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上信電鉄(旧上野鉄道)鬼ヶ沢橋梁 [廃線跡]

12月14日の今日は討ち入りに合わせて「大野九郎兵衛は生きていた」を予定していたのですが、第三者資料の裏付けがどうしても取れなかったので、一旦見送り、急遽この記事に差し替えました。

ローカル線で行く秘湯.jpg上信電鉄の頁.jpg
ジャン実家にこんな本があった。ローカル線で行く秘湯。。。
私が今いる上州の頁は、山間部を走る3両編成の上信電鉄(現在は2輛両でマンガ塗装)下仁田駅で下車して徒歩20分、猪鹿雉料理の「清流荘」が載っていた。私は「清流荘」を見にいったけど利用してません。

上州電鉄は揺れる。
何でだろう。車両が古いのだろうか。何かの挑戦バラエティ番組で揺れる電車として紹介され、出演者が車内の定位置にずっと立ってられるか否かを挑戦したが、千平~終点下仁田駅で急カーブの揺れに耐えられず全員が脱落したそうです。
廃鉄橋?.jpg私は山名駅周辺のカーブで振り倒されそうになったことがある。山名駅から先は国道と並行して平野部をほとんど真っ直ぐ走るのだが、この写真を見ると山間部を走っている。
終点、下仁田駅から出た電車が、千平駅に向かっている途中、山間部の急カーブで大谷川(鏑川の支流)という川を渡っている写真です。
急カーブを走る電車の右後方に、木々に隠れて、赤茶色のガーダー橋のようなもの、石積みの橋台、小屋が見えるのがおわかりでしょうか。
気になった。旧線ではないか。
写真の現在の線路は付け替えたものではないだろうか。
スピードUpや、車輛が長くなったことにより、カーブを緩和するために旧線を新線に付け替えるケースは全国にある。その際、旧線は撤去され放棄され、年月とともに自然に還っていくのだが、このガーダー橋梁は何故、残っているのだろうか。
今でもあるのだろうか。

上信電鉄の前身は上野鉄道という。
軽便だった。軌道幅が狭かった。
明治30年、富岡や下仁田の繭、生糸、蚕種等輸送のために建設された。生糸、木炭、石灰、砥石、鉄鉱石が高崎へ運ばれ、肥料、日用品、繭、石炭が高崎から富岡、下仁田へ運ばれた。世界遺産申請中の富岡製糸場を中心とした養蚕事業の物流だったのです。
株主には養蚕関係者が多く、南蛇井駅~下仁田駅間で山間部を走ってるのは、開業当時の株主だった地元の養蚕農家への排煙を配慮した為なのです。

この橋梁らしきものは旧鬼ヶ沢橋梁といって、軽便時代の上野鉄道の旧橋梁だという。
いろいろ調べてみたら、この橋梁を紹介したサイトはある。だが下仁田町のHP他には、危険箇所があるため“見学不適”とあった。“見学困難”とも。
でも私の前の上司が言っていた。「困難は可能なんだ」って。もっともそれは仕事の場合だが、私の血は騒いだ。夏場は草ぼうぼうの藪だろうと推定し、晩秋、初冬を待ってでかけた。

そこへ至る道ですが、道の駅下仁田を過ぎてすぐの細い道を右折し、ネギ畑にある細い農道を走ります。突き当りを右折、鏑川を渡って千平駅方面へ向かい、上信電鉄の踏切を左折で渡る。
踏切1.jpg踏切2.jpg
その先、県道195南蛇井下仁田線というのがあった。
「大型車道路幅狭少通行不能群馬県」・・・
如何にも細く狭い予告編ではないか。この道はヒジョーに狭く、大型車はおろか、普通車、一般車でも難しいと思う。
悪路への誘い.jpgここに来るまでの細い道.jpg
停める場所があるだろうか。
道の駅下仁田に停めて徒歩で行こうかと思ったのだが、そこで思いついたのは、目指す橋梁は現在、東電の鉄塔への管理通路になっているそうです。
それなら東電の作業員さんが徒歩で来るってこたぁなかろう。軽トラか何かの作業車を停め、資材も一時的に置けるスペースが道路脇にあるのではないか。

幸い、私のくるまは小さい。
それでも対向車が来たらすれ違いがヒジョーに困難な道だった。
切り通しを抜け、左手に視界が開け、下仁田方面の山々が望めるそこに停めるスペースがあり、資材らしきものが置かれていたのでそこに停める。おそらく東電さんもここに停めてるんだと思う。
処理済~停車スペース.jpgちょっと先に.jpg
その少し先に朽ちた札があって、消えかかってる文字で、赤津、上野鉄道大谷川鉄橋200mとあった。これだな。
朽ちた行先表示.jpg枯葉の道.jpg
枯草、枯葉が積もった坂を下りて行くと、“見学不適”とある。
見学不適?.jpg下っていく.jpg
更に荒れた下り坂を降りていくと大谷川のせせらぎの音が聞こえて来る。左手に上信電鉄現在線の鉄橋と鉄路が見えてくる。
現在線が左に、その先には・・・.jpg現在線の鉄橋.jpg
仮設通路の前方に、あったあった橋梁が。
その先にあるもの.jpg立ち入り禁止.jpg
この辺りから上野鉄道の旧線跡、廃線跡。橋梁に向かって歩いて行く。
橋のタモトに.jpg説明版.jpg
古写真.jpg当時の機関車.jpg
橋梁のたもとにあった古写真を見ると難所だったようです。大谷川の壁を削って桟道のように敷設していた。
現在の上信電鉄は曲線改良(急カーブ緩和)を図ったのではないだろうか。電化によるスピードアップか、車両が長くなったか。

渡っちゃいけないけど、渡らずばなるまいて。南無八幡台菩薩・・・と念じながら渡って見た。読者の皆様は絶対にお止めくださいね。
110年前の鉄橋.jpg渡ってみる.jpg
左の谷底.jpg右の谷底.jpg
橋梁上から下を見ると、結構、高い感じ。橋の幅が狭いから余計にそう感じる。
全長10m
川底から10.7m
幅は訳1mあるかどうか。ナローの幅だから鉄路の軌道幅は762mmではないだろうか。
下仁田側から1.jpg下仁田側から2.jpg
115年前の鉄桁は溶接ではなくリベットで固定したものだった。断面はIがIつ並んだような感じで、そのIをフランジのような別の鉄板で上下を固定してボックス型に近い形状にするもの。
橋脚は煉瓦と切石みたいですね。サイドの石垣は後年のコンクリート補強と思われます。
下仁田側から近寄ってみる.jpg小屋と下仁田方面.jpg
朽ちかけて今にも倒壊しそうな小屋は保線施設の跡だろうか。
その側に現在線のカーブが寄り添っている。
下仁田方面.jpg千平方面.jpg
渡ったからには戻らなくちゃならない。
一径間の橋梁なので多少は揺れますよ。
戻る~右の谷底.jpg戻る~左の谷底.jpg
上信電鉄の前身、上野鉄道が下仁田まで全通したのは明治30年(1897年)です。
大正10年(1921年)に上信電鉄に改名され、軌道幅が現在の1067mmに改軌され、電化されたのは大正13年(1924年)、この時に現在線へ付け替えられたのだと思う。
115年前の橋梁が残ったのは、現在は東京の鉄塔への管理用通路になっていのもあるが、本来の役目を終えてからも、千平集落と、先ほどの朽ちた板にあった赤津の集落を結ぶ道として使われていたとか。だから保存状態がいいのだと思う。
戻って振り返る.jpgこの橋梁を訪れるのは最初で最後と思いますが、自己責任の範疇なら見学は可能ですが、渡るのは絶対にお止めください。強風に煽られたら命の保証はありません。
晩秋から冬場の方がよろしい。草は枯れ、刈り払いもされていて最低限の管理はされているように感じた。
将来、下仁田町が整備するかも知れない。






この先、上信電鉄は蛇がのたくるような急カーブを描いて山間部を進んでいく。
下仁田町で254線やまびこ街道と接する辺りに白山という地があり、そこにあるトンネルも上野鉄道時代のものだというが確認していません。
最寄駅、千平駅です。
終点、下仁田駅は一つ先。
千平駅1.jpg千平駅2.jpg
上信電鉄の上は上野国、信は信濃国のこと。下仁田から先の山々をブチ抜いて、信州佐久平に至る夢は果たせなかった。
コメント(6) 

コメント 6

似非師匠

史家さん 貴重なレポ 拝読しました。
私鉄でも、前身が軽便のような路線だった場合など、この例のように旧線が残っていることが多いのですね。

廃線跡というのは、その時代の鉄道技術が偲ばれて、私も機会があれば極力覗くようにはしているのですが・・・
(道路も似たような感じがあります。)
先月は篠ノ井線の明科から先の旧線跡を少しだけ辿りました。

そうそうこの上州電鉄は、下仁田の駅の風情がとても良く、回り道をして訪ねたことがあります。
by 似非師匠 (2012-12-14 15:37) 

似非 師匠

冒頭の大野九郎兵衛を失念していました。

以前山形から福島にかけて走った時、峠駅を訪ねる際に、大野九郎兵衛の案内板があったことを記憶しています。

この街道は米沢に通じる道で、上杉家に匿われることになるであろう上野介を追って、なにやら謀を巡らした大石の
考えもあったやに見たのですが・・・・
by 似非 師匠 (2012-12-14 15:45) 

ヒロ

これって、「山いが」そのものですやん(笑)
途中でどっちを読んでるかワカランようになりました。
早く、R52旧道の下山隧道ぅ~~~
・・・・って、ジャン妻さんに怒られるかな(^^;

by ヒロ (2012-12-14 23:53) 

船山史家

似非師匠さんおはようございます。
上州電気軌道未成線、里見橋台に続き、このBlog最後の廃線紀行記事になりました。
ジャン実家にあった本(サライの監修?)に偶然載っていてずーっと気になってたのですが、人があまりいない山間部にあって狭い道を行くので晩秋を待っていました。
ポイントは現在線の橋梁近くというもの。注意を喚起するキャッチコピーは見学不適、見学困難というものでした。でも橋梁までは難なく行けます。
現在線が側を通ったら手を振ってやろうかと思ったけど通報されるでしょうか。
橋梁は明治時代のもの。鉄材は輸入で国内製作だそうです。廃止後も人道橋として使用されていたようですね。

当初、討ち入り日に予定していた大野九郎兵衛知房の記事は、安中市にある墓か供養塔と伝わるもの、中野谷という吉良の領地、安中榛名駅の先にある四十七士像、藤岡市にある吉良陣屋、これらの位置関係を繋いだ記事を用意していました。写真撮影は済んでいるんですが、裏付けを取れなかったです。安中図書館に3回行ったら3回とも休館日だったのと、某寺でお話を聞けなかったので裏付けが弱く、一旦はペンディングしました。
安中市も米沢の板屋峠と同じ動機のようです。他にもそういう伝説があるかもしれませんね。
平日の下校時刻に安中市内をウロついてると、また小学生にお坊さん扱いされかねませんね。(^^;
by 船山史家 (2012-12-15 09:03) 

船山史家

ヒロさん。
プチ「山いが」か、ミニレポかな。
ジャン妻はこの記事を見て眉間にシワがたってましたよ。こんな場所にいつ行った?って。度し難き亭主と言わんばかりでした。
R52の下山隋道ねぇ。考えときます。Ⅱがスタートしてますのでヨロシク~、OPEN祝いに一杯飲ませてくださいよ。(笑)
by 船山史家 (2012-12-15 09:05) 

似非師匠

切り替えということで、最終の書き込みになるのかもしれませんが r52の下山随道は私の庭でして、高校生の頃、バイクで走り廻っていたところです。それにしてもヒロさん、こんな遠方の情報はどこから得られたのでしょう?
by 似非師匠 (2012-12-15 11:32) 

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