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里見橋台の謎 [廃線跡]

これは廃線跡なのか。
記録に残ってない闇鉄の跡なのか。
資料が極めて少なく、私は魅せられ、この迷宮から抜けられず深みにハマっている。

倉渕温泉http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-07-07-3に行った帰り。
国道406号線(草津街道~くだもの街道)を市内に戻る途中、下里美という地で渋滞し、県道137号に横入りすべく、途中から細い道を右折した。
坂を登る.jpg坂を曲がる.jpg
細いけど行き違いできる程度の幅のある道、坂を登って曲がったら、薄暗い切通があって、右手にこんな建造物があったのである。
謎の橋台.jpg正面から見る.jpg
きょ、橋台!!!
驚驚驚!!!
切通し全体.jpg逆光の切通し.jpg
くるまを停めて間近で見てみた。
見上げたらどう見ても橋台である。片側しかない。もう片側は、何処にでも見かける近代的なブロックで擁壁されている。
側面から見る.jpg反対側にはない.jpg
二つ、文字が打たれたブロックがあって、明治四十三年四月竣工、號五第(第五号)と刻まれていた。
当時の技を凝らした近代遺産?
それほどのモノでもないかもしれないが、古風で重厚で厳めしく見える。
明治四十三年?.jpg第五号.jpg
橋台に登る細い坂があった。路盤跡でもあるのだろうか。
だが、上ってみたらそこは墓地だった。もしこれが鉄道のものなら、橋台の先に軌道敷が続いたと想像されるが、凄い藪だったのと、墓地なので掲載は控えます。
登る坂がある.jpg登ってみたら.jpg
この地は里見といいます。
里見という地は東西に細長く、下里美、中里見、上里見とある。
南総里見八犬伝の里見氏発祥地ともいうが、今回はそれが本題ではない。
(以下はこの橋台近くにある里見城)
里見城跡看板.jpg里見城本郭.jpg
三軌道の位置関係.jpgこの地は前に載せた上州電気鉄道未成線跡http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2のすぐ北、約2kmの位置にある。
近いからだろうか。故宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」には、上州電気鉄道と、里見軌道というのがセットで紹介されていた。
この二つの路線は、「全く関係なかったかというとそうでもないようで・・・」と濁して結んでいる。

だがJTBブックスでは、私の目の前にある橋台や、これから述べる未成線は掲載されていない。もっと先の烏側の上流、榛名町の上里見~室田発電所付近に実際に運行されていた4kmの人車軌道、里見軌道が載っていた。
人車だったんです。動力は人力。馬車でもない。

ではこの橋台が里見軌道かというとそう簡単ではない。
幾つもの謎があって・・・というか、謎が多すぎるんです。前述のJTBブックス他、いろいろ調べた人がいて、それによると里見軌道の書類上の開業は昭和6年(1931年)7月で、翌昭和7年に廃止だという。
1年も満たないのはどういうことなのだろうか。

当初の起点は飯塚駅と呼ばれた現在の北高崎駅付近だという。それだと上州電気鉄道と同じではないか。方向も似ている。
関係はなかったのか。(満更無関係でもなかったような記載も散見された。)

安山岩の運送が主目的だともいう。だが、安山岩を人力でどこまで運べるものなのだろうか。坂なんかアブなくないか?
里見軌道地図.jpg流用で恐縮だがこんな図があって、朱が運行線、テンテンが未成線、この古い石造りの橋台は未成線の位置と概略一致する。
起点を見て下さい。前述のように、飯塚駅というのは現在の北高崎駅です。前に載せた上州電気鉄道も、最終起点が群馬八幡駅に落ち着く前は飯塚駅だった。
同じ方向に二つも認可されるものだろうか。


軌間は762mm説と1067mm説とあるのだが、JRが1067mmなので、さすがに手押しなら762mmだと思う。測ってないけど橋台もそれくらいの幅のようです。
だが、全線開通したとして、こんな莫大な距離を人力で走破できるだろうか。

私は烏川上流で運行していた里見軌道跡には行っていません。
そこには烏川上流に向かう未舗装の細い道があってそれが廃線跡だという。ある程度は他方面のサイト、Blogで実地調査されているようです。
問題なのはこの橋台です。上流の里見軌道とは10数Km以上離れているこの明治の橋台はホントに里見軌道のものなのだろうか。それとも別のもの?

それと、ブロックに銘打ってあった日付が明治四十三年だった。
上流で開業されていた里見軌道は前述の通り昭和になってからです。大正を含めて20年の開きがある。
この差は何なのか?
先にこっちの免許が失効しちゃったのだろうか。
第五合拡大.jpgまだある。
この橋台は、左文字でシブく”號五第”(第五号)と銘打ってある。
ってことは號四第(第四号)から號一第(第一号)と銘打った四つの橋台が必ずある、もしくはあった筈なんです。
それらは何処かにあるのだろうか。





以下、転用と推測で恐縮です。俄か調査なので、史実と異なる個所があったらご容赦願いたいのですが。
里見軌道の敷設目的は里見石と安山岩の輸送が主目的だったという。それと後年、烏川上流にある室田発電所の建設資材、導水路トンネルの資材運搬。
発電所やダム建設の資材運搬なら、それらが完成してしまえば用済み。だから運行期間が短かったのかと思えなくもない。

こんな情報もあった。里見軌道の前、明治28年(1896年)に西毛馬車鉄道という馬車鉄道が計画される。だがこれは立ち消えとなった。年号が明治だからもしやと思ったのだが。

中野軌道という計画線もあった。
これは大正2年(1913年)に、これまた当時、飯塚駅といった現在の信越線北高崎駅を起点とし、烏川の右岸を通って、小栗上野介が斬られた倉渕村水沼の先、三ノ倉までが計画された。
これも不許可。[バッド(下向き矢印)]
理由は、またまた別の榛名電気軌道という路線に既に許可が下りていたからだとか。「同じ方向に二つも要らん」といったところでしょう。
どうも烏川に沿って建設願望がワンサカあったようである。
(この榛名電気軌道は、前に紹介した上州電気鉄道のことだろうか。もうホント、アタマ痛くなってくる。)

ところが出願者は諦めない。
翌大正3年(1914年)、中野軌道の距離を短くして申請したのが里見軌道。
これは翌4年に認可された。メデタシメデタシである。では以下、時系列で簡略に列挙すると、
大正3年(1914年)8月、軌道敷設特許出願
大正4年(1915年)5月、敷設特許取得
大正5年(1916年)11月、会社設立(里見軌道株式会社?)
大正9年(1920年)、2月、会社、上州石材を設立(役員は兼務していたらしく、実質はこの会社が運営権を握っていたと考えられる)
大正10年(1921年)、8月、軌道工事完成、資材運送を開始する。

JTB発行の資料には、「書類上の開業日、廃止日は、実際の運行とは異なるものであったらしい」とあった。届出を怠ったか、延期願いを出していたか。
工事竣工届は大正13年(1924年)4月に出されたという。ノンビリしたモンである。
書類上は昭和6年(1931年)7月が開業日で、翌7年(1932年)に営業廃止。書類上はですよ。廃止はともかく開業届を出すのが遅れた理由もわからない。それではまるでヤミ営業ではないか。なので書類上は僅か1年に満たないが、実際は11年の営業だったようである。
11年間も人力、手押しだったのだろうか。他の動力は考えなかったのかね。でも開業区間が4.1kmだったから、屈強な男性ならそれくらいは可能でしょうか。

その後は会社が解散したか、上州石材に合併されたと推測されている。上州石材も昭和27年に清算されたのだが、並行してこんな話がある。
里見軌道が資材を運んで建設された室田発電所は現在は東電の管轄だろうが、大正年間、経営難だった上野鉄道(現:上信電鉄)の電力供給は室田発電所だったという。何か絡んでいないだろうか。
妖しい路盤跡の位置関係.jpgでは路盤は残っていないのだろうか。
號五第(第五号)橋台から西に、アヤシイ道を発見した。私有地の畑に沿った農道です。
軽トラックの轍がある。後でトレースしてみたら、この道の高さは、橋台と概略一致するようなんだな。
これは路盤跡ではないかと思ったりするのだ。レールも枕木も、バラストも釘も落ちていないけど。
この道からちょっと離れた畑で農作業してるオッさんがいた。
でも、忙しそうだったので訊けなかった。
明治後年のものなんて知らないだろう。





アヤシイ道1.jpgアヤシイ道2.jpg
アヤシイ道3.jpgアヤシイ道4.jpg
アヤシイ道5.jpgアヤシイ道6.jpg
では他の橋台はないのだろうか。
この場所、下里美は、烏川や国道406号線と並んで、雑木林の丘陵(雑木林)が東から西北に伸びている。その中にこの號五第(第五号)橋台があったのだが、他にも橋台他が埋もれていると考えらた。

これは納豆ピザの「多伊夢」から見た段丘で號五第(第五号)橋台から東への延長にあたります。
「多伊夢」の前が406号線で、木々や雑木林に埋もれた段丘が延々と西北の上里見に向かって続いているんです。裾には里見川が流れている。
多伊夢の向かい側の丘.jpg処理済~丘が続く.jpg
丘が続く2.jpg丘が続く3.jpg
その丘を縦に割る路地や水路とかがある筈。そこを渡った橋の橋台がないかどうか、號五第(第五号)から多伊夢の間、406号線から丘に入る細い路地を幾つか探して入ってみたんです。
そのうちの一つ、號五第(第五号)橋台から東へ1km辺り、406号が里見川を渡った欄干の脇に細い路地があった。川に沿った小道になっている。
小川の傍を歩く.jpg奥へ進む.jpg
坂を登って.jpg丸い石垣の擁壁路.jpg
あまり人が立ち入る道ではないようで荒れていた。木々も倒れていた。豪雨には川と豹変するのであろ。その道、坂を上がって右、段丘にある八幡霊園の突き当りに、左右に残る橋台があった。
ここにも発見!!.jpg逆光の橋台.jpg
右側.jpg左側.jpg
橋台を支える背後の石垣は城みたいに見える。
この時は號五第(第五号)橋台ほど驚かなかなかったけど、ジャングルの中で誰にも知られていない遺跡を発見した時ってこんな気分なのかな~なんてワクワクしましたよ。
で、竣工年月日は?何号橋台か?
明治四十三年五月竣工とあった。號五第(第五号)橋台の一か月後に完成したこの橋台、写真がちょっとボケてますが、おそらく號二第(第二号)。
風化してるからもしかしたら三かも。でもこれで、號五第(第五号)からここまでの丘を軌道、もしくはその跡が続いていたのは間違いないと思われる。
號五第(第五号)からここまでの間、この先に合わせてもう三つの橋台が存在する、もしくは存在した筈ではないか。
これも明治四十三年.jpg第二号(ボケてますが).jpg
凄い藪.jpgこの橋台の上は右側だけ登れます。
だが、そこも凄い藪だった。
蜘蛛の巣だらけ。すぐ隣のフェンス越しは広大な八幡霊園なので、そこを整備している作業員の声が聞こえた。
上がってみたら、フェンスの向こうは墓地とはいえ人がいる。日常、陽が当たっている。
だがフェンスのこちら側は木々に遮られてほとんど陽が当たらない。私のようなヒマ人が滅多に訪れるかどうかといった場所です。
だから人知れず残っていたのでしょう。


橋台はまだある筈だ。
この散策は、1日に踏破したわけではないです。空振りも含めて都合5回は来ています。ウチ1回のランチが納豆ピザだったんです。最後の方はもう憑りつかれたみたいになっちゃって、晩夏の猛暑と草いきれでようやく小休止した。
その前に、気になる個所があった。
だが、立ち入り禁止だったんです。
処理済~立ち入り禁止だった.jpgこの奥にないか?.jpg
私はこの先に、橋台がもう一つあるような気がしてならない。今は夏場なので自重しました。

謎の里見橋台の位置関係.jpg左の地図では”第三”となってますが、二かもしれない。せめて間にもう一つだけでも橋台をみつけたいものだが。。。

この橋台について克明に散策されて方のサイトが一つだけありました。
そのサイトには都合、三つの橋台が紹介されているのですが、二つは私と同じです。號五第と號二第(三?)です。
もう一つの橋台はサイトに紹介する前に偶然発見したものらしいが、改めて探しに行ったら何処だったかわかんなくなっちゃったそうです。
住宅開発とかで破壊されてなければ三つ目の橋台がある筈です。號四第か號一第か、はたまた號六第か。。。

私は図書館に行く度に文献を探した。
旧榛名町は倉渕温泉もろとも合併されたので、市内図書館で情報を検索したら、里見村史、合併前の榛名町資料があって、僅かながら里見軌道の頁があった。
大正三年、軌道敷設特許願の頁に、
「里見村ハ往古ヨリ里見石ト称スル石材ヲ産出シテ石量豊富殆ド無尽蔵ニシテ石質亦良好んアルヲ以テ各種ノ建築其ノ他ノ材料トシテ重用セラレ・・・」
大正四年、里見軌道路線実地調査複令には、
「里見軌道ハ信越線飯塚駅前ニ起リ国有線ニ沿フテ烏川ヲ渡リ其ノ右岸ナル仮定県道上ヲ走ルコト約八哩ニシテ県道ヲ離レ専用軌道ヲ以テ進ムコト約三哩里見村ニ達スル延長十一哩軌間二呎六吋ノ軌道ナリ。。。」
二呎六吋なら762mmで間違いないようですね。
県道とは橋台の麓を走る406号線のことでしょう。烏川右岸も一致します。
大正四年の里見軌道特許状の項、命令書第三条に「原動力ハ人力トス」とあった。動力で電気、蒸気、馬車、ガソリンは見当たらない。
総じて大正年間の記録のみだった。この橋台の記載、明治の記載は皆無だった。

では近隣で訊いてみるか。
でも何しろ明治である。知っている古老だってそうそういないだろう。
だがまてよ??知ってる古老がいなくても、古老から聞いた人っていないだろうか?

號二第(第二号)橋台近くには家はない。そこへ至る薄暗い小道は荒れていて、橋台は八幡霊園のフェンスに接して行き止まりになっている。人が日常、通行する道ではない。八幡霊園ができたことで廃道になったと思われるのだ。
県道側の入り口付近には廃屋と営ってるのか営ってないのかわからない果物販売店があるだけ。

號五第(第五号)橋台は抜け道、裏道になっている。くるまの通行もある。
だがこの県の住民は必ずくるまを持っていて、くるまでないと移動しない。徒歩で歩いてる人を見ないのである。
まさか走っているくるまを力ずくで止めて、「この橋台知ってる?」って訊くのもどうかと。
近隣に住宅地はある。でも新しく、地主が切り売りして分譲した感があるので、居住している方は近年に越して来たとしか思えない。
白昼、わざわざおとなうのもちょっとねぇ。
いきなり玄関口をドンドン叩いて出て来た家人に「あの橋台はなんです?」と訊くのもはばかられた。
改めて 第五号橋台.jpg改めて第二号橋台.jpg
明治四十三年竣工という過去は遠い。遠すぎる。
諦めかけたところで、一つだけ明かりが灯った。私は一人、この辺りに知人がいる。Tさんという男性で推定年齢60台です。
Tさんのは地元で同姓がた~くさんいます。私はTさんとある場所である件で知り合い、その際、「里見って房総半島の里見氏発祥の地なの?」って訊いたことがある。
Tさんは、「こっちではそう言ってる。でも、向こう(安房)は俺んとこだって言ってる(笑)」って笑ってた。

私はTさんの邸宅を訪れ、頃合い良く庭にいたTさんに橋台の写真を見せた。
「あの山の中の二か所にこういう建造物があって・・・橋の台なんですこれ。桁が渡ってたんだと思います。昔、電車が走ってたんですか?」
敢えて人者軌道とは言わず電車と言ったんです。
Tさんは首をひねった。
「いやぁどうだろ。でも待てよ。昔、電車を走らせるって話はあったってきいたねぇ。板鼻ってところに橋の台があってさ。それがこっちに伸びてくるって」
それは上州電気鉄道のことに違いない。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2

「板鼻からこっちへは山を越えるじゃないですか。それとは別に、前の山を向こう(東)からこっち(西)へずーっとあったらしく、山ん中に二か所、この橋台があるんです」
Tさんは、號二第(第二号)橋台の写真で固まった。
「これって・・・???」
「八幡霊園の側にあるんです」
「昔、水道管を渡らせたものだな」
水道管の橋?
ちょっとズッコケた。明治四十三年に?
明治のいつだったか、横浜みたいな海の埋め立て地で、井戸を掘ったら水が塩辛くて飲めない土地には水道整備が急がれたが、ここは瑞々しいところです。やたらと川が多い。川だらけだからね。
でも改めて写真を見直したら、確かに水道管らしき丸い管は載っかっていた。セメントで蓋をされていた。雨どいみたいな細い管が降りていた。
水道管の跡右.jpg水道管の跡左.jpg
でも管が新しく見える。水道管橋は廃止後の再利用ではないか。確かにそういう橋はある。前は軽便の小さい軌道の橋台が水道管や人道橋として第二の人生を送るケースはあります。

鉄道、軌道じゃなかったのだろうか。
「でも、走らせるって話はあったように思うよ」
「何故、中止になったんでしょうか。金がなかった?」
「さぁ。でも無理でしょここに敷いたってさ。だって利用する人がいないもん」ってTさんは笑い出した。
「もう知ってる人っていないですよねぇ。」
「いないと思うよ。お祭りん時に一緒に(仕事を)やったあの人なら知ってっかなぁ」なんて言ってたけど、聞き取りはここで終わっています。
残念ながら噂、伝承の域を出ませんでした。
五号橋台を正面から.jpg二号橋台右を正面から.jpg
私は今でも里見軌道未成線はこの段丘の何処かを通るべく計画され、残る橋台もこの緑の丘に眠ってると思っています。
それは烏川上流で稼働していた里見軌道と同じ路線なのだろうか。
そうだとしても、明治43年竣工と、里見軌道株式会社設立の大正15年、この9年間のズレは何か?
謎が解けないのだ。
それは半永久的に解けないかもしれない。それでも私は、立ち入り禁止で断念した小道を含めて残る3つの橋台を探しています。あの立ち入り禁止の路地、草が枯れた晩秋か冬に踏み込んでみます。
この丘に眠っている1.jpgこの丘に眠っている2.jpg
この山の何処かに眠っているんです。明治~大正~昭和~平成。。。100年も草に埋もれている鉄路の夢の跡が。。。
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似非師匠

続編 拝読いたしました。
船山周辺の取材もそうですが、史家さんのいつもの丹念な記事には
本当に頭が下がります。
取材とはかくあるべしとの念を更に強くいたしました。
私などは、明らかに旧(廃)線の跡だと分かっているところをトレースするだけですので
(それはそれで歴史の一コマに触れられるのでしょうが)、「想像」の分にも大きくウエイトがある(?)
史家さんの手法にただただ感服するばかりです。
貴重な記事を読ませていただき、ありがとうございました。
by 似非師匠 (2012-09-03 10:59) 

ナワ~ルド@峠おやじ

はぁぁ、凄いですね。

こんな立派な橋台が残っているなんて、
しかもこの「號」の字とか右から書きとか明治ですねえ。

廃鉄の自転車仲間もここまでやってません。
不整地に分け入るときはゴア靴、軍手、冬~春先がよろしいです。
自転車がないだけましです。

一昨日そういう旧道に分け入りました。
大したことがなくて助かりました。蜘蛛の巣だらけにはなりましたけど。
by ナワ~ルド@峠おやじ (2012-09-03 13:36) 

ヒロ

完全に山いがの世界ですね。
ヨッキれん氏はここをご存知なのかな~?
彼なら綿密な調査をしそうな気がします。

by ヒロ (2012-09-03 20:13) 

船山史家

宗匠さまこんにちは。
またまた持ち上げて下さってありがとうございます。

この紀行記は線上を全部はなぞっていません。ポイントだけ抑えての現地調査、文献検索、現地住民からの聞き取り、クエスチョンの数々・・・
今でも立ち入り禁止の小道が気になっているので、まだ見ぬ残り三つの橋台を晩秋か初冬に再度、探してみます。

それと一部の箇所でこの丘陵を伐採する作業が見られるんですよ。運転しながらつい、何か見えないかな、出て来てないかなって横を向いてしまうんですね。
でももう新しい発見はないかも知れませんが。。。
またよろしくお願いします。
by 船山史家 (2012-09-04 13:24) 

船山史家

ナワさ~ん。
第二號(三號?)橋台へ行く道はくるまが入れないのですが、第五號橋台は信号のある交差点の抜け道を入った坂の途中にあるので手軽に行けます。くるまも停められます。
橋台の前に立って見上げてると何故か心が落ち着くんですな。「お前さんはなんなんだい?」って心中、話しかけたりして。
橋台の前に立って、「誰か来ないかな。ハナシを聴けないかな」って待ってるんですが、若干通るくるまは走り過ぎてしまってこのシブい建造物を気に留めないです。通行人もゼロでした。

“號”ってシブいですね。
今度、この漢字を使ってやろうかな。ただでさえ漢字に疎いYokoなんか「トラって読むんですか?」って絶対言いますよ。
by 船山史家 (2012-09-04 13:40) 

船山史家

ヒロさん。
“山いが”のヨッキれん氏の掲示板にどなたかがこの里見軌道の橋台について書き込んでましたよ。
ヨッキれん氏と私は通じていませんが、あの方は命かけてますからねぇ。これぐらいだと物足りないかも知れません。

残りの橋台は何処にあるのか。明治後半に何を目的で建造されたのか。こっちの赴任期間が終了するまでに、この二つがの謎が解ければいいんですが。
by 船山史家 (2012-09-04 13:41) 

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