がはやるのをバラバラに追わせなかった。少ない人数で追うと逆に補足されるからである。
「纏まった人数で追えっ。深追いするなっ」
キリのいいところで撤収した。
戸山城入口.jpg巌山城.jpg資料によると、戸山城は南北400m、東西200mとかなりの規模で、20人程度で到底守り切れるワケないとは思うが、20人対800人の第二戦も穴沢衆が伊達軍を撃退した。二戦二勝である。
だが桧原集落から高く、背後からの攻めに弱いのがわかったので、翌年、堂場山へ城を再構築し、巌山城として移った。桧原湖に半島のように突き出た山がそれです。
戸山城は永禄7~8年の短い期間しか使用されなかった。ところがそのことだけで、使用された年代を特定できる大規模な城として学術上、貴重な存在なんだと。
桧原湖4.jpg桧原湖5.jpg
米沢牛の「すみれ」に向かった時、桧原湖畔を走ってたら戸山城入口の看板が見つかったが、そこから先は道が無いそうです。熊も出るそうです。
「まさか入っていかないよね?」(ジャン妻)
「入らない・・・」
http://www.geocities.jp/ai05212002/に詳しいです。

だが伊達輝宗は懲りない。三度目の襲撃がやってくる。
今度は正月明けにやって来る。まさか冬場にこの地にやって来るか普通?
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会津北の防人、穴沢一族① [会津]

桧原地図1.jpg今は磐梯山噴火によって湖底に沈む桧原村に、彼らは文明(1469-1487)年間、何処からかやって来た。
一党は黒川(会津若松)の蘆名十三代盛隆の命でこの地に棲む兇族70人を殲滅。その後も盛隆の懇願により、会津と米沢の国境たるこの地の警備の任に就いた。移住したのである。
穴沢一族という。

だがここは極寒豪雪の地である。
米もあまり取れず、厳しい生活と不便さに参って、再三にわたって本領帰国を懇願したらしいが、盛隆や四天の宿老たちから、「もう一年か二年頼む」とズルズル引き伸ばしにされ、代替え地も与えられ、断るに断れず、自分らの子供らが成長していく過程で少しずつこの地がなじみ、桧原の住民になっていく。


蘆名家中は他に誰もこの地へ行きたがらなかったのではないか。
穴沢一族も結局は桧原から離れがたくなってしまい、記録に現れる四代めまで続いた。この地が好きになっちゃったのでしょう。
桧原宿と観光バス.jpg米沢街道と桧原宿.jpg
その四代目は加賀俊恒
腕に豪のある子息たちは、智謀と武勇に長じた長男、新右衛門尉俊光以下、二男~六男、太郎兵衛(強弓の名手)、与一郎、世七郎、左馬允、善七郎。
一族に穴沢主計(山岳でも平地のように走る馬術の名手)、穴沢越後(これまた強弓の名手)、穴沢丹後、穴沢豊後、穴沢四郎兵衛(要注意、重要人物)、穴沢九郎次郎、穴沢次郎兵衛、穴沢新十郎。。。
(主計は四代俊恒の弟らしい)

彼らは桧原に幾度かやって来る兇族をその度に撃退する。狭隘な山野、風雪に荒ぶ桧原で生活していくうちに心身ともに鍛えられ、山岳戦、ゲリラ戦が磨かれていく。
峰でも崖でも平地同様に歩行疾駆して強弓で矢を射かけ銃砲を放ち、平野部と同様に槍や太刀を振う彼らは、
会津北の防人と呼ばれるようになった。
蘆名家中で一風変わった特異な存在だったのである。

だが、彼らの住まう桧原から北の地、米沢に伊達輝宗がいる。
独眼竜政宗のオヤジです。
伊達は豊穣の地である会津が欲しい。南下して手中に収めたい。これまでは仙道群から会津方面を窺っていたのだが、そっちはそっちで小群雄が跋居していて面倒くさい。
米沢からストレートに南、桧原方面に狙いを定めた。
穴沢衆もそれはわかっている。国境の境峠に空壕を堀り、逆茂木を並べ、陣場の木々を切り払い、哨戒兵を置いた。米沢に密偵を送り、桧原襲来を察知し、境峠で待ち構えていた。
檜原方面1.jpg境峠は何処か?
桧原峠と見てマチガイない。現在、桧原から米沢方面へ向かう峠道は国道2号線の白布峠ですが、そこより西北3kmの位置に桧原峠とある。集団徒歩で何とか越えられるという。
(ナワさん無理しないでくださいね。)
蕎麦宿~すみれに向かった時、初めて会津~米沢の国境を越えたが凄い急坂。5月半ばでまだ残雪が残ってた。(写真)



永禄七年(1564年)雪解けの春、伊達軍が1500人で来襲した。
穴沢軍は長男新右衛門尉俊光以下500人もいない。だが穴沢軍は攻めて来るのを峠の上で待ってればいいが、伊達軍が登って来る道は悪かった。
伊達軍は初めての桧原攻めである。狭隘な山々に挟まれ、谷や沢に面し、行く手を木々や竹林が遮り、傾斜が急で馬で進軍するのに難渋した。進退自由にならぬ山道を殆ど一列縦隊で喘ぎ喘ぎやってきた。

ゼイゼイ喘いで汗だくの伊達軍は、峠の上に穴沢軍500が待ち構えていたのを見て仰天した。
だが狭い山道に後から後詰も登って来るので前に進むしかない。見下ろす側の穴沢軍が有利に決まっているのだが、ここで水滸伝並みの凄い武士(モノノフ)が登場する。
穴沢越後という人が「まずは俺に任せろ」と、伊達軍の楯の隙間を狙って百発百中、一人で二十人の伊達兵を射倒したという。
この穴沢越後という人は、飛ぶ鳥どころか、木の枝にブラ下げた縫い針も射落とすという、ちょっと信じられない弓の名手で、まるで水滸伝に登場する弓の名手、花栄クラスである。
穴沢軍は上から下へ狙い撃ちする。伊達軍は下から上へ狙うので矢の勢いが弱い。伊達軍は射返すのを諦め、楯を並べて固まってゆっくり上って来た。
もう一人凄腕が登場する。二男の太郎兵衛という人。
この人も強弓の名手で、鎮西八郎為朝ばりに放った矢は伊達軍の楯をバリンと打ち貫き、楯の内側にいた伊達兵を射ぬいた。もしくは眉間を粉砕したというから凄まじい。

ここまで矢戦ばかり。伊達軍もバカではないので穴沢軍の矢種を尽かせようとじっくり登って来たが、穴沢家の総領新右衛門尉俊光以下の徒歩兵が迂回した。
新右衛門尉俊光の別働隊は旗指物はつけていなかった。茂みをかき分けるのにジャマになるからである。
伊達兵も横合いに現れた別働隊に気付いたのだが、旗指物を挿してないので、「味方か?」「後詰か?」って思って躊躇、油断したフシがある。そしたら真横から襲い掛かって来たのでようやく「敵だぁ」と気付いたが遅い。伊達軍の先鋒が崩れる。
後から登って来る後軍とゴチャゴチャになってしまい将棋倒しになって敗走した。
主人公で真打の穴沢新右衛門尉俊光が登場するのはこの戦闘記録から。結果、初戦は穴沢軍が大勝する。伊達軍は敗ける為にわざわざやって来たようなもの。

穴沢軍の勝因は、伊達軍の準備不足、事前調査不足。それと穴沢衆は桧原の田舎暮らしで娯楽が少なく、狩りや弓の稽古に明け暮れて腕を競って賭けに興じ、足腰を鍛え山岳戦に長け、異様に強かったのではないだろうか。
不名誉な負け戦の伊達軍将校クラスは石川但馬という人らしい。
桧原湖1.jpg桧原湖2.jpg
この後も穴沢衆は二度、合計三回にわたって伊達軍の攻撃を単独で撥ね退ける。そのサマは今回もそうだが講談そのもので、笑っちゃうくらいに痛快なのである。随時ご紹介します。

だが、伊達軍の作戦も狡っからくなっていくのだ。来るなら来てみろと言わんばかりの穴沢衆の牧歌的な隙を衝いて来る。(不定期で続く)
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ある居酒屋オヤジの呟き [会津]

この居酒屋は太田和彦氏の居酒屋味酒欄第3弾に再登場した。私も2回行っている。
お店のBlogに店主自らのコメントでこんなのがあった。

『先日、掲示板に「口コミNO1が泣きますよ」と言う投稿があった。
要はこづゆの人参がゆで足りなくて固かったと言うことなのだが、このようにダイレクトに「掲示板」に書き込んでくるお客様もいる。
たまたまその時に調理場でその時に気づいて提供そのものを中止したのだが、出てしまったお客様から投稿があったのだと思う。』

私は最初、そのお客さん、その場で言えばいいのにって思ったのね。
でもその場で言えない人もいるし、その場の雰囲気を慮ったかもしれないし。

『知り合いの蕎麦屋と居酒屋は掲示板にクレームをかかれるのが嫌で掲示板そのものを削除してしまったが、私はこのような場合、あえて消さないようにしている。
お客様の満足を実現することは果てしのない旅に似ている。今までも何度かあったが、何故そのようなことがおきたのか、解決するにはどうすればいいかと真剣に考えるようにしている。』

実際、この掲示板はまだ削除されずに残っています。釈明や言い訳もせず敢えてそのままにしているのは、店主が時折これを見ては自分を引き締めているからでしょうか。

『こんなクレームもあった。
何年か前に用事があり、わずか1時間店を開けたときにお店が大混雑し、翌日、掲示板に、「がっかりした、焼き鳥を注文したのに何故30分もかかるのか」と投稿があった。
それ以来どんな誘いにも会議などの用事にも一切店を空けることをしなくした。』

私はこの店に2回行っています。一度はお祭りと重なったので満席だった。焼き鳥に30分もかかんなかったですよ。
狭はく無い店だが、料理は郷土料理と若干の創作料理で纏まっているので普通はそんなにかかるとは思えない。
店主一人で営っている店ではなく、スタッフも数人いるので何か連携ミスかアクシデントでもあったのだろうか。

最後に店主はこう結んでいます。

『クレームは貴重な改善の情報だ。
中には聞かなくていいようなものもあるが、ほとんどは自分たちのほうに問題がある場合が多い。
終わりのない旅は今日も続く。』

う~ん。。。
ちょっと唸った。

ネット情報が氾濫する今の時代は利用する側にとっては情報量が多くて助かる反面、店側、宿側は何を書かれ何を言われるかわからない側にある。
言われた内容にもよるし、店(宿)と客との相性(合う合わない)もあるので一概にはいえないけど、クレームは貴重な改善の情報。。。こうして襟を正す居酒屋のオヤジってそうないと思う。

何て店かって?
この店です。
籠太2.jpg籠太3.jpg
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都庁のあかべぇ [会津]

高速エレベーターで南北の塔の乗り換えルートや各階止まりと直行の区別がよくわからない都庁へ公用でよく行く。行き先は決まっている。支店の高度管理医療機器販売業の許可申請並びに変更届出等で東京都福祉保険局に行く。都庁の40階。最上階に近い。
都庁前駅.jpg都庁.jpg
最上階だけに、震災後の節電時はエレベーターが半分稼動せず、都庁前駅からのエスカレーターも全く稼動していなかったので辛かった時がある。階段は長いしエレベーターは混雑するし。石原さんの言う事もわかるけどちょっと何とかならないかなぁって思ったもんです。
お役所グルメで都庁レストランも企画したが実現に至っていない。
高速エレベーター.jpg都庁の食堂.jpg
この40階の受付に先日行ったらあかべぇがいた。小さいあかべぇです。
都庁のあかべぇ1.jpg都庁のあかべぇ2.jpg
届出はすぐ受理され、その後で、
「あのあかべぇはなんです?ここ福祉保険局さんが会津を支援してるのですか?」
って期待しながら訊いたら担当官は怪訝な表情。
「ああ、あれね。あれはそういうわけではなく、好きな誰かが置いたんじゃない?」とのことでした。
ツマンねぇ回答だな。期待して訊いた俺がまるでバカみたいだったが、いるんですねぇ好きな職員さんが。
書類をカバンに片付けながら写真に収めました。私が置いて撮影したんじゃないですからね。
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去り難き冬の会津 [会津]

湯野上温泉駅舎2.jpg煙いゼ.jpg
煙い湯野上温泉駅の待合にいると目が痛のと、服や髪に煙の匂いが着くので私は外で待ちます。
髪じゃないだろ頭皮だろって言ってるのは誰っ!!Pさん??

後から来たオバちゃん軍団が言う。
「猫いないの?」
いるわけねぇだろってセセラ笑った。
「猫はね。ここじゃなくてこの先、芦の牧温泉ってとこ」
女性駅長さんが優しく返してました。
こういうオバちゃん軍団は猫がいたらいたでいじくり回すに決まってる。
ばす駅長も大変だ。

会津田島方面への単コロが来た。
ゆめぐり物語.jpg単コロ.jpg
車窓からの沿線風景をちょっと。
一瞬で湯神を通り過ぎる。今頃は清掃中でしょう。
車中から見た湯神.jpg沿線風景1.jpg
沿線風景2.jpg沿線風景3.jpg
沿線風景4.jpg沿線風景5.jpg
沿線風景6.jpg沿線風景7.jpg
沿線風景8.jpg沿線風景9.jpg
沿線風景10.jpg沿線風景11.jpg
昨日「鴫山城祭りで大国実頼なんかより長沼盛秀をアピールしろよ」って言いたかった会津田島駅では待ち時間があるので一旦改札の外へ出た。
さらば鴫山城.jpgバイバイ単コロ.jpg
田島駅構内1.jpg田島駅構内2.jpg
さぁ東京へ帰るぞ.jpg「お義母さんへのお土産はいいの?」
そうだった。ジャン母への土産を買わないと。
だがジャン母はこんなこと言ってた。
「もうカレーはいいわ」
甲州ワインビーフカレーや米沢牛ビーフカレー、飛騨牛カレーに飽きたんだと。
でも私は土産物を買うのにあれこれ悩んだりしない。酒か蕎麦かカレーです。自分が好きなものしか買わない。カレーや蕎麦って簡単だし。
会津カレーと会津地鶏クリームシチュー、裁蕎麦を買った。「土産は蕎麦でいいや」って思った。
「カレーは?」
「ウチで喰う」
「まだすみれのカレー残ってるんだけど」
「だったらそっちを早く出せよ」
ジャン妻は土産ものでカレー、うどん、蕎麦、ラーメンなんかを買うと、「これでいざとなりゃ大丈夫」って安心するらしく日常ではなかなか出そうとしない。ド忘れしていっつも期限ギリギリになる。
ジャン母もジャン母で、「もうカレーはいいわ」って言うから蕎麦を買ってったら買ってったで、「お蕎麦は茹でなきゃなんないじゃん」とかヌカすんですよ。茹でるのが面倒なのか。
後日譚になりますが、電話で一応、聞いたんですよジャン母に。「土産は蕎麦とカレーどちらがいい?」って。
そしたら「両方!!」
「カレーもなくなったのよ。カレーならご飯炊けばいいし」
飽きたって言ってたじゃんか。仕方が無いので全部あげました。
裁蕎麦.jpg会津のカレーたち.jpg
この先は鬼怒川温泉駅での待ち時間でも何も食わなかった。
雪がどんどん消えて行く。
さらば会津1.jpgさらば会津2.jpg
処理済~会社からメールがたくさん。。。.jpg会津から離れて行くにつれ現実、日常に帰って行く。というのは今日は月曜なのもあって、ジャン妻には20通件、私には6件のメールや携帯着信があった。
(何故かジャン妻の方が件数が多い)
内容がアホらしいのもあってだんだんジャン妻の眉間が険しくなってくる。
新藤原駅で2両連結する。下り方面の東武線が遅れ、その到着を待った関係で野岩線も遅れたので、列車交換でちょっと待ち時間があったのだが、
「出たよJR。遅れたのはどうせ新宿駅発でしょ」ってジャン妻が罵り始めた。
「だから浅草発の専用線だけにしなよって」
まだある。
ジャン妻は東武の指定席(東武だけではないが)が、車内ガラガラでも一つ車両の真ん中辺りに乗客を集中させるシステムが嫌いで、湯野上温泉駅で「席を離してください」ってねじ込んだ。
「では何処か座席を指定してください」
「後ろの方」
って言えば離れるのが可能なのがわかった。気持ち、車両真ん中の集中スポットから離れただけだが、そうやって言う辺りはさすがにやり手のオバちゃんである。

雪が消えた。
どんどん現実に立ち戻って行く。
次回の会津行は春を予定しています。ちょっと散策したいルートがあるので。くるまですな。
(結局この日のランチというか、夕方早い晩飯は、川崎の丸大ホール本店になりました。)
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