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ディープな階段 [隠れ郷土史]

この写真は2005年のもので、鉄砲3000丁三段撃ちの場所、設楽原と、その前哨戦、長篠城。
この頃、私はまだ髪があったし、ジャン妻も若くて細かった。
処理済~設楽原古戦場の馬防柵とジャン妻(このころは細かった).jpg処理済~長篠城のジャン妻(このころは細かった).jpg
この長篠城を死守した奥平という城将の祖先が上州のさる場所にいた。それが下左の写真。
市の案内板はしっかりしていた。だが奥は藪、藪、藪で、それほど奥深い山でもなく広大な敷地でもないのに四方が藪で外界が見えず、賢明な方は「行くの止~めた」って途中で断念する。
だが、止せばいいのにどんどん奥にハマって行き、自分が何処にいるのかわからずパニックを起こし、あわやプチ遭難しかけた人もいるという。

私も偶然、この前を走っただけで奥には行っていないが、この城の“詰めの城”(緊急時に立てこもるか、最終手段の城)がここから800m先にあるのを知ってしまった。それが下右の写真。
そこは比較的コンパクトで、麓の道から本郭まで階段で一気に登れるという。
長々と歩かなくても済みそうだったので行ってみた。。。が。。。
奥平城遠望.jpg詰めの城、馬場城.jpg
舗装されているけど道が細くなり、船山温泉前の林道みたいに川に沿った農道、林道を走って行くと更に道がどんどん細くなっていった。
停める場所を探してウロウロしてたら林道の基点があった。
馬場長坂線というこの林道は、どうも何者も道に入った形跡がなかったので「いいやここで」って停めた。
林道基点.jpg林道に入る1.jpg
この林道、地図を見ると、城山をぐるっと回ってるが、実際は廃道状態である。
長年、荒れた風雨に曝して手入れしないとこうなるのかといった林道だった。
林道に入る2.jpg林道1.jpg
林道2.jpg薄暗い林道.jpg
ジメジメした足元を踏み踏み緩い坂を上って行くと、薄暗い曲がりの左にアヤしい階段があったのです。
薄暗い登り口.jpg近づいてみる.jpg
事前にわかっていたのは、道なき道を登ったり、ロクに整備されてない散策路を延々と歩く必要は全くなく、この階段を登れば一気に主郭にたどり着けるということ。労力は少なくて済むハズだった。
だが、この階段が問題でして・・・
まず、暗い!!
晴天下、昼間なのに凄くダークな階段なのだ。
階段1.jpg階段4.jpg
段数が多い。
何段あるんだろう。数えながら登ってみたが、途中で何段かわかんなくなっちゃった。
神社の参道じゃありませんよ。何の苦行かわからないが、最後まで行かずばなるまいて。

ボロい。
濡れた落ち葉が積もって滑りやすい。
バリッと足元が崩れた。崩れたというか、板で押さえていた階段が割れたりした。ところどころ劣化しているんです。手すりもさびている。
階段2.jpg崩れた階段.jpg
こういう時、片手にデジカメを持ってると足元に神経が集中しないので危うい。なので写真は少ない。階段なのもあって体が上下に揺れ、後で見たら写真は殆どボケていた。
この階段は作った時は手すりがなかったらしい。後年、誰か滑落したのだろうか。
登ってみたら。。。.jpg藪藪藪.jpg
頂上主郭は荒れ放題。
不良がタバコやシンナーでも吸うにはカッコウの場所である。
錆びつくして皆目読めない説明版があったがさっぱり判読できず。。。
ジメジメして暗い。木々に遮られて眺望も全く見えない。
資料によると、この東側に1条、西から北にかけての尾根に2条の堀があって、主郭のまわりには腰郭もあるそうだが確認しなかった。

ここ、馬場城にいた奥平氏は、前に載せた寺尾城に籠もる尹良親王に従い、南朝方として寺尾城の南側、吉井方面の守りを固めていた。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-07-08-1
後に北朝の上杉憲定の圧力に耐えられず、ここ、奥平郷を棄て三河に移り住む。
長篠城を死守して徳川氏に従い近世大名へと転身した。
そこは後世、メデタシメデタシだが。。。

帰路が大変だった。
こういう階段は登りより降りる方が危ういもの。慎重に慎重にゆっくり降りる。余り得るものはなかったので拍子抜けしてるのでアブない。
結構、急な階段で、腰郭とおぼしき脇から水が流れた跡が確認できたので、この階段、豪雨の時には滝と化すのではないだろうか。

風化した碑の側には民家が数軒あり、切り干し大根を作っていた婆さんと目があって私は目礼したが、婆さんは無表情で何も返さず。何処のアホが来たかという表情であった。

後で見たら写真は殆どがボケボケだった。
登り口だけ撮影しなおそうと再度、行ったんですが、どうしても上手く撮影できなかったんです。
もうあのクソ階段を上る気もサラサラ起きず。
馬場城遠望.jpg馬場城縄張り.jpg
ナワ~ルドさんの銘が脳裏に浮かんだ。「無理せず撤退する勇気も必要」ってね。
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里見に眠るもの [隠れ郷土史]

晩秋から冬、師走に向かって時が流れていく。
先だって、秋間森林鉄道社長からコメをいただいたのを機に久々にこの橋台を思い出した。
里見五号橋台です。
橋台1.jpg橋台2.jpg
過去記事。長いけど。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-26
この橋台が里見軌道の跡という確証は得られていない。何処かに隠れてるであろう残りの3つの橋台散策は、むせ返るような草いきれの夏場以降は一旦、打ち止めになっています。
枯葉が舞って草が枯れる季節になってきました。夏場よりは散策し易くなる筈。機会を狙って探しに行ってみようかと思ってます。

何も語らない第五号橋台。
見てると何故か落ち着くんです。明治からここに建って、君は何を見てきたんだい?
第五.jpg明治43年.jpg
「この道は昔は農道だったの。農道の土崩れを防ぐ為のものじゃないの?」
と言ったのはこの近所で出会ったオバさん。
引き止めても悪かったので「ああ、そうですか」で別れたけど、土崩れを防ぐ構造ではないでしょう。決まった幅だけ垂直に迫り出してるし、間違いなく橋台です。
残り三基の橋台、せめて一つだけでも来年の春までに見つけたいものです。

ここから程近いところに、もう一つ、「草が枯れたら行ってみよう」と思ってたところがあって行って来ました。
里見城跡看板.jpg里見城本郭.jpg
ここに里見氏がいた。
何処かで聞いた名前?房総半島安房、南総里見八犬伝の里見氏の祖?

新田氏の初代で義重という人、この人は頼朝の旗揚げにすぐに馳せ参じなかったので不興を買い、後年の義貞に至るまで足利氏との差がついてしまうのだが、その義重の三男、里見義俊から出ている。
そこから何代目かわからないが、八犬伝に出て来る里見義実は永享12年(1440年)4月の結城合戦で結城城に籠城。陥落時に脱出。安房に落ち延びて後年起死回生。房総里見氏の祖に。

じゃぁこの里見城はどうなったのか。終焉は信玄の上州侵攻時だそうです。その頃まで里見氏の誰かがいた。
南総里見八犬伝の序章は、前述、里見義実の、安房入国にまつわる伝説を題材としているのだが、この地から結城合戦で籠城し、落城時に脱出し、後年、安房で興した。
ここ里見地域には戻らなかったのだろうか。

里見城は里見川に面した小高い段丘上にある。
巨大な鳥居が目印。この鳥井の背後、墓地の奥に方形の郭があって、夏場に行ったら草ぼうぼうで蛇でもいそうだった。
先日、行ったら草刈がされていた。
草が刈ってある.jpg説明版.jpg
奥に民家が一軒ある。
居住しているかどうかはわからない。でも廃屋ではないようです。
もしかしたら中から俺を見ているのでは。得体のしれない闖入者と思ってるのではないか。
墓地があり、廃車があり、何ともいえない気持ちになった。
誰かが俺を見ている。。。?

夏場は踏み込めなかったのだが、西南部には高い土居があった。
西南の土居1.jpg西南の土居2.jpg
西南の土居3.jpg西南の土居5.jpg
里見橋台の散策中に、ある地元の人に訊いた時、この城についても聴取したら、
「こっちの人は、こっちが里見さんの発祥地だって言ってる」
「じゃぁ房総の人は?」
「向こうは向こうで、こっちが本家だって言ってる」
どっちでもいいみたいですね。
草が刈ってある2.jpg橋台3.jpg
里見軌道未成線とこの城跡は、途中、県道で分断されているけど、地形上は同じ地続きの丘陵になっている。
里見城の何処かに里見軌道は予定されてたと思う。だが今となっては何処の位置か特定できない。軌道敷設に至った確証はないし、それらしき跡があっても、それは近年の農道でしかないかも知れない。

里見八犬伝は8騎で里見橋台は5基か。。。
来春までに八犬。。。じゃなかった。。。発見できるだろうか。。
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新島襄さんはこの家に住んでいたか? [隠れ郷土史]

これまで伏せられてた新島襄の配役が発表されましたね。
オダギリジョーさんだって。
襄とジョー?ゴロ合わせみたい。
その新島襄さんの旧宅があるのは、私が小学校のガキに「お坊さんだぁっ」って叫ばれたの安中市。悪かったなお坊さんで。
安中市には新島襄旧宅と、旧宅条例というのがあって、第3条に、「旧宅内に新島襄記念館を設置し、新島襄に関係ある記念品を展示、保存するものとする」
旧宅には八重さんともども、遺品や関係書類、写真などが展示されていた。いろいろ保存してあった。

入館料は無料だが、展示、保存するからには管理人さんがいる。管理人さんは定年を遥かに過ぎた爺さんだった。
庭を掃き掃きしてたその爺さんは暇なのか、俺が頼んでもいないのにスリスリ寄ってきて、説明してくれた話の中に、えっ?って思う談話があった。
「この屋敷に新島先生が滞在してたのは3週間かそこらじゃないかな~」
邸宅と桜の木.jpg管理人さんがいる.jpg
襄さんは長男だった。
幼名は七五三太、元服後の諱は敬幹。
お父さんの新島民治さんは安中藩祐筆を務めていた。母の名は登美さん。

新島襄さんの業績については他に譲りますが、襄さんは天保14年(1843年)、江戸神田、一ツ橋にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で生まれたので、ここ、国許の安中ではなく、江戸詰めだったのです。
なので、この邸宅は新島襄さんの旧宅ではあるが、生家ではないのだ。
別角度から.jpg裏手から.jpg
江戸で生まれた新島襄さんはそのまま外国に渡航してしまったので安中に住んだことはないらしいのです。
アメリカから10年ぶりで帰国して、安中のこの家で両親と再会した。

江戸で再会しなかったのは何故か。
廃藩置県で江戸藩邸が解体されたからです。江戸藩邸、屋敷、長屋が解体され、新島襄さんの両親他、江戸詰めの藩士は安中に戻るのだが、その引き揚げ藩士たちの為に独立した家屋を4棟、長屋12棟を建設した。建設資材には、廃止された碓氷峠関所の長屋が使用されたと言われている。

独立した家屋は上級藩士に与えられたと思う。安中藩は三万石の小藩で、家老クラスの禄高でも数百石程度だったそうだが、新島家は祐筆だったので、藩内の機密文書みたいなのも代筆したかも知れないが上級藩士ともいえない。独立した家屋ではなく、今ある二軒長屋の東側に住むことになった。
なので、この邸宅が建てられたのは明治維新後です。もともと新島家のものではない。廃藩置県後に作った一時的な仮住まいのように思えます。

新島襄さん本人は廃藩置県前に外国に行っている。それをを知ったから帰国したのかも知れないが、戻って来たら安中藩はおろか、諸藩がなくなってたので安中に来た。この屋敷で両親と再会した。
でも滞在したのは三週間ほどで、同志社大学設立やら何やらで京都で暮らすようになる。両親とも京都に呼び寄せた。

この邸宅は、新島家が京都に行っちゃった後、他の人の手に渡り、昭和には空き家になっていたのを昭和38年、安中市がもともとあった場所、新邸公会堂の辺りから数十mほどズルズル移動してきて現在の場所に移築再建したというわけ。
座敷.jpg床の間.jpg
新島襄さんの家系、祖先は、安中の地の出身なのは間違いないが、新島襄さん本人にとってゆかりの地であるという位置づけは極めて薄いように思います・・・と言ったら安中人はガッカリするかもしれないが。
正確には、新島家父母の旧宅かもしれない。
側に近付いてみる.jpg庭から.jpg
この襄さん旧宅に行くには、小さいとはいえ城下町なので道が細く、クランクになったりして非常にわかりにくい。曲がってばかりいる。

新島八重さんも四回ほど安中を訪れたという。
私は八重さんについても今のところは会津時代しか興味がないのだが、もしかしたら来年のドラマは会津落城を境に、前半部と後半部に分かれるのかも知れないね。
だけど、ここ安中が一挿話でも登場するかどうかはわからない。管理人の爺さんも「ここでは撮影しないんじゃないかなぁ」「登場しないかもなぁ」なんて仰ってた。
来年のドラマの設定次第ですが、襄さんが外国に行ってた場面が並行して描かれれば両親との再会シーンもあるかも知れない。襄さんは幕藩体制崩壊を外国で知ったと思われるので、異国の地で両親を心配しただろうからね。
一話一話の終わりに、紀行めいたコーナーがあるから、せめてそこでちょっとだけでも取り上げて欲しいもの。
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信玄がやってきた。 [隠れ郷土史]

寺尾五城の位置関係(カラー).jpg初夏に登城した連郭式の寺尾中城(※1)で懲りたので、その近くにあるヒジョーにコンパクトに纏まった軽~い山城に登城した。
寺尾茶臼山城。
団地と隣り合わせなんです。
この団地の住民が、草ぼうぼうの荒れ地だったのを整備し、階段、登頂口を設け、案内板を立ててくれたそうです。
でもここは団地だけで商業施設がなく駐車場は皆無。止む無く路駐しました。
もちろん路上駐車禁止ですよ。事前に小さい城だってことはわかってたので、サッと行って来ようと。




登り口はこんな感じ。丸木の階段がある。
これも団地住民の有志が整備された。
正面の山.jpg傾斜はこんな感じ.jpg
登ってみる。足元はしっかりしています。船山温泉の裏手の丸木階段よりしっかりしていた。
草等がきれいに刈られてるのはいいけど、階段を登る俺は背後の団地の住民から丸見えです。ハゲ山を登る黒いハゲ中年が黒い点になって見えるに違いない。
一段一段。。。.jpgもうちょっと・・・.jpg
単郭式です。
私は一見して、これは烽火台、物見だなと。限られた数の兵が退屈しながら交代で番をしてたんだと思う。
標高170m、比高30m、東西40mもなく、南北50mの長方形です。四角い方形の郭が一つあるだけ。前の寺尾中城みたいに山の峰に郭が連なってるワケじゃない。
本郭(単郭).jpg低い土塁.jpg
あっさり見学終了。堀切や横堀もある単郭方形でコンパクトなスタイルです。城山団地から上ると比高差約30m。残存状況も良く、藪なも少なく刈り取られ、観察、確認も容易でした。
堀切を上から.jpg堀切を横から.jpg
その先の堀を上から.jpg堀に降りてみる1.jpg
堀に降りてみる2.jpg解説版1.jpg
現地には新しい縄張り図付の詳細な解説板も設置されてま~す。

誰がいたのか。
鎌倉時代にいたのが新田義重、「義重公様御在城南上州寺尾村茶臼之城」(新田勤皇史)
南北朝時代、新田義貞の弟、脇屋義助。(大河内家文書)
室町時代、「正長年中(1428年頃)和田小太郎寺尾茶臼山城起也」(新田実録)
和田小太郎って誰?

戦国時代、ここへ信玄が餓狼みたいにやって来た。
「永禄八(1565年)年山名城と鷹ノ巣城(寺尾茶臼山城)間に新城(根小屋城)を築く」(甲陽軍鑑)
単郭方形だから、お世辞にも長期間守備できる縄張りじゃない。南からやって来る北条軍迎撃に弱いので、ここから南、商科大学付近にある山名城との間に防衛ラインを強化、新城(有名な根小屋城)を作った。
武田軍はこの地にやってきて一帯を荒らしまわる。それは後述するが、路駐が気になるので急いで戻った。あの

丸木階段を下る。
路上に停車して俺のくるまが見える。
振り返ると・・・.jpg寺尾中城方面?.jpg
そしたら駐車場にお揃いの防止を被ってた老夫婦が散歩していて、俺がいる山を見上げてるんです。じーっと見てる。

処理済~老夫婦.jpg何をじーっと見てやがる?(-”-;)
老ご夫婦は「何者でしょうね」みたいな会話をしたに違いない。悪気はないんだろうけど私を見るお年寄りの視線は険しくないまでも訝しんでる気配は遠目に感じられた。
彼らは私が路駐した道路側から歩いていた。私を路駐車両の所持者だと気付いたに違いない。だって他に人はいないからね。
←それがこの老夫婦です。
何でしょうねこのおソロのグリンキャップは。何かの見回りだろうか。

茶臼山城の階段.jpg寺尾茶臼山城縄張り.jpg
私は速足で戻った。
造成された団地と隣り合わせの不可思議な場所だった。
左の図、団地と隣り合わせに山があって、そこに階段が描かれてるのがわかりますか?

前述のように、信玄がこの地にやって来て、小さい抵抗勢力を力と数でねじ伏せた。
従った者にはともかく、僅かでも抵抗した地域にはロクなことをしていない。
私が知ったのは、巨大餃子陽気軒のある辺り、塩川の菅沼という領主が抵抗したが敵せず陥落(※2)と、(※3)に載せた多比良という小領主(長野業政の従弟)が、「信玄なんかに上杉家の家宝を渡せるか」、全て余さず焼き払って一家もろとも全員自刃、信玄も町屋や普賢寺という寺院を焼き払う。
焼き働きしてた信玄以下、甲州軍がいた陣城がこれ。天久沢陣城 公園になっています。
天久沢公園(陣城).jpg陣城の壁.jpg
信玄は甲州軍団をゾロゾロ引き連れて永禄6年(1563年)にここに兵馬を駐屯させた。
だが兵糧に困ったらしい。信玄は今はない延徳寺という真言宗の寺の僧侶に兵糧調達の依頼をした。依頼というよりも恫喝であろう。
だが寺側は返答をしなかったので、怒った信玄は延徳寺を家財もろとも焼き払うという暴挙に出ている。
兵糧その他は強奪したに決まっている。焼き払うついでに寺の屋根瓦が銅瓦だったのを奪って甲州に運んで何かに転用した。やってる事が強盗に等しい。
強奪した兵糧はこの地で兵卒に支給したが、この地で信玄の愛馬が死んだ。その馬の名前が天久というそうです。
自分の馬には哀憐の情を示す信玄。情けは味方、仇は敵を地で行っている。

この陣城は公園になっているのだが、行ってみたら「猪が出たので立ち入り禁止」とあった。黄色いロープが張ってある。
ありゃ?.jpgここもかい?.jpg
それでも散歩している怖いもの知らずの老夫婦が一組いましたよ。また老夫婦かというわけではないが、ちゃんと張り紙見なかったのかね。
猪は凶暴なので近づかないでください。発見したら通報してくださいみたいなのもあった。

陣城からの眺め.jpgだが、猪ぃ?
冗談じゃぁねぇ。私は船山で猪肉を喰いまくっている。
私を見たら感づいて、同胞の仇とばかりに襲ってくるだろう。

「つくし」の若旦那が言っていたのは、「猪ってのは直線的に向かって来るので、サッと真横へ逃げればいいんです」両手を広げて厨房をカニみたいに移動しながら教えてくれた。
公園だからいきなり正面から出くわすってこともないだろうけど。一応、警戒はした。

付近には住宅もある。そこまでロープは張ってなかった。
住んでて、家の近所を猪が徘徊してたら落ち着かないのではないか。それとも慣れっこなんだろうか。
市か県の職員もパトロールしていましたね。

9月某日、この陣城が猪の為立ち入り禁止が解けたので行ってみた。
黄色いロープは外れてたけど、猪に注意の表示はアチコチにあった。
その後1.jpgその後2.jpgその後3.jpg
まさか出て来ないだろうなと警戒しながら公園中央の最高所まで歩く。
公園中央まで歩くと信玄の愛馬天久の説明版と、お堂があって、馬の好物がお供えしてあった。
信玄愛馬の堂.jpgにんじん.jpg
天久沢陣城縄張り.jpg軽自動車がもう1台停まっていて、運転席から笛の音が聞こえてきた。夏祭りの囃子の一節だった。
まさか笛の音に誘われて猪が出てはこないと思うけど、陣城を降りる前、左手の雑草、獣道に何やらイカメしいものがあったぞ。
猪を獲る罠らしい。
罠に入ってたらどうするんだろう。
脳裏に船山の猪鍋が浮かんだ。
信玄は猪鍋を食べただろうか。ほうとうを入れて。。。





陣城解説版.jpg罠.jpg
(※1)http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-07-08-1
(※2)http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-07-2
(※3)http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-04

もう一譚。
昨日の記事、天守閣の解答です
この辺り一帯、南方面に望見されるのだが、こんなのがある。
なんだろう1.jpgずーむ.jpg
なんだろう?
遠目に見ても天守閣らしいのだが、怪しげな宿泊施設?秘宝館?
そうではないらしい。想像するだに公園の模擬天守ではないか。

この山は郷では牛伏山と表示されている。(なので、昨日のコメはチエさんが正解ですね。)
その名のとおり、牛が寝そべっているような峰々で、模擬天守は標高491mの牛伏山東峰にある。
西峰は金毘羅山、東峰は一郷山。再現された天守は一郷山にあり、西のNHK鉄塔のある峰より低い。そんなの縄張としては通常ありえない位置です。

比高差は200mあるが、細いながらも自動車で登れます。
ゲートがある。
青少年非行防止云々で夜は閉まるらしいです。
GATE.jpg青少年非行防止?.jpg
10分ほど登ると。。。
舗装された山道.jpgやややっ!!.jpg
何故こんなところに近世の模擬天守があるのか。
て、天守閣?.jpg何故に天守閣.jpg
一郷山城というそうです。
やはりこの山にも信玄と甲州軍団が押し寄せてきた。(※3)で信玄に徹底抗戦して玉砕した多比良氏の配下で、安部中務尉之友という大将が500騎の手勢で守った。
攻城軍の将は船山温泉近くにもいた穴山氏。この時は穴山良友という人。
安部之友は大木や大石を投げ落として防戦するが、穴山信良は集落の溜水を切って水の手を絶ち、麓にあった安部氏の菩提寺、見銘寺を焼いた。
よくよく寺を焼く軍団ではある。
その火は一郷山の山上まで燃え広がり、建物は灰燼に帰した。城兵は全滅。之友も戦死。婦女子は断崖から身を投じた。

甲州軍はよくこんな山上へ攻め上ったものである。
模擬天守が悪いとは言わないが、こんなのが当時あったわけはない。あったら信玄も仰天するだろう。

再現するにしてもありもしない模擬店主を再現して顰蹙を買うケースって少なくない。
案の定、マニアのサイトでの評価は散々で、「模擬天守を建造するために遺構を破壊した最悪のケース」、「まったく史実に従っていない」、「貴重な遺構を破壊した偽造天守閣」、「史跡破壊と税金浪費の象徴」、「当時、こんなのがあるわけがない」徹底的にコキおろされている。
私は史跡破壊がどうとかこうとか言うつもりも全くない。自分でも案外とそういうのってドライなんです。荒れ地やゴミ捨て場になってるならいっそ開発された方がいい思う時すらある。

山上からの眺望だけなら素晴らしいものがありそう。
この日は靄で霞んでいたけど、冬場の晴天に恵まれれば妙義山、浅間山、榛名山、谷川連峰、赤城山、日光男体山、筑波山等が一望のもとに見えるそうです。
説明版.jpg眺め.jpg
ただ、この辺り一帯にはクマも出るらしい。徒歩でもいけなくはないが、行かれるならくるまの方がいいです。
一郷山城縄張り.jpg模擬天守の中には何があるかというと。。。
ガランとした無機質な空間に、町の物産、酒の瓶が所在無げに置いてあるだけだった。
撮影する価値も見いだせなかったので無視。
公園内にはクローズしているあずま屋みたいなのもあった。
市のくるまも停まってたし、天守閣の内部には男性の声が二人聞こえたので職員も在駐しているらしい。
それを無駄とするか、必要最低限の人件費と思うか。


公園内には一組だけ老夫婦がいたけど、他は誰もいなかった。風が心地よかったね。
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何城でしょう? [隠れ郷土史]

て、天守閣?.jpg天守閣?
何処のなんて城?
当ててみてくださいな。
何も出ませんけど。

解答は明日以降に。
今日はこれだけだよ。。。(^^;v
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拝啓、関東管領さま。。。 [隠れ郷土史]

地方の名もなき小豪族とは違う。
一応は名門で、それ相応の兵力、動員力を持っていたのだが、戦国一番か二番に弱い将、関東管領上杉憲政の居城として有名なのがここ。
復元土段3.jpg復元土段2.jpg
平井城は鮎川に望む比高10m程度の断崖の上に構築されている。
公園化され地図にも掲載されている。県道173号線を藤岡方面へ走っていると、民家の脇に関東管領の幟がチラホラ立っていて、突然、道路の脇に巨大な土盛が見えてくる。
関東管領幟がパタパタはためいている。
だが、ここにいた人、上杉憲政は、生涯を通じて北条氏康に一度も勝てなかったのだ。
復元土段1.jpg土段の上1.jpg
土段の上2.jpg土段の上3.jpg
それなりに整備されている。いかにも復元されましたみたいに見えるがそれはご愛嬌。
だが。。。
くるまから降りたら、牛、家畜の臭いがもの凄いのだ。この城は公園化されている部分と、牛舎となっている部分と、民家、住宅地になっていて、鼻をつまんで牛舎近くまで歩かないと説明版が読めない。
息を止めながら見入った。
説明版の数々.jpg公園案内図.jpg
牛舎側にも言い分はある。
間違って牛舎に入ってしまう人が少なくないようで、「牛が感染症にかかると困りますので内部に入らないでください」という看板が立っていた。

本丸には後から付け足したような碑がたくさんあった。
中には関東管領を偲んだ歌碑などもあった。地元の人には悪いが、それほどの人かよ?って鼻白む私。
碑1.jpg碑2.jpg詰めの城方面1.jpg
詰めの城方面2.jpg説明版.jpg三の丸表示の杭.jpg
この牛舎の裏に復元?された堀と、それに架かる中途半端な木橋があるのだが、そこにも別の牛舎があって、私は牛さんと目と目が合ってしまった。牛さんは暑そうに寝そべっていた。
城内に牛舎があるように見える。思わず吹き出す。「ここの城主は牛かい?」って。[わーい(嬉しい顔)]
土橋1.jpg土橋2.jpg
梁だけ復元してある。
何故か桁がない。うっかり渡ろうものならおっこっちゃうじゃんか。
復元橋1.jpg復元橋2.jpg
復元堀1.jpg復元堀2.jpg
今は住宅地と牛の城?だが、もとは関東管領の城だけあって、広く大きい構えを持っていたでしょう。
この城塞や、関東管領に纏わる諸般の乱の経緯はかな~り複雑で、鎌倉公方、古河公方、足利氏、山内上杉氏、長尾氏、扇谷上杉家氏が、内紛を起こしながら絡んでいて一回二回読んだだけでは到底理解できない。私も未だに把握していないし、まさか間違ってドラマ化したら、平清盛以上に視聴率が悪いのではないか。

それでも小田原の北条氏が出て来てからは、敵の敵は味方のような構図になってやや明瞭になってくる。内輪もめの挙句、享禄四(1530年)、問題の弱将、この項の主人公、上杉憲政という人が、腐っても鯛の関東管領職についた。
この人を有名にしたのは嘘かホントか八万と伝わる大軍で北条綱成(「九つ井」の平戸御前の亭主?)が立て籠もる川越城を包囲したはいいが、半年に及ぶ包囲陣でダラけ、天文十五(1546年)4月20日、北条氏康の奇襲で包囲軍が潰滅し、平井城に逃げ帰ったことで有名です。
包囲する関東管領軍1.jpg包囲する関東管領軍2.jpg
河越城.jpg河越夜戦.jpg
憲政は失墜した権威を回復すべく、天文十六(1547)年、佐久に出陣し、それまで何の遺恨もなかった武田軍と小田井原で闘い大敗する。
(志賀城生首三千の項)http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15-1

長野業政や太田三楽斎以外の関東諸将が憲政を見限る中で、天文二十(1551)年2月、北条氏康軍が北上して来る。
憲政は武蔵上野国境の神流川を挟んで対戦しまたも大敗する。
この時は平井城まで深追いされなかったが、北条軍は同年の秋に再びやって来て、翌天文二十一(1552)年2月10日、憲政は平井城に嫡子の龍若丸を残して脱出、越後の長尾景虎を頼る。
後見として数名の家臣を残したが彼らは裏切った。氏康に龍若丸を差し出して降伏開城した。憲政はわが子を置き去りにして自分だけ逃げたのである。これも後世の評判を悪くしている。
龍若丸は小田原の海岸で斬られた。氏康もバカではないので、裏切った家臣も磔刑に。。。

越後まで逃げ、長尾景虎に上杉名跡と関東管領職を譲り平井城の奪還を促した。
景虎は平井城を奪還するが、景虎は平井城を使わず厩橋城を基地とする。
憲政は二度と関東の土を踏まなかったようです。その後の憲政は御館の乱まで殆ど登場しない。

ではどんな人だったのだろうか。

「小田原北条記」
「憲政、幼少ニテ父憲房ニオクレ、我儘ニ成人シ給ヒケレバ、仮ニモ民ノ愁イヲ知ラズ、人ノ嘲リヲ顧ミズ、驕リヲ極メ色ニ耽リ、酒宴ニノミ日ヲ送ル。コレニヨリ奸臣ハ日ヲ追テ集リ、賢人ハ自ラ去ッタ」

「甲陽軍鑑」
「大勢力を率いながら家を滅ぼした。北条氏康に一度も勝てなかったのは、北条を軽輩と見下し配下に任せ、自身は出陣しなかった為」と批判に曝されている。

「関東古戦録」
奸臣の重用で家中が混乱、長野業正が反対した天文16年の志賀城救援失敗を招いたとある。また、嫡男を見捨てて、自分だけサッサと逃げた誹りを受けている。

「佐竹氏物語」
憲政が関東を放棄し、常陸国佐竹氏の当主だった佐竹義昭に、関東管領職と上杉氏の家名を継承するから保護を依頼したが、あっさり断られたとも。

敵側の記録ばかりだが、いやもう散々の体たらくですね。でも実際、こんな人だったのでしょう。
情報の出典は定かではないが、鉄砲の音を聞いただけで頭痛をおこしたなんて逸話もあった。

関東管領様1.jpg関東管領様2.jpgそれにしても良く言われない人ではある。どう贔屓目にも見れない。いいトコが一つもないのだ。

2006年に上杉憲政を演じた市川左團次さんは、周囲に「このドラマで一番、偉い方なんですよ」と言われたそうです。
役に臨む意気込みのようなコメントは全くなかったように記憶しています。
妙に似合ってたけど、演じたご本人は、憲政の予備知識はなかったのではないか。

なかなかいい味を出していましたよ。劇中で印象に残ってるのは、包囲陣中で軍議の席上、長野政業が”北条”とでも言おうものなら、
「長野、何度言えばわかる。北条ではない。小田原じゃ。伊勢じゃ」
「さようなことに拘る時ではございませぬ」
「こだわる時じゃ」
戦況分析とは全く関係ないネタで憤っていた場面。
幟パタパタ.jpg関東管領様3.jpg
弱い暗君のイメージが拭えず、近隣に立つ幟もついつい白い眼で見てしまうここ平井地区は、すっかり住宅地か農地となっています。


関東管領の幟も、心なしか元気がないように感じる。
幟はためく風には牛舎の臭いが載っていた。
「ムォ~ン・・・」牛の啼き声が聞こえた。
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閑人が竹藪を行く。。。 [隠れ郷土史]

名もなき古城巡りを続けていたら、今日まで二足、靴がダメになった。
三足めの靴もダメになりかけたのがここ。
やっぱ安い靴はダメだね~。

くるまを降りたら。。。
臭い。。。
近所に牛舎があるらしい。顔をしかめたが私はよそ者である。この地にも生活がある。我慢してくるまを停めた側の公園みたいなのに歩んで行くと、ボロッボロの説明版が立っていた。
説明版を見ると、「ここは山の持ち主の皆さんや地元の皆さんが協力して作った美しい憩いの。。。云々。。。「いつまでも皆様が楽しく利用できるよう次の事を必ず守ってください」。。。地形を崩したりしない、ゴミや空き缶は必ず持ち帰ること、他が記載されている。
案内板1.jpg案内板2.jpg
美しい憩い??
どこがっ!!
結果論ですがそれには程遠い場所だった。整備された公園かというと全くそうではなく、鬱蒼とした竹藪だったんです。
入口の札があったので分け入ると、風雨になぎ倒された竹だらけ。ちょっと躊躇したが踏み込んでみた。
入口.jpg鬱蒼とした竹藪.jpg
空壕が竹で埋まっている。
更に奥へ分け入ると竹の根っこが弧を描いている。バタバタ倒れてるのもある。
空壕に倒壊する竹1.jpg空壕に倒壊する竹2.jpg
足元は枯葉(竹の葉)で埋まっていて、その下はやや湿った土。滑る。
熊は出ないだろうけど、狐狸の類や蛇が出てきそうな鬱蒼とした竹藪はかろうじて起伏がわかる程度。迷路みたい。進めば進むほど、これって無事に戻れるんだろうかっていう錯覚に陥った。
ところどころに地元の人が立てた札があるが、あらぬ方向を向いてたりする。
手作りの札1.jpg手作りの札2~第二郭.jpg
この城塞跡はJR信越線の磯部~松井田間の南の丘陵にあります。東西400m、南北200mの崖端城で、北を向いてるせいか、ジメジメして日当たり悪い。
後で調べたら、私が踏み込んだ竹藪は、五つの郭と馬出(防御の弱い部分に造る)と、その間を区切る堀らしい。だが現状は堀なのか獣道なのかワカラン形状をしていた。
手作りの札3~帯郭.jpg手作りの札4~横堀.jpg
それにしても凄い竹である。竹藪地獄といっていい。
倒壊している竹が多いのが幸い、空は見えている。
ガキの頃、雑木林や竹藪にダンボールを持ち込んで”秘密基地”遊びをした人っています?それを思い出したよ。
空壕に倒壊する竹3.jpg空壕に倒壊する竹4(マシな方).jpg
空壕に崩壊する竹5.jpg竹は根が浅く地表を這うように広がるので、根が地面を抑える。地震には強いが、土下は浅いので風雨には弱いのだ。大雨の際には斜面の竹林はそれ全体が滑り落ちるような崩れ方をする時がある。
地主さんの好意で保存された憩いの場所って謳ってたけど、地主さんの高齢化に伴い放置される竹林が増えた一例なのではないだろうか。
誰がこの城塞にいたのかに触れてなかったですね。南北朝時代に人見四郎恩和という人の館を武田が修復して狼煙台ネットワークに組み込み、上州侵略の足掛かりにしたとか。

まさか行く閑人はそうそういないと思うけど、訪れるときには竹の根っこにつまづかないように足元に注意して下さい。
この道に詳しいサイトを見ると、一帯には雀の巣があり、雀が多いんだと。雀が多いってことはそれを捕食する蛇、マムシやヤマカガシといった毒蛇もいるんだと。
ましてやタケノコを採るなんて言語道断です。

もう一つ。
上信越自動車道を渡る。この橋には新内匠橋とぱった。
面してギリギリに「内匠城」というのがあった。
新内匠橋の向こう.jpg新内匠橋.jpg
上信越自動車道1.jpg上信越自動車道2.jpg
入っていくと・・・.jpgここにいたのは倉股大炊助という人。
天正18年(1590)、上州方面に上杉景勝と前田利家、真田昌幸の北国勢が進撃してきたらこの内匠城は放棄される。城兵は主城の国峯城に集結したが。。。

橋から真っ直ぐそのまんま歩いて入って見たら。。。
ゲッ!!
ここも竹藪地獄か。
これは踏み込めないな。



うげつ!!.jpgうぎゃっ!!.jpg
だが、自動車道に沿って左に迂回し、そこから奥へ入るとこんな感じだった。
稲荷がある。
主郭1.jpg主郭2.jpg
一旦戻って、藪の中を目を凝らして覗いてみると。。。
どうもデカい空壕がありそうだな。
意を決して踏む混んでみた。
竹藪に踏み込む.jpg更に奥へ.jpg
そしたらアタマに蜘蛛の巣がベチョッ。
かなりキョーレツな巣だった。巣のヌシの蜘蛛は何処にもいなかったが、この勝手な闖入者めと罵っているかも知れない。
そこから更に先へ踏み込んだらこんな感じ。前の人見城ほどではないけど、昼なお暗い竹藪。空が見えないのだ。
上信越自動車道を走るくるまの音がかすかに聞こえる。
竹藪空壕1.jpg竹藪空壕2.jpg
足元もヌルってるのとヤマビルが出そうなのでここで引き返しました。蜘蛛の巣はこの日の終わりまでとうとう取れなかったですね。もしかしたら巣のヌシ、蜘蛛が背中にヘバりついていなかっただろうか。

この二つの城塞は、寺尾中城みたいに山の尾根を歩いたり、高低差があるわけではないです。
靴がちょっと汚れて傷ついた。
翌日、ま~たよく確認もせず、その靴を履いて支店へ打ち合わせに向かった。支店にバタバタ駆け込んで
「誰々いますか?」
私はまだこっちの職場で地を出していない。至って丁寧口調です。
「ハイ、今ならおりますよ」と答えたのは20台前半の某女性社員。
急いでいたのもあって、入口に靴を揃えず適当に脱ぎっ散らかして上がってしまった。
打ち合わせが終わって戻ろうとしたら、俺の靴がきちんと揃えて置いてある。
(しまった・・・)
俺は赤くなった。
その女性社員が揃えてくれたのか。泥だらけボロ靴を。
恥っ!!
真っ赤になりながら「そ、それじゃぁまた」って出かけたら。。。
初めて貰ったえびせん.jpg開封したえびせん.jpg3個めだったかな.jpg
「ハイ、これぇ[わーい(嬉しい顔)]
「??」
[わーい(嬉しい顔)]
小さいかっぱえびせんを手渡された。
「俺がこれを好きなのを何故、知ってるんです?」
「内緒で~す[わーい(嬉しい顔)]
もちろん貰いましたよ。だが、誰がリークしやがったんだ?何処から情報を得たんだろう?
こっちの連中はまだ知らない筈だが。。。
「誰に貰ったのっ??」 (ジャン妻)
「・・・」
ジャン妻もこの若手女性をかなり高く評価していて、やや肩入れする傾向にある。
後日、かっぱえびせんをもう1個貰った。
その時は店に金を置いて出ようとした。ツンデレしながら、「要らないで~す」って突っ返された。
「もしかして賄賂?」
「そうかもです。他に何が好きなんですか?」
「ええっと、ピーナッツとか。。。」
その後、更にもう1個、計3個貰った。
その間、この子は時折、不平やら不満やらをギャァギャァ言って来た。こっちは施しを受けてしまったんだから逃げられない。受けるしかない。私は周囲が納得する形でその子の要望をうま~くかなえてしまい、結果的にかっぱえびせんは賄賂になったのである。
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寺尾中城 [隠れ郷土史]

寺尾五城の位置関係(カラー).jpg新幹線で滑り込む車窓の左側に10数キロに渡って続いく連続した丘陵があって、観音様の北から高崎商科大学に至る広大な地域に、寺尾五城という要塞群が、ある程度の距離を置いて配備されているのを知った。

1.寺尾上城(乗附城)
2.寺尾中城
3.茶臼山城(鷹巣城)
4.根古屋城
5.寺尾下城(山名城、寺尾前城とも)

このうち、4.は信玄が作った。
3.5.はもともとあったのを信玄が改修した。
4.5.はかなり有名。散策コース化されてるのでそのスジのサイトに譲りますが、あまりメジャーでないのが1.2.3.
私が今回行ったのは2.です。寺尾中城

(余談ですが、3.も行きました。コンパクトで訪城しやすいです。 問題なのは1. これは相当な難城だった。見つけるのに3回を要した。山の周囲をウロウロしたが、おっそろしく草ぼうぼうで今日まで訪城口が全くわからない。 登った人のサイト情報も極少で、地元に住んでる人も存在を知らない幻の城塞。。。)

鎌倉幕府事績を記した「吾妻鏡」に、「治承四年(1180年)九月三十日、新田義重ガ兵ヲ寺尾城ニ集メ頼朝ノ召喚に応ゼズ」という記載があるそうです。
新田義重?
義貞の祖先だろうか。
召還に応ゼズ?さっさと行けばいいのに寺尾城で何してたのか?
日和見的態度だったのである。
もしくは頼朝をナメていたのか。後で慌てて参上するが、当然、頼朝の不興をかった。
一方、同族の足利氏はサッサと召喚に応じている。平治の乱~伊豆に流され辛酸を舐めただけに頼朝はこういうのは後々忘れない人なのだ。根に持ったに決まってる。この出仕のタイミングのズレが後代まで尾を引き、足利と新田の処遇の差となる。
鎌倉に行かずにいたグズグズしていた場所、寺尾城というのが、この1.2.3.のどれか。可能性高いのは2.
それより後年、南北朝時代、尹良親王(タダヨシシンノウ)という後醍醐天皇の孫が南朝より源朝臣を賜姓され征夷大将軍右近衛大将となり、各地を転戦する過程で関東での南朝の橋頭堡として整備されたのが、1.2.5.。。。
流浪の征夷大将軍と呼ばれた親王は、2.寺尾中城で20年間も抵抗を続けた。
寺尾中城縄張り.jpgハイキングコース入口.jpg2.の寺尾中城は場所までなら訪れやすい。
公園化された観音山ファミリーパークの中にあるからです。
公園の中というか、公園の端っこにあった。
無料の観音山ファミリーパーク駐車場に車を停め、炎天下のを公園内を歩いて行く。これが結構な距離だった。
広大な芝生の敷地では大学生が青春を謳歌しながら球技に競ぎ、嬌声、歓声が挙がっていた。
(私にもかつてそういう時代があった筈だが。。。)
目指す寺尾中城は公園内の“癒しのエリア”に組み込まれ、里山の散策コースとして整備されている筈だった。
コースは3つ(北・中央・南)があり、中央コース(約1km、所要時間40分)を歩けば城内5つの郭を全部制覇することができます。
ところが。。。
この山城、郭が連郭式なんです。連郭式ってのは、細長い山の尾根に連続して並んでいる。纏まってないんです。。
後でわかったんだけど、駐車場から寺尾中城まで歩き、連角式の郭5つを制覇するには、公園の端から端の更に先まで歩いてまた戻って来ないと生還できない莫大な距離だったのだ。

ありゃ?立ち入り禁止のロープが張ってある。封鎖されてるぞ.jpg寺尾中城へ.jpg
コースへ踏み込む.jpgコースは続く.jpg
何かのマチガイだろうと無視して踏み込んだ。
コースは整備されている方だと思う。すぐに本郭が現れる。
本郭へ1.jpg本郭へ2.jpg
本郭1.jpg本郭2.jpg
UPDOWN.jpg解説版.jpg
堀切1.jpg土塁?.jpg
一番最初に本郭が現れたので、そこで引き返せばいいものを引き返さなかった。先へ進んだ。そしたらニの郭辺りからUpDownが相当あった。結論から言うと、コースは五郭で途切れて一旦、谷に降りて、また公園のある高さまで登って延々歩かないと戻れないのです。
水を別途、持っていった方がいいです。
それと、お子さんは無理しない方がいい。はしゃぎまわったら転落しそうな箇所が幾つかある。だから通行止めだったのかもしれない。
郭も本郭以外は殆ど削平されていない感じで自然地形に近い。北条や武田の手が加わっていない古いタイプ。
尾根の道.jpg堀切2.jpg
連郭式だから迂回路なんかない。延々先に行くしかない。
幸い全体の距離に対して今いる場所がどのくらいかという大雑把な表示があった。10/20という表示なら半分まできたということ。
二の郭へ.jpg二の郭.jpg
三の郭へ.jpg三の郭.jpg
あまり技巧のある縄張りとはいえない。
両側が切り立った丘陵の、細い尾根上のやや広い部分に無理矢理5つの郭を設け、その郭間を堀切で断ち切るという単純なものだった。
何人の兵が駐屯できたのだろうか。
親王は日ごろ、何処に居住していたのだろうか。

三郭と四郭の間に長さ20mの細い土橋があって、両側が遥か下の方まで落ち込んでいる。
落ちたら命はない。。。こともないだろうけど、相当な怪我はするだろう。
ガキは行かない方がいい。黄色く細いロープが張ってはあるが、ガキはロープの中から落ちてしまうに違いない。
土橋.jpg滑落したら最後.jpg
四郭と五郭の辺りでかなり疲れたので、写真が少なくなっています。
四の郭.jpg五の郭.jpg
危険区域.jpg大堀切.jpg
五郭の先は危険区域で立ち入り禁止だった。さすがに疲れたのでそこから先は自重したが、帰りのコースはそこからこれまで来た道を戻るか、一旦、谷に降りて公園の北側に這い上がるしかない。
谷に降りた。
膝が少しガクガクしている。
渓谷を歩く.jpg渓谷から登る.jpg
公園化されてると侮ってナメたのが失敗だった。汗が流れ、喉がかわく。
幸い、木々に日差しが遮られて入るが、風すらそよとも吹かない。
熱中症、脱水症になる危険ってのはこういう時かもしれない。
コース表示に従ってしばらく谷底を歩いた。先が見えない。駐車場までどれくらいなのか。何処まで歩けばいいのか。
くたびれたので写真を撮る気力もなかったのだが、ふと気付いたら私が歩いてるこの谷は、今は枯れてはいるけど歩道にまで泥水が流れた跡があるので、大雨時には出水して激流の沢になるようです。

階段があった。這い上がるように登ったら、廃道のような舗装道に出た。
そこから延々、公園まで歩くんです。
左手には今、歩いて来た寺尾中城が見える。
この廃道を15分ほど歩いて公園に出たら、そこにも立ち入り禁止のロープが張ってあった。やっぱ入っちゃいけなかったんですかね。(^^;
遠望1.jpgやはり立ち入り禁止.jpg
そこから先がまた長く、延々、駐車場まで歩く。足が上がらないんだな。
公園内を歩く.jpg駐車場は何処だ?.jpg
左手にはまだ寺尾中城が見える。
遠望2.jpg遠望3.jpg
暑いぃ~。[たらーっ(汗)]
喉が渇いた~。[たらーっ(汗)]
すっげー疲れた~。[たらーっ(汗)]
足が上がらないぃ~。[たらーっ(汗)]
アタマのてっぺんから汗が流れる~。[たらーっ(汗)]
歩き疲れた私の横を大学生(陸上部?)が走っていった。往路前に嬌声を挙げていた若い学生たちはまだ球技に興じていた。若さを横目に見ながら「俺ぁ一人で何してんだ?」って思わないでもない。
駐車場脇に自販機があって、ペットボトルの水をガブ飲み、アタマっからジャバジャバ被ってしばらくしたらようやく人心地がついた。タオルなんか持ってないので自然乾燥に任せたが、くるまん中も暑く、アタマはすぐ乾きましたね。
公園にあるとはいえ侮るなかれ。行く方は自己責任でお願いしますよ。
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義民、白田六右衛門のこと。。。 [隠れ郷土史]

曹洞宗の寺です。慈雲山龍源寺。
この寺の参道に、昭和63年建立の顕彰碑があって、ある農民を讃えている。
その農民は享年24歳。人生これからという時に短い生涯を終えた。
名を白田六右衛門という。
若干24歳で、この村の名主だった人です。
参道入り口.jpg龍源寺.jpg
難しい話でスミマセンが、大阪陣の後に起こった島原の乱(寛永14年:1637年)で国内の大規模な戦乱は収束したといっていいが、この乱は圧政に反発した農民一揆の側面もあった。
鎮圧後に幕府が一揆を禁止すると、武器得物を取っての闘争から、強訴、逃散といった騒動に変化していく。
領内の騒擾を理由に、やたらめったら大名を改易するケースがあって、農民側からすれば領内の治安が不行き届きなのを江戸表へ訴えれば支配する側、領主への圧力にはなった。
年貢減免や、領主、代官の交代などを要求する。
成功した例もあるが、訴えた者や首謀者は処刑されるケースが殆どである。

農民一揆の一因は悪政もそうだが天災もある。水害、干ばつ、害虫、疫病、火山噴火、そして飢饉に至る。
被害が甚大で全国クラスなのが江戸四大飢饉というヤツ。①寛永(寛永19年(1642年)~20年(1643年)、②享保(享保17年(1732年)~、③天明(天明2年(1782年)~7年(1787年)、④天保(天保4年(1833年)~10年(1839年)、この四つだが、そこまで有名でなくても大なり小なり飢饉はあった。

話は元禄初期の頃。元禄というと華美なイメージがあるが、この地(多胡村といいます)一帯は干ばつで農作物が枯れつくして全滅、農民は餓死寸前になった。
その時、この地の為政者が誰だったのかちょっとわからないのだが、吉井藩松平家と、天領(門奈氏、川村氏)他がモザイク状態だったのえはないか。
困窮した村々の名主の一人だったのが白田六右衛門。
20代で名主ですよ。世襲だったのかも知れないけど。

名主=庄屋である。支配階級の末端と、被支配階級(農民)の中間に位置する。辛い立場でもあった。
おそらく名主=豪農だと推察するが、村々を見て思うところあり。
長いもの、支配階級に巻かれるか、己を捨てて他人を救うか。
六右衛門は後者だった。命を捨てることで開けてはいけない扉を開ける。領主から預けられ保管されていた年貢米の殻倉を独断で解放し、その中の殻倉を人々に分け与えた。
村々の人命は救われた。
六右衛門は捕われの身となる。村人達は必死に助命嘆願をするが許されなかった。元禄24年(1689年)5月4日、この寺、龍源寺の前にあったキュウリ畑で処刑された。

子孫、白田一族は末長く供養を続けてきたのだが、六右衛門がキュウリ畑で処刑されてからは、白田一族はキュウリを全く作らない習わしが続いているという。

この寺を訪れた時、何処に六右衛門さんの碑があるのかわからず境内をウロウロしていた。そしたら一台のワゴン車が停まって、中からご住職が出て来られた。
檀家さんの家で経をあげた帰りだろうか。
ご住職は私より若かったですよ。近隣の農家の女性が青物を届けに来たので、胸元に手を合わせてお礼をしていました。
私と目と目があった。
この平日に私みたいなのが境内を物色しているのを見て訝しんだらしい。私の方に歩み寄って来て、「あの・・・なにか・・・」って言う。
寺の参道に、二人の坊主頭が向かい合った。
この手の不審者扱いにいい加減私も慣れてきたので、目の力を抜いて丁寧口調で、「この地で亡くなった農民さんの何かを見に来ました」と打ち明けたら、この碑の前に案内していただいた。
碑.jpg駐車場から見た碑.jpg
碑の前に二人の坊主アタマが並んだ。
二つ三つ、お話を聞いたのだが、私は最後の方でこういう質問をした。
「処刑された場所、キュウリ畑って何処なんですかね?」
「それは・・・」
ご住職はこの質問にちょっとだけ驚いたようだったが、黙って指をさした先は、寺の前、私のくるまが停まっている駐車場だったのである。
「今の駐車場のある辺りに畑があったときいております」
何処に穀倉があったのか。何処の穀倉を破ったのかはわからない。

ご住職は一旦は本堂か母屋に戻られたのだが、くるまに乗り込もうとした私に再度、声をかけ、寺のパンフと団扇を頂いた。
寺のパンフは、まぁお墓か檀家の募集でしょうな。しっかり営業されてるなって思ったですよ。
私もつい軽口になり、自分のアタマに手をやって、
「もしかして同業者かと思ったでしょ?」
「いえ、そういうことはございません」といって胸元で手を合わせて見送ってくれた。
(笑ってるのは誰だ?)

その後もしばらく村々の空気を吸い込んだ。
まぁ田舎なんですよ。船山温泉の南部町よりもずっとずっと田舎でした。その田舎の風に吹かれながら考えたのは、あたら短い人生を・・・という気持ち。
そういう気持ちにならない方がオカシイだろう。
護られた村々2.jpg護られた村々1.jpg
六右衛門さんは妻帯してたのだろうか。。。
言い交わした女性はいなかったのだろうか。。。
そうやって自らを捨てられるものだろうか。。。
人命を救った者が罰せられるのなら、法は何の為にあるのかという憤りも。。。
護られた村々4.jpg護られた村々3.jpg
こことは近い場所に、もう二人の義民がいた。私は既にその二人の碑も訪門済みですが、ご住職はその二人のこともご存じだった。
「六右衛門さんの義挙って、もう二人と同じ頃だったんですかね?」
「だいたい、同じ頃ときいております」
実際は20年ほど差があるのだが、少なくとも3人の義民がいたのである。
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閑人が行く3。。。 [隠れ郷土史]

名も無き小城巡りが続いていますが、今回は副題があります。
ご自分の家が、中世から伝わる城館(跡)だったらどーします?

梅雨から初夏の時期、草がアオアオした藪ん中に踏み込むのもどうかと思い、小さくて訪城が楽で、それほど汚れなくて済むようなのを選んでみた。
開発された住宅地の中にこんなのがあった。
長屋門.jpg長屋と水堀1.jpg
民家の周囲を水堀が巡っています。下斎田城といって、ここにはT氏という小土豪がいた。
何故に伏字にするか。伏字にする必要ないのかもしれないけど、子孫の方が現在もこの地に居住されているからです。

この長屋門は昭和13年に建築されたという。
両側に住居や作業小屋、倉庫を備えた長屋門です。その周囲を巡るお堀は水壕というか、ドブ。
失礼ながらあまりきれいな水とはいえない。
魚はいるのだろうか。
長屋と水堀2.jpg水堀1.jpg
私みたいに通りすがりで見て驚嘆するだけならいいけど、ずっとここに住むのって結構、大変ではないだろうか。
T家はずーっと代々この館を守って来た。でもいきなり現代人の私らが、周囲がドブに囲まれた家に住めるだろうか。住もうと思います?
居住している人には失礼だが、ボウフラがわくかも。夏場にブンブン蚊が飛んだりして。
近所の子が水に落ちたりしたら大変。ご近所に気を遣うでしょう。
水堀2.jpg水堀(草で見えない1).jpg
石積みもあるような.jpg石積みと水堀.jpg
こういうのが下手に史跡なんかに指定されたら、建物は老朽化しても修繕するのが精いっぱいで、建て替えなんてそうそうできないと思うのです。現状を損なわないように配慮しなくてはならないから。

もう一つ。
木々、林に囲まれた大きな屋敷構えの民家があった。
鬱蒼とした木々の屋敷.jpg矢田城は個人宅.jpg
民家の前にの道路沿いには、今は埋まってるけど浅い空堀を前面に配し、3m~4mほどの高土居(土塁)が延々伸びていた。
入口の土居1.jpg入口の土居2.jpg
入口の土居3.jpg土居が伸びる.jpg
土居の先の方.jpg民家入口方面を振り返る.jpg
ここも個人宅。K氏という土豪の跡で、近世には矢田陣屋というそうです。K氏の子孫もこの地に居住している。
家康の関東入府時、ここは菅沼氏の領地でK氏は代官を勤める。この民家のすぐ北には代官屋敷みたいなのがあった。
代官屋敷が見える.jpg立ち入り禁止のようです.jpg
だが、立ち入り禁止です。ここにもK氏の子孫がお住まいらしい。仮に矢田代官所としておくが、この建物は当時のものなのだろうか。
代官屋敷の土居1.jpg代官屋敷の土居2.jpg
代官屋敷の土居3.jpg代官屋敷の土居4.jpg
クランク.jpgこの地の支配者の変転はヤヤコシく、土豪が代官を勤め、この代官屋敷から吉井藩の陣屋へ移転し、天領になった時もあり何だかヤヤコシイ。
結局は吉井藩になるのだが。。。
吉井藩祖に謎がある。
この地で自刃した某卿のご落胤説があるのです。これはいつか掲載します。





矢田陣屋は森、木々と土居に囲まれている。
矢田代官所は遠目にしか見えないのでよくわからないが、古~い建物のようです。
二つともK家がお住まいのようだが、陣屋の方は日当たりが悪いのではないか。虫も飛んでくるだろうし、夜には梟が鳴くでしょう。
代官所は見るからに古い建物なので、これも手入れ、修繕が大変そうである。
公道に面してる入口なんかクランクになっていてくるまの出し入れも面倒くさそう。
固定資産税もバカにならないと思う。
学者さんも訪れるだろうし、物好きにジロジロ見られたりするだろう。私みたいにマナーのいい見学者ならいいけど。(自分で言うなってか)

もう一つ。
ブ厚くてデカい大土居(土塁)が途中、開いています。
上野城(砦)または吉田家の土塁というそうです。この出入り口を小口(虎口)というのだが、中は民家なんです。民家の敷地の入口になっちゃってる。
周囲の畑はかつては壕だったんだと思う。中の住民が栽培してるんでしょうね。
民家の入口?.jpg吉田家の塁.jpg
ちょっと入ってみました.jpg左側を望む.jpg
このブ厚くてデカい土盛りが、石垣、櫓、白亜の楼閣や、前に紹介した後閑城のような公園、大きい史跡の中の一部なら何の違和感もないけど、住宅地の中にこれだけあって中に人が住んでるんです。異様だけど一種の感動すら覚えました。
左コーナー.jpg右コーナーから中央部を望む.jpg
裏手にも耕作地にならした後、取り残された土居の断面があった。
裏手にある断面.jpg断面拡大.jpg
これって下仁田ネギ?.jpgまたまた勝手な想像ですが、中の人はこの先祖代々の土居とともに暮らして来たとはいえ、この土居を耕地、畑にならせばもっと住みやすい、収穫が増えるのになんて思ってないだろうか。
私みたいに見るだけならいい。そこに住むということは大変なことなのではないだろうか。閑人はそう思うのだよ。

今回は靴は汚れませんでした。
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