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寺尾中城 [隠れ郷土史]

寺尾五城の位置関係(カラー).jpg新幹線で滑り込む車窓の左側に10数キロに渡って続いく連続した丘陵があって、観音様の北から高崎商科大学に至る広大な地域に、寺尾五城という要塞群が、ある程度の距離を置いて配備されているのを知った。

1.寺尾上城(乗附城)
2.寺尾中城
3.茶臼山城(鷹巣城)
4.根古屋城
5.寺尾下城(山名城、寺尾前城とも)

このうち、4.は信玄が作った。
3.5.はもともとあったのを信玄が改修した。
4.5.はかなり有名。散策コース化されてるのでそのスジのサイトに譲りますが、あまりメジャーでないのが1.2.3.
私が今回行ったのは2.です。寺尾中城

(余談ですが、3.も行きました。コンパクトで訪城しやすいです。 問題なのは1. これは相当な難城だった。見つけるのに3回を要した。山の周囲をウロウロしたが、おっそろしく草ぼうぼうで今日まで訪城口が全くわからない。 登った人のサイト情報も極少で、地元に住んでる人も存在を知らない幻の城塞。。。)

鎌倉幕府事績を記した「吾妻鏡」に、「治承四年(1180年)九月三十日、新田義重ガ兵ヲ寺尾城ニ集メ頼朝ノ召喚に応ゼズ」という記載があるそうです。
新田義重?
義貞の祖先だろうか。
召還に応ゼズ?さっさと行けばいいのに寺尾城で何してたのか?
日和見的態度だったのである。
もしくは頼朝をナメていたのか。後で慌てて参上するが、当然、頼朝の不興をかった。
一方、同族の足利氏はサッサと召喚に応じている。平治の乱~伊豆に流され辛酸を舐めただけに頼朝はこういうのは後々忘れない人なのだ。根に持ったに決まってる。この出仕のタイミングのズレが後代まで尾を引き、足利と新田の処遇の差となる。
鎌倉に行かずにいたグズグズしていた場所、寺尾城というのが、この1.2.3.のどれか。可能性高いのは2.
それより後年、南北朝時代、尹良親王(タダヨシシンノウ)という後醍醐天皇の孫が南朝より源朝臣を賜姓され征夷大将軍右近衛大将となり、各地を転戦する過程で関東での南朝の橋頭堡として整備されたのが、1.2.5.。。。
流浪の征夷大将軍と呼ばれた親王は、2.寺尾中城で20年間も抵抗を続けた。
寺尾中城縄張り.jpgハイキングコース入口.jpg2.の寺尾中城は場所までなら訪れやすい。
公園化された観音山ファミリーパークの中にあるからです。
公園の中というか、公園の端っこにあった。
無料の観音山ファミリーパーク駐車場に車を停め、炎天下のを公園内を歩いて行く。これが結構な距離だった。
広大な芝生の敷地では大学生が青春を謳歌しながら球技に競ぎ、嬌声、歓声が挙がっていた。
(私にもかつてそういう時代があった筈だが。。。)
目指す寺尾中城は公園内の“癒しのエリア”に組み込まれ、里山の散策コースとして整備されている筈だった。
コースは3つ(北・中央・南)があり、中央コース(約1km、所要時間40分)を歩けば城内5つの郭を全部制覇することができます。
ところが。。。
この山城、郭が連郭式なんです。連郭式ってのは、細長い山の尾根に連続して並んでいる。纏まってないんです。。
後でわかったんだけど、駐車場から寺尾中城まで歩き、連角式の郭5つを制覇するには、公園の端から端の更に先まで歩いてまた戻って来ないと生還できない莫大な距離だったのだ。

ありゃ?立ち入り禁止のロープが張ってある。封鎖されてるぞ.jpg寺尾中城へ.jpg
コースへ踏み込む.jpgコースは続く.jpg
何かのマチガイだろうと無視して踏み込んだ。
コースは整備されている方だと思う。すぐに本郭が現れる。
本郭へ1.jpg本郭へ2.jpg
本郭1.jpg本郭2.jpg
UPDOWN.jpg解説版.jpg
堀切1.jpg土塁?.jpg
一番最初に本郭が現れたので、そこで引き返せばいいものを引き返さなかった。先へ進んだ。そしたらニの郭辺りからUpDownが相当あった。結論から言うと、コースは五郭で途切れて一旦、谷に降りて、また公園のある高さまで登って延々歩かないと戻れないのです。
水を別途、持っていった方がいいです。
それと、お子さんは無理しない方がいい。はしゃぎまわったら転落しそうな箇所が幾つかある。だから通行止めだったのかもしれない。
郭も本郭以外は殆ど削平されていない感じで自然地形に近い。北条や武田の手が加わっていない古いタイプ。
尾根の道.jpg堀切2.jpg
連郭式だから迂回路なんかない。延々先に行くしかない。
幸い全体の距離に対して今いる場所がどのくらいかという大雑把な表示があった。10/20という表示なら半分まできたということ。
二の郭へ.jpg二の郭.jpg
三の郭へ.jpg三の郭.jpg
あまり技巧のある縄張りとはいえない。
両側が切り立った丘陵の、細い尾根上のやや広い部分に無理矢理5つの郭を設け、その郭間を堀切で断ち切るという単純なものだった。
何人の兵が駐屯できたのだろうか。
親王は日ごろ、何処に居住していたのだろうか。

三郭と四郭の間に長さ20mの細い土橋があって、両側が遥か下の方まで落ち込んでいる。
落ちたら命はない。。。こともないだろうけど、相当な怪我はするだろう。
ガキは行かない方がいい。黄色く細いロープが張ってはあるが、ガキはロープの中から落ちてしまうに違いない。
土橋.jpg滑落したら最後.jpg
四郭と五郭の辺りでかなり疲れたので、写真が少なくなっています。
四の郭.jpg五の郭.jpg
危険区域.jpg大堀切.jpg
五郭の先は危険区域で立ち入り禁止だった。さすがに疲れたのでそこから先は自重したが、帰りのコースはそこからこれまで来た道を戻るか、一旦、谷に降りて公園の北側に這い上がるしかない。
谷に降りた。
膝が少しガクガクしている。
渓谷を歩く.jpg渓谷から登る.jpg
公園化されてると侮ってナメたのが失敗だった。汗が流れ、喉がかわく。
幸い、木々に日差しが遮られて入るが、風すらそよとも吹かない。
熱中症、脱水症になる危険ってのはこういう時かもしれない。
コース表示に従ってしばらく谷底を歩いた。先が見えない。駐車場までどれくらいなのか。何処まで歩けばいいのか。
くたびれたので写真を撮る気力もなかったのだが、ふと気付いたら私が歩いてるこの谷は、今は枯れてはいるけど歩道にまで泥水が流れた跡があるので、大雨時には出水して激流の沢になるようです。

階段があった。這い上がるように登ったら、廃道のような舗装道に出た。
そこから延々、公園まで歩くんです。
左手には今、歩いて来た寺尾中城が見える。
この廃道を15分ほど歩いて公園に出たら、そこにも立ち入り禁止のロープが張ってあった。やっぱ入っちゃいけなかったんですかね。(^^;
遠望1.jpgやはり立ち入り禁止.jpg
そこから先がまた長く、延々、駐車場まで歩く。足が上がらないんだな。
公園内を歩く.jpg駐車場は何処だ?.jpg
左手にはまだ寺尾中城が見える。
遠望2.jpg遠望3.jpg
暑いぃ~。[たらーっ(汗)]
喉が渇いた~。[たらーっ(汗)]
すっげー疲れた~。[たらーっ(汗)]
足が上がらないぃ~。[たらーっ(汗)]
アタマのてっぺんから汗が流れる~。[たらーっ(汗)]
歩き疲れた私の横を大学生(陸上部?)が走っていった。往路前に嬌声を挙げていた若い学生たちはまだ球技に興じていた。若さを横目に見ながら「俺ぁ一人で何してんだ?」って思わないでもない。
駐車場脇に自販機があって、ペットボトルの水をガブ飲み、アタマっからジャバジャバ被ってしばらくしたらようやく人心地がついた。タオルなんか持ってないので自然乾燥に任せたが、くるまん中も暑く、アタマはすぐ乾きましたね。
公園にあるとはいえ侮るなかれ。行く方は自己責任でお願いしますよ。
コメント(6) 

コメント 6

ナワ~ルド@峠おやじ

いやあ、探検記、峠越えみたいで面白かったですよ。
山道の場合、基本的に似たような仕儀になりますからね。
しかし、これだけ道標が整備されていると、道端施設としては
熊野古道みたいです。

頼朝から見た足利と新田の処遇の差なんてところは
さもありなんと思いますね。

by ナワ~ルド@峠おやじ (2012-08-12 22:22) 

船山史家

ナワ~ルドさんまいどどーもで~す。
この場所は公園と山城の侵入口が最初は同じ高台にあります。公園まで悠々くるまで行って、駐車場から公園の端まで歩き、そこから尾根に踏み込むんですが、公園敷地内の延長だろうというタカぁくくってたのと、入ってすぐに本郭に出るので、「他も楽勝だゼ」と思ったらそっから先はどんどん罠にハマっていきました。

最後の物見郭、この辺りから谷へ下りて、薄暗く干上がった沢の道を延々と歩き、途中に階段があってそこをゼイゼイ登って、廃道みたいな坂道をまた延々歩いたです。たどりついた公園の別の入口は城山の比高と同程度の高さなので、結局私は山城から谷まで下りて、また山城の高さまで再度、登ってるんですね。

谷に降りず、来た道を尾根伝いに戻った方がよかったのかも知れません。最後は足が上がらなくなりましたから。
by 船山史家 (2012-08-13 11:08) 

雨曇子

八犬伝に取り付くまでの序論として拝見。
歴史は想像力といいますが、
ある程度資料がないと想像も沸きませんので助かります。
遠い先祖の話。
by 雨曇子 (2012-12-07 08:57) 

船山史家

雨曇子さんのご先祖って新田氏にたどり着くのかな?
私も南北朝時代ってのはサッパリでしてね。この城塞は古いタイプで、崖は険しいけど居住には向いてないし、小さい郭が尾根に連続してるだけで、攻められてどこかを分断されたら、そっからほころぶような城塞でしたよ。
私みたいに無理しないでくださいね。
by 船山史家 (2012-12-07 20:51) 

雨曇子

三河松平村の土豪を先祖に持つ徳川家が、上州新田氏、その先をたどって清和源氏としたのは、家系の贋作というのが定説。私が「祖先」を持ち出したのは、里見氏になって考えたから。
by 雨曇子 (2012-12-08 08:39) 

船山史家

雨曇子さん。
贋作でない家系は、鎌倉御家人時代から続いている家柄に絞られるかもしれませんね。相馬氏、南部氏、島津氏、佐竹氏。。。
私の家系はよくわかりません。大火で燃えたそうです。
by 船山史家 (2012-12-08 20:14) 

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